#34 雪原のアルケミスト④ 不完全な魂
張り詰めた静寂が、この研究室の中を満たした。炉の中で揺らめく火以外に、動くものはなくなってしまう。
プロコーピー博士は瞠目して言葉を失っていたが、少年の救いを求めるような眼差しを受けて、ぎゅっと瞼を下ろした。
「君が……私のところへ来た理由がわかったよ」
大きく息をついた博士は、ゆっくりと目を開ける。
「君の父が魔物に襲われて亡くなったと聞いたとき……私はそれは表向きの事情で、本当は自分の研究の失敗で命を落としたのではないかと思ったのだ。だが――」
うつむきがちに沈痛な表情を浮かべるヤーラ君へ、博士が視線を落とす。
「……わかった。来なさい」
すべてを察したように博士はそう言って、弟子の人たちに簡単な指示を出してから、この部屋を後にした。
私たちが案内されたのは、さっきとは別の研究室だった。部屋自体は広さはあるものの、所狭しと並んだ本棚や積み上げられた資料、そしてガラス張りの大きな装置が存在感を放っていて、どこか圧迫感のある内装だった。窓もなく、薄暗い。
「ここは……?」
私が尋ねると、プロコーピー博士は苦々しい吐息を挟んで答えた。
「人間の過ちの歴史だ」
よく目を凝らせば、本棚に並んでいるのはホムンクルスに関する本ばかりだった。ここは、じゃあ――
「ホムンクルスの研究室、ですか?」
ヤーラ君の問いに、博士は黙って頷いた。
「生命も分解していけばただの物質だ。ならば、その物質を正しく操作すれば生命を生み出せるはずだと……かつての私はそう考えた。それが浅はかだった」
罪を告解するかのように、博士は淡々と語る。
「昔の錬金術では、細胞を腐敗させて血を与えればホムンクルスができるとされていた。今では肉体を用意して魔力を適切に込めれば、ホムンクルスのような生命体が生まれることがわかっている。……理論上、だが」
本棚の中からひときわ大きな本を出して、テーブルの上に広げた。何やら小難しい説明文がぎっちり羅列されていて、ページの真ん中に不思議な図がある。三角形のそれぞれの頂点に、マークのようなものが描かれた図だ。
「これが何を表してるか、わかるかね」
「硫黄と水銀と塩ですね」
「さすがだ。かつての錬金術師は、世界はこの3つの物質から作られていると考えていた。同じように、人間もこれに対応する3つの要素から成り立っている。それはすなわち、肉体、精神、そして魂だ」
皺だらけの指が、世界の構造を表した三角形をなぞっていき――1つの頂点で止まる。
「古今東西あらゆる錬金術師が生命を生み出そうと奮闘したが……この、魂だけはどうにもならなかった。死骸に魔力を入れたところで、魂のない化物になるだけだった」
私はヤーラ君のホムンクルスを思い出していた。不定形の、恐ろしい姿をした怪物のような……。
「数えきれないほどの実験と失敗を繰り返した。自ら実験台になると申し出た弟子は、二目と見れない姿になって死んだ。足をつくってくれと頼んできた両脚のない女性は、化物となって始末されることになった」
「……カミル先生」
ヤーラ君がはたと何かを思い出したようにその名を呟くと、博士もぴくりと白い眉を動かした。
「知っていたかね。彼も私の弟子だった。かつては、だがな……」
最初にホムンクルスについて相談したとき、カミル先生が苦々しそうな顔をしていたのをふと思い出す。この悲劇の技術に狂わされた人間が、どれほどいるのだろう。
「魔力とは魂の力の発露だ。それなのに、生命に魂を入れられないとはおかしな話じゃないか」
博士は自嘲気味に皮肉を言った。
積みあがった手書きの記録、年季の入った器具や装置、膨大な資料……それらすべてが、博士がホムンクルスの研究に費やした年月と熱意を物語っていた。そうして辿り着いた結論は、なんて虚しいものなんだろう。
「君たちが思っているより、私はホムンクルスに関して無知なのだ。そのうえで……私にできることがあるというのなら、君の話を聞かせてほしい」
「……」
胸の内に苦悩を渦巻かせているような顔で、ヤーラ君は親指の爪を強く噛みしめる。
やがて意を決したようにボロボロの爪を離して、震える声で淡々と語り始めた。
それは、私がレオニードさんから聞いた話とほとんど同じだった。
弟と一緒に地下室に閉じ込められた。そのまま何日も放置された。極限状態で、意識も曖昧になって、気がついたらホムンクルスが生まれていて……そして、彼だけが残った。
話すのも思い出すのも辛いのだろう、ヤーラ君は端的に状況説明だけを連ねていったが、その裏にどれほどの悲愴な想いが隠されているかは痛いくらいに伝わってきた。
すでに事情を知っている私でも、胸が潰れそうな感覚を堪えるのがやっとだった。この悲惨な顛末を初めて聞く博士はといえば、言葉も表情も失ったまま棒立ちになっていた。
重い沈黙が横たわる。部屋の薄暗さが博士の顔を染めた。表情は見えないまま、か細い声だけがこぼれ落ちた。
「……すまない」
どうして博士が謝るのだろう。ヤーラ君も不思議そうな眼差しを闇に溶けそうな老人へ送った。
「君の父を……そこまで追い詰めたのは、私かもしれない」
暗がりに浮かんだのは、深い悔恨の念。
「ホムンクルスは夢の技術だ。だが、完璧な――魂のある生命を生み出すことは、誰にもできなかった。いくら研究に費やしても、成果が得られなかったということだ……。私がこんなものを勧めなければ、君の父は……」
「博士が悪いわけでは――」
「いや、現に君はこんな辛い思いをすることになった。子供がそんな目に遭うなんて、間違っている……」
しばらく博士はじっと悲嘆に暮れていたが、負の感情を振り払うように首を振ると、大きく息を吐き出した。
「過去は変えようがない。これからどうするかを考えねばな。目下の問題は、君のホムンクルスが、君の制御を離れて暴走してしまうことだな」
「……はい」
薄暗闇の中で、博士のまっすぐ伸びた人差し指が浮かんだ。
「現在の製法では、術者の魔力の性質や操作がそのままホムンクルスの性質に直結する。特に君の場合は自分の魔力と同化しているほどだからね。そして、魔力とは魂の力だ。暴走を止めるには、魂を進化させるしかない。鉛が金に進化するように」
「それは……どうすれば?」
「……私もまた、不完全だからね」
博士は申し訳なさそうに、力なく笑う。
結局は、自分自身の問題――当然と言えば当然の着地点なのかもしれない。
「だが、大切なのは、自分の魂と対話をすることだと……私は思っている。そのためには――」
一縷の希望が見えたかのように、ヤーラ君が博士を見上げた。だけど、その教えはそれ以上は続かなかった。
突然の来訪客によって、話が遮られてしまったからだ。
音もなくやって来たその客人は、この奥まった研究室にノックもせずに入ってきた。私たちが驚いたのは言うまでもない。単にいきなり現れたから、というだけではなかった。
私は、その女の子を知っていた。
街に来た当初、宿を探しているときに出会った――感情のない、不気味な少女。少しだけ開いたドアの隙間から、ガラス細工のような両目でこちらをじっと覗いている。妙な寒気が背筋をじっとりと撫でていく。
私とヤーラ君が凍りついているその間を縫って、プロコーピー博士がその女の子に近づいていった。
「マトリョーナ! どこに行っていたんだ。また街のほうかい?」
博士は女の子の前で屈み、両肩に手を添えて顔を覗き込む。マトリョーナ、というのが女の子の名前らしい。ということは、この子は博士の家族……?
「その子、お孫さんですか?」
「いや、孫というわけではないんだが……すまないね」
博士はそう断って、女の子の髪や服についた雪を丁寧に払いながら何か話しかけていた。孫でなければ歳の離れた親子だろうか、そのくらい親密に見える。
「エステルさん」
気の抜けかけた私に冷水を浴びせるように、ヤーラ君がひどく怯えた声で呼ぶ。見ると、顔色は真っ青のまま震える目だけが女の子のほうに釘づけになっている。
私も視線の先を追って、同じように血の気が引いた。
博士の皺だらけの手に撫でられて横に流れた前髪の、その隙間から見えた――痣。
牢屋でレメクに操られていた番兵の額にあったものと同じ、黒い痣だった。




