一話
わたくしは昔から明朗快活なある人が好きだった。
この方は水之江 弓月様といい、兄である多臣 真夏の親友でもある。弓月様はわたくしより三歳上の青年で今年で二十歳になっていた。優秀な文官であり陰陽師でもある。今は平城の都から平安の都に遷都されてから十五年が過ぎたくらいの頃だ。わたくしは平城の都で生まれ、平安の都で育った。けど平城の都で過ごしたのは二歳くらいの頃で当然ながら記憶がない。平安の都の方が親しみがある。そんなこんなでわたくしはため息をつくのだった--。
「……木綿乃。今日は吉報があるぞ!」
そう言ってわたくしの部屋にやってきたのは兄の真夏だ。背が高く顔立ちも厳ついが。性格は明るくおおらかだ。目が薄い琥珀色をしているわたくしにも気さくに声をかけてくれる。御簾ごしでもにこやかに笑っているのが見えた。
「……いかがなさいましたか。兄上」
「ああ。やっと父上が弓月とお前の婚約を認めてくれたんだ」
「え。父上が?」
わたくしは驚きのあまり声をあげてしまう。兄は笑みを深めた。
「本当だとも。よかったな。木綿乃」
「……ですけど。確か、弓月様には想い人がいらしたはずです」
「……五十鈴とかいう女人の事か?」
兄の表情が一気に険しいものになる。わたくしはそれを見て失言をした事に気づく。ああ、素直に喜べない自分が恨めしい。
「ええ。わたくしと婚約しても弓月様は喜ばないでしょうし」
「木綿乃」
「わかっています。弓月様がわたくしを嫌いな事は」
苦笑しながら言うと。兄は口をつぐんだ。しばらく静寂が訪れた。
「……あまり自分を卑下しなくていい。木綿乃は俺の目から見ても十分美人だ。性格だっていい子だしな」
「……ありがとうございます。兄上」
「弓月が阿呆なんだ。木綿乃みたいに一途に想ってくれている娘がいるというのに。遊び女にうつつを抜かして」
兄の言葉を聞いて成る程と思った。周囲が五十鈴殿にいい顔をしなかったのは彼女が平民であり遊び女だったからだ。遊び女。一夜の夢を殿方に見せる事を生業にする女人達。弓月様はそんな人に夢中なのか。一気に落胆してしまう。
「木綿乃。先ほど言った事は気にするな。いずれ弓月の目も覚めるだろうから」
「わかりました。わたくしも努力はしてみます」
頷くと兄はほっとしたように笑う。わたくしも笑ったのだった。
それから十日が経った。弓月様が兄と共にわたくしの元にやってきた。眉目秀麗で涼しげな雰囲気の弓月様と厳ついけど精悍なと言えなくもない兄が並ぶと女人が騒ぎそうな組み合わせだ。わたくしは扇で顔を隠す。
「……木綿乃。弓月を連れてきたぞ」
「わざわざありがとうございます。兄上」
「これくらいはお安い御用だ。礼はいいぞ」
兄は快活に言った。弓月様も微笑んだ。
「……本当に姫とは仲がいいな。真夏は」
「お前も妹に声をかけてやれよ。せっかく婚約したのだし」
「わかったよ。すればいいんだろう、すれば」
ちょっと言い合いをする二人を見てすうと心が冷えていく。やはり弓月様はわたくしとの婚約を嫌がっておられるのだ。
「……気を使わなくて構いませぬ。わたくしとは表向きの夫婦でもいいのでしょうね」
「姫」
「あなたがわたくしをお嫌いなのはよくわかりました。気分が悪しくなりました。兄上。弓月様のお相手をお願いします」
「……木綿乃!」
「……失礼致します」
兄の呼び止める声を無視して奥に入った。膝でにじり寄り御帳台を目指して進む。けど膝で進むのも嫌になり立ち上がる。歩いて奥に繋がる襖障子を開けた。閉めてから御帳台に近づいた。几帳の隙間から入り込むと上がり横になる。はらはらと頬を涙が伝う。次から次へと出てくるそれを袖で拭った。声も出さずにしばらく泣いていたのだった。
しばらくして女房が遠慮がちに声をかけてきた。
「……姫様。起きてくださいませ」
「……どうしたの。伊予」
「あの。御文が届いております」
「文って。どなたからなの?」
「……治部少輔様からです」
治部少輔と聞いてすぐに起き上がった。弓月様だと気付いたからだ。御帳台から出て伊予といった女房に歩み寄った。その手には確かに一通の文がある。伊予はわたくしに手渡してきた。開いて内容を確認する。
<姫へ
今日はすまなかった。ちょっと気が立っていて。後で真夏に怒られたよ。
素っ気なさ過ぎると。なので明日になったらまたこちらに伺うよ。
返事は無理に出さなくてもいいから。ただ、私も謝りたかったから文を出したまでだ。
それでは。
水之江 弓月>
手短に綴ってある。けど弓月様らしいと思った。わたくしは伊予に言って返事を書く事に決めたのだった。
その後、お返事を送った。簡単に「こちらこそ失礼をしました」という内容で書いておいた。弓月様はどう取るだろうか。それはわからないが。わたくしは部屋を出て簀子縁に降りた。ちょうど、満月が煌々と出ている。それを見ていると少し落ち着く。月光は優しく包み込んでくれるようだ。しばらくは眺めていたのだった。