鬼禍 03
柔らかで湿ったものが頬を撫でていた。
ハッハッと荒い息の音を耳にする。
土埃に混じって血の臭いが漂ってきた。
目を見開いて起きようとした途端、身体を襲う痛みにリュビは小さな悲鳴をあげる。
傍らに寄り添い座っていた巨大な黒狼が、労るように主の手を舐めた。
頭を撫でて応えてやりながら、リュビは周囲を見回した。
遠く頭上から陽の光が射し込んでいる。一人と一頭は地面にぽっかりと明いた穴の底にいた。穴の深さは六〇フィート(約十八メートル)近くあるだろうか。
周囲には土砂と岩石が散乱し、その下敷きになった悪鬼の死体が幾つも転がっている。
……そうだ、自分は悪鬼の群れに追われて逃げまどう最中、とうとう周囲を囲まれてしまい絶対絶命の危機に陥って、そうしたら突然に足元の地面が崩れて――。
「んっ……」
立ち上がり、全身を打った影響だろう痛みに小さく呻く。恐らくは、リュビの使役獣であり家族でもある魔狼犬が彼女を庇ったのだろう。
無防備に転落していたら、リュビも周囲の悪鬼と同じ末路を辿ったはずだ。
頭巾や短衣についた土を払うと、リュビは落ち着かない様子の魔狼犬に手を差し伸べる。
「レト、おいで」
魔狼犬が主の赤いくせっ毛に鼻先を埋める。
レトが右後ろ足を引きずっているのに気づいてリュビの顔が歪む。
涙を堪えるようにレトの頭をかかえ抱きしめた。
レトの全身は黒毛で覆われているが、鼻の周囲や胸元そして足先には白色も混じっている。
これは魔狼の力を利用しようと考えた人間が、イヌと番わせて血を取り込んだ犬種の末裔である証だ。
魔狼は凶暴なうえ、獣でありながら人に匹敵する知能を持つため、飼い馴らすどころか協力関係を結ぶのすら困難な生物なのだ。
リュビは魔狼犬を使役する魔獣使い一族、〈遠吠え〉氏族の残された最後の一人だった。
生き延びられたことに安堵を覚えると、今更ながら死の淵一歩手前にいた己を顧みリュビは身を震わせる。
レトを撫でていると、自分の中にある恐れや不安がほんの少し大人しくなってくれるような気がした。
周囲を検める。近くには自分たち以外の動く気配はない。
先ほど嗅いだ血の臭いは、リュビの意識がない間にレトが生き残った悪鬼にトドメを刺していた所為かもしれない。
静まり返った穴の底でリュビは空を見上げた。縦穴の側面から崩れ落ちる土がパラパラと音を立てた。
レトの身体能力をもってしても今の状態では、ほとんど垂直に近い崩れる足場を六〇フィート駆け上るのは不可能だろう。
仮に可能だったとしても、主を置いてひとり村に帰ろうとはしないはずだ。
不意にレトが何かに気づいた様子で耳をそばだてた。
「ギギギ……」「ギャッギャッ……」
今日は散々聞かされた悪鬼の声。
不安に飲まれていたリュビの顔がいっそう険しくなる。
穴の上から石でも木でも投げ落とされれば、縦穴の底にいる一人と一頭には何の反撃もできない。
無意識のうちに、レトを抱えるリュビの腕に力が入った。
突如、ガラリと背後で石の崩れる音がして、更なる陥没を予感したリュビとレトは身を屈めた。
それきり何も起こらないのを確かめて、恐る恐る振り返ってみれば、土煙の向こうには暗い洞窟の入口がポッカリと開いていた。
頭上から聞こえる悪鬼たちの騒ぐ音はますます近づいてくる。
リュビとレトは一瞬だけ互いに視線を交わすと、意を決して先の見えない暗闇の中へと入っていった。
*****
リンドウとスケアクロウの追跡行には最初から暗雲が垂れ込めていた。
魔狼犬のレトだけならば村を囲う木柵を越えられるだろう。でもリュビには無理だ。
村の出入り口は一カ所だけだから、リュビがひとりで出て行こうとしたら守衛が止めるだろう。
だが、実際には誰に見咎められるでもなく姿を消している。どうやって?
「気にはなるけどね、いま考えることじゃない」
守衛に断って村を飛びだした二人は、周囲を巡る水壕に添って歩き始めた。
スケアクロウは、ある地点を境に進路を森へ向け草地を駆け出した。
後を追うリンドウも地面を注視してみたが、周辺との違いはよく分からなかった。
「レトは三〇〇ポンド(約一三六キログラム)以上あるんだよ、跡が残らないわけないでしょ」
一流の野伏は、足跡を見ただけで獲物が何時間前に通ったのかすら見極める。
森に入った後も、スケアクロウはリンドウがついて行けるギリギリの速度で走り続ける。
村の者が後から追ってくるとも限らないので、定期的に枝へ紐を結び目印にしている。
しばらくは無言のまま森を進み、少し開けた場所で立ち止まると、落ち葉が踏み荒らされたポイントを指さした。
「複数の相手に追われてる。悪鬼だ。半刻は経ってない」
「やっぱ荒事は避けられねぇか……」
「大丈夫かい?」
スケアクロウは、リンドウが命のやり取りには消極的な主義なのを、それほど長くはない付き合いの中で気づいていた。
「任せろ。格下の相手はメチャ得意だぜ」
「そりゃ誰でもそうでしょ」
その時だった。落雷のような轟音が遠く森にこだました。
しかし、空を見上げても雨雲ひとつない。
二人は思わず顔を見合わせていた。
「何だか分かるか?」
「さあ? でも先を急いだ方が良さそうだね」
リンドウとスケアクロウが更に森の奥へ進んで行くと、二~三人の組に分かれて森を徘徊する悪鬼たちと度々遭遇した。
本来ならば回り道をしてでも無駄な争いは避けるべきだが、先を急ぐ二人はそれらを悉く瞬殺していった。
落ち葉を突き破って地面から生えた土の腕が悪鬼の両足を掴む。
驚く悪鬼たちの元へ、風のような速さで人影が距離をつめる。
剣閃がひらめく度に一人また一人と悪鬼は屠られ、瞬く間に全ては終わっていた。
戦いを終え、リンドウが六尺棒の先端で悪鬼をつつくと、遺体は地面に飲み込まれていく。落ち葉を蹴散らして均すと跡形もなくなった。
「なにこれ、すごいラクなんだけど」
ボロ布で鉈に付いた血を拭いながら、スケアクロウが小声で洩らす。
「アンタがいると一方的に奇襲をかけられるからな。森の中で野伏に喧嘩を売るのは金輪際やめとくよ」
答えるリンドウは、苦いものでも口にしたような顔をしていた。
現代日本でも害獣駆除の際に、サルは表情や仕草が人間を連想させるので猟師が嫌がるという話がある。悪鬼は少なくともニホンザルよりは人に近い。
このように、脇目も振らず一直線で足跡の進む先(そして轟音の元)へ向かっているうちに、前方から騒がしい声が聞こえてきた。
リンドウとスケアクロウの二人は足取りを緩め、木の影を縫うように近づいていった。
「何だありゃ?」
大きくて深い穴が、ぽっかりと森の地面に開いていた。
穴の周囲をたむろしている悪鬼の集団は、時折、底の様子を窺う素振りを見せるのだが、降りる道具がないためかそれ以上の動きはない。何かを待っているようでもある。
「…………」
詳しい様子を探るため、木に登っていたスケアクロウが降りてきたまま口を開かない。
「おい、どうした――」
「距離があるから断定はできないけど、足跡はあの穴まで続いてる」
「…………」
今度はリンドウが押し黙る番だった。
「奈落落ちだ……」
スケアクロウが呻くように呟いた。
それは悪鬼や豕鬼、狗鬼といった地下に住む者たち、奈落の住人が引き起こす人災だ。
彼らは拙い技術で無作為にその住処を拡張していく。そして当然の如く落盤事故を起こす。
本人たちが生き埋めになるだけなら良いのだが、時には地表にまでその影響が及ぶ。
ごく希には地上の村や町を巻き込んだ大惨事になり、多大な死傷者が出るうえそのまま戦争状態になだれ込む場合もある。
「ここから一番近いヤツらの根拠地まで七〇マイル(約一一〇キロメートル)はあるハズなのに、何でだよ……」
「目の前にある現実が正解なんだぜ」
降りかかった不幸に暗澹たる表情を見せるスケアクロウとは対照的に、リンドウは不自然なまでに平然として見えた。
「どうする? 村に引き返して守りを固めるか、二人で馬鹿をやるかだ」
いつ、地下に開いた穴から大量の悪鬼が出現するかもわからない。
二〇人は居る目の前の集団を首尾よく殲滅できたとしても、リュビとレトの捜索にかけられる時間はさほど長くない。
「その前にコッチの相手をしなきゃならないようだね」
スケアクロウは縦穴のある前方ではなく、自分たちのやって来た後方へ向け弓を構えた。




