#13 名もなき化物⑩ 不吉な名前
「ぎゃああああっ!!!」
シグルドの長身に覆いかぶされて、トマスはその悲鳴以外に状況を把握するすべはなかった。しだいに周囲のどよめきが大きくなる。
ようやく声のしたほうが視界に入ると、毛を逆立てて興奮しているミアと、切り裂かれた腕が皮一枚でかろうじて繋がっているほどの重傷を負った――知らない男がいた。
床には男が持っていたらしい刃物が転がっており、いつの間にノエリアが首元に剣を突きつけている。
「こいつはトマス皇子を狙った殺し屋だ!!」
周囲に知らしめるように大声を上げたのは、一体いつからそこにいたのかわからないが、間違いなくロキだった。
「なっ!? お前、騙しやがったな!?」
殺し屋と明かされた男は、ロキに向かって何やら喚いている。当のロキは一切応じず、警備員らしき屈強な男たちを誘導している。
――あの殺し屋、あいつが仕込んだんじゃないだろうな。
大勢の注目の中で男が警備員に連行されていくのを見届けたロキは、したり顔でこちらに歩いてくる。
「やあ、皇子様もお人が悪い。自分を狙っている殺し屋をあえて誘い出し、仲間に仕留めさせるとは」
覚えのないわざとらしい称賛に、トマスはピンと来る。
「ああ、いやなに。みんな、ご苦労だった」
「これで皇子様に歯向かう愚か者どもがどんな目に遭うか、知らしめられたかと」
その嫌味なニヤケ顔は、青ざめてすくみ上っているラックたちに向けられる。
「おっと。誰かと思えば、あの馬鹿でかい魔物から逃げ出したラックさんじゃないですか~」
「何!? 僕たちは逃げたわけじゃない!! 君たちが嘘を――」
「その件で土下座して謝罪する約束だったよねぇ。それで皇子様と話してたんだろう? ほら、さっさと頭下げなよ」
「なっ……」
なんて性格の悪い奴だ。トマスはいっそ感嘆する。殺し屋をけしかけて騒ぎを起こし、奴らに魔物から逃げたという汚名を被せた挙句、衆目の集まる中で土下座させようってのか。
が、ラックに同情する義理はない。トマスもその目論みに全力で乗っかるつもりだ。
「――あれを見て、まだあんな小さな子供が魔物を倒せるわけがないとのたまうか?」
大の男の腕をほとんど切断しかけたミアは、その鋭利な爪を真っ赤に染め上げ、血の雫を垂らしている。
「っ……。わ、わかった。後日! また後日に詫びを用意しよう」
この場は逃げ出すつもりらしい。
しかし、そんなことを許すはずもないロキは、ラックに近寄って小声で耳打ちをした。
「ところで君、――……って、本当?」
はっきりとは聞き取れなかったが、ラックは冷や汗を流して凍り付いている。
「な……なぜそれを。誰から聞いた!?」
「個人情報は明かせないなぁ。ボクも商売でね。それで? この場で恥を晒すのと、あとでその恥ずかしい話が広まるのと――どっちがいい?」
「くっ……!!」
ニヤニヤ笑っているのは口元だけで、ロキの目は有無を言わさぬ迫力がある。
果たして、ラックは観念して膝をついた。
「すっ……すみませんでした」
ラックの取り巻きたちも促されて不服そうに頭を下げている。
当のミアは、汚れた手を拭きながらぽかんとその光景を見て――太陽のように、笑った。
「気にしなくていいよー! だって、おんなしユウシャだもん!」
なんやかんや、ロキもミアを馬鹿にされて怒っていたのかもしれないな、とトマスはふと思った。
◆
「スレイン・リードから貰ったネタで、一番くだらないのを使う羽目になるとは思わなかったよ」
ロキは可笑しさをこらえきれない様子でくくっと笑う。
「あれはスレインからのリークなのか。図らずも、ラックへの報復になったわけだ」
さっきの無様さを思い出し、トマスも痛快な気分になる。
夕刻の川べりには、2人のほかはほとんど人の気配がない。遠くにのんびり釣りをしている青年が見えるくらいだ。
こんなところに呼び出して何も用事がないはずはなく、ロキはさっそく本題を切り出した。
「あのでっかい魔物さ……カミルから何か聞いたかい」
「カミル?」
「協会の錬金術師」
「ああ。あれは新種の魔物じゃなくて、人工的につくられた――ホムンクルスみたいなものだと言ってたな」
「そうだね。そして、奴は明らかに君を狙っていた。霧の中でも君の居場所がわかっていた。どうしてだろうね」
「あらかじめ、俺のにおいを覚えさせていたとか?」
「どうやって」
「俺の私物か何かを使ったんだろうな」
「それを用意できる人間は?」
トマスはそこではっとした。そんなの、自分の身近にいる人間にしかできないじゃないか。
「君の知り合いで、錬金術の心得がある人に覚えはないかい」
トマスは真っ先に浮かんだその名前を否定したかった。
しかし、ロキの真摯な眼差しは、すでにその人物が今回の黒幕だとを突き止めているであろうことを示唆していた。
観念して、その名を呟く。
「――オットリーノ……なのか」
幼少の頃から面倒を見てくれた、心優しい好々爺の顔が浮かぶ。
何かにつけて大げさなくらい褒めてくれて、すぐに感極まって涙を流すあの純朴な老人は、昔は錬金術の研究をしていたらしく、目の前で実験を披露してくれたこともあった。
「さっきの間抜けな殺し屋。その名前を出したら、すぐにボクを仲間だと勘違いしてくれたよ」
「……」
オットリーノが敵。それはもう、覆しようのない事実だということだ。
どうして。そんなことをここで問うても仕方がないのだが、考えずにはいられない。――どうしてだよ、爺。
「――ダークエルフの王様みたいにすべてを失いたくなければ、身近な人間が敵に寝返ったときの覚悟を決めておくことだね」
ずしりと重たい言葉を残して、冷徹な情報屋は姿を消した。
◆
――そんな覚悟、そうそう決められるもんじゃないけどね。
自分で言っておいて難だけど、とロキは思う。人間の価値観などすぐに変わるものではなく、しかし変わるときは極端に変わってしまうものだ。
さて、これでトマスが何もかもを信じられなくなったら――と一瞬危惧するが、それは杞憂になるだろう。
彼のそばには、ミアがいる。
あれはエステル・マスターズと同じ部類の人間だ。10歳という幼さに似つかわしい純真さ。権謀術数の世界とは無縁のところにいる。
人を安心させ、人に信頼され、人から愛される――ロキとは真逆の人種。
だが、そんな純粋な人間が、いったん黒に染まるとどうなるかというのも知っている。
近くで見る帝都の川は、思ったよりも汚い。こんなところで釣りをしている男の気が知れないが、ロキは彼の正体を知っているので、滅多なことは言いたくない。
「こんな場所で魚なんて釣れるの?」
声をかけると、男は垂らした釣り糸から目を離さないまま答えた。
「最近は全然。さっきから俺のこと見てたみたいだけど、君は誰だい?」
「ボクはロキ。情報屋さ」
「君が偽名を使うなら、俺も名乗らなくていいかな」
穏やかながら、警戒しているような声。ロキは彼を怒らせたくないので、こちらの要求をどう伝えるべきか、少し思案する。
この駆け引きは重要だ。しかし本名だけは名乗りたくない。
本名を呼ばれると、オークに攫われる。
そんな迷信じみた話を本気で怖がっていた純真無垢な妹が、「ロキ兄さん」から「ルーカス王陛下」と呼び方を変えた後――すべての歯車が狂っていった。




