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見知らぬ森の中で 03

 二人が森を進む。

 たとえ外縁部であっても〈奥溜の大樹海〉が危険地帯であるのに違いはない。

 樹海の中心部には深淵(アビス)へと繋がる地下迷宮(ラビリンス)が存在し、それが周囲の環境を異常なものにしている。


 その魔境を、勝手知ったる他人の庭のごとくダイアナが進んで行く。

 周囲をキョロキョロと警戒しながらリンドウが後に続く。

 老人に荷物を持たせて自分が手ぶらでは気がひけたか、カゴはリンドウが携えていた。


 この森に慣れているだろうダイアナが緊張する素振りも見せないので、最初は緊張し通しだったリンドウも少しだけ気を緩めていた。

 そのリンドウが、不意に立ち止まると周囲を見まわした。

 霧で視界が通らない中、緊張の面持ちで耳をそばだてる。


「おや、気づきよったか」


 焦る様子のないダイアナを目にしても、リンドウは警戒を解かなかった。

 前方から、何か大きな生き物がこちらを目指し近づいてくる。

 物音と振動がどんどん大きくなる。

 不安にかられたリンドウは無言で目配せするが、ダイアナは逃げようとも隠れようともしなかった。

 程なく霧の向こうから大きな影が姿を現した。


「**********!」


 リンドウが警戒の声をあげる。

 無理もない。現れたのは、あの片目の大猪だった。

 特徴的な外見は見間違えようハズもない。

 しかも、目の前の大猪はリンドウが知るそれよりも身体が一回りは大きい。

 顔を強張らせるリンドウとは対照的に、ダイアナは笑顔で大猪に近づいていく。


「おお、久しぶりじゃな」


 ゴッゴッと鼻を鳴らして応える大猪は、しかし、その瞳には明らかな警戒の色がある。

 以前とは違い今すぐ襲ってくる気はないようだが、その目はリンドウを見据えて離さない。


《仕留メ損ナッテイタカ……》


 大猪から、言葉ではなく直に意志が伝わってきた。〈他心通(テレパシー)〉だ。

 ただの獣だった野猪(ワイルド・ボア)は年を経るうち異能へ目覚め、ついには怪物と成り果てていた。

 リンドウも神を名乗る男から与えられた〈他心通〉の力で、異世界の言葉を話すダイアナとコミュニケーションを取っているが、大猪の〈他心通〉はリンドウのそれとは違い送信も可能なようだ。


「〈片目(ワン・アイ)〉、そりゃどういうことじゃ?」


 ダイアナの問いに大猪――〈片目〉は答えず、強く鼻息を吹いた。

 地面に積もった枯葉が舞い散る。不意の強い風に煽られたダイアナは後ろへよろめいた。

 反射的に支えようとしたリンドウが前へ踏み出すと、〈片目〉は牙を剥いて威嚇する。

 リンドウはカゴを地面に置くと、ダイアナを庇うように更に前へ出た。


「スゥ――ッハァ――ッ」


 リンドウの口から激しい呼気が漏れた。

 深く呼吸を繰り返しながら一歩踏み出すごとに、水で膨らんでいた腹はみるみる凹み、萎びた枝のようだった身体が力を取り戻していく。

 大木の下敷きになった状態で生き延びられた理由のひとつが、これだ。

 死の淵ぎりぎりで発狂寸前まで追い込まれながら身につけた魔力制御の手練は、魔法を扱う熟練者のそれに匹敵する。

 今のリンドウは己の身体に備わった異能を十二分に使いこなせていた。


侵入者(レイダー)メ、今度コソ引導ヲ渡シテクレル》


 全身の毛を逆立てた〈片目〉が、身を震わせながらガチガチと牙を鳴らし威嚇する。

 残ったひとつの血走った瞳には敵意が漲っていた。

 突如として降って湧いた暴力の気配。

 間に挟まれたダイアナは慌てふためく。


「おぬしら、いったいどうした!?」

《互イニ血ヲ望ム以上、戦イハ避ケラレヌ……》

「どうしてそうなるんじゃ!?」

「**********!!」


 ダイアナにはリンドウが何を言ったのかも、中指を上に突きたてた拳がどういう意味なのかも分からない。

 ただ、()る気だけは伝わった。


「ブモォ――ッ!!!」

「ウォォ――ッ!!!」


 ダイアナの困惑をよそに、雄叫びをあげて両者は激突した。


 両者の体格差が変わらない――否、むしろ差が広がっている以上、結果は以前の再現にしかならない。

 大猪の突進を正面から受けたリンドウはあっけなく宙を舞い、枝をへし折りながら弧を描いて地面へ激突する。

 しかし、そこから後が違った。


「ギィィ――ッ!?」

「ハァ――ッ、ハァッ!」


 〈片目〉が苦痛の声をあげる。残った右眼の目尻からは血が流れていた。

 苦痛にうめく〈片目〉を、地面に這いつくばったままリンドウが嘲笑う。


 以前は逃げるところを後ろから跳ねられたリンドウだが、今度は自ら前に踏み込んで拳を当てに行った。

 しかし、十人並みの反射神経しかないリンドウでは、突進してくる〈片目〉の狙った場所へ攻撃を当てるというのは分が悪い賭だ。

 リンドウは相手が自分を侮っているらしい気配から、身体のど真ん中を目がけ真正面から突っ込んでくるに違いないとヤマを張った。

 そして、賭は見事に当たった。


 立ち上がったリンドウは衝撃の余韻でフラつく足で元の位置へ戻る。

 前掛けをズタボロにされた姿は既に全裸同然だった。

 リンドウは自分が〈片目〉へ与えた傷の深さを確認する。


《外したか……もう少しで〈片目(ワン・アイ)〉転じて〈盲目(ブラインド)〉にしてやったのによォ》

《!?》


 〈他心通〉を使ってみせたリンドウに、〈片目〉の驚愕する気配が伝わってきた。


《こんなモン、テメーごとき畜生が使えて人間サマに使えねェ道理があるかボケがッ! この糞イノシシがザマァ見晒せ!!》


 相手に一度は殺されかけている事実が、リンドウに灯る怒りの火を滾らせていた。

 実際のところ、リンドウは人間を「火の使い方を覚えたエテ公」ぐらいにしか思っていない。

 人間が上で獣が下という価値観も持っていない。

 少しでも〈片目〉の嫌がりそうな言葉を反射的に選んでいるだけで、そこには怒りしかない。


 衝撃から立ち直った〈片目〉が、今度は身を揺する小刻みな動きで機をうかがう。

 油断は既に無い。


 リンドウは相撲で言う立合いの構えで腰を落とし片手を地面についた。

 あの分厚そうな毛皮と皮膚に普通の殴る蹴るが通用しないのは明白だ。

 カウンター攻撃しかない。

 相手の身体のどの部分にでも良いから、突進に合わせて頭部を思い切り叩きつける腹づもりだった。


《……コノ傷ハ、相手ヲ侮ッタ罰トシテ甘ンジテ受ケ入レヨウ。次ハ無イ》

《随分と口が回るじゃねーか。ケダモノが無理にアタマ使っても底が知れてンぞおフェラ豚が》

《貴様ノ手足ヲバラバラニ引キ裂キ、首ハ引キ千切ッテ野ニ晒ス》

《死ぬ前に火考乳猪(カオルウチュウ)五穀全猪(ゴコクゼンチイ)か選ばせてやぁ!!》


「止めんかッ――!!!」


 大音声と共にダイアナが割って入ると、睨み合う両者の頭上から大量の水が滝のように流れ落ちた。

 不意の横やりに、リンドウと〈片目〉はなす術もない。


「オ゛ォ――ッ!?」

「ゴモォ――ッ!?」


 溺死の恐怖がリンドウの頭をよぎった刹那に、激流は跡形もなく消え去っていた。


「……おぅ?」


 間の抜けた声をあげ、幻でも見ていたかとリンドウは周囲を見回す。

 先ほどの激流が単なる幻ではなかった証拠に、なぎ倒された木や地面の抉れた跡が残っていた。


「馬鹿をやるなら、わしのおらぬ所でやれ!」


 声に振り返ると、顔を真っ赤にしたダイアナが肩を震わせていた。

 リンドウの目には、先ほど見せたような超常の力を持つ存在にはまったく見えなかった。

 どこの田舎にでも居そうなシワだらけの小柄な老婆がそこに居た。


「殺すの殺されるの、おぬし達のようなウツケはいつもそうじゃ!」

《あぁ?》


 俄に激昂するダイアナに、リンドウは戸惑いを隠せない。

 きっと、いま目の前にいる自分たちだけでなく、過去にあった何かがダイアナを憤らせている。

 それにはすぐ気づいても、何があったかまでは分からない。


「いつも同じじゃ。おンなじ事の繰り返しじゃ」

《それは――》


 違うと言いかけて、言葉につまる。


《いや、そうか。かもしれねぇ……》

《…………》


 深い森の奥。怪物になった獣と、魔獣の身体を持つ男。

 一匹と一人が雁首を揃えて、涙で頬を濡らす老婆を前になにも出来ないでいた。




     *****




 〈奥溜の大樹海〉に住む幻獣や魔獣のうち力ある者には、互いの縄張りに無断で踏み入らない不文律がある。

 リンドウは知らないうちに、自分の方から〈片目〉へ喧嘩を売った形になっていたのだ。

 身体の中身はともかく本人の主観ではまだ人間の、しかも異世界人のリンドウからすれば、


「そんなモン知るか」


 としか言えないのだが、それで減刑してくれるのは一部の法治国家で、森の掟にそんな温情は無い。

 とはいえ、冷静になってみると、互いの食い違う意識にはすぐ気づいた。


 ダイアナの持つ魔法の水薬(マジック・ポーション)で傷を癒やした〈片目〉が、かなり気まずい空気のなか立ち去るのを見送る。

 リンドウは、


「それじゃあ……」


 と自分も去ろうとしてダイアナに阻まれた。


「とりあえず、ホレ」


 もはや前を隠す役割を果たせなくなった前掛けに変わって、今度は麦わらで編んだ筵を渡される。

 蔓で腰に結ぶと即席の腰ミノになった。


《おお、これで文明人に一歩近づいた》

「お前さん、本当に人間かの?」

《いやいやいや、どこから見ても俺は十二分に人間らしいだろ》

「んぁ? ああ、まあ、そうじゃな……」


 ダイアナが目を逸らした。


《えぇっ、そんなにかよ》

「相手の心で念じていなさることが頭に飛び込んできたら、普通は驚くじゃろ」

《〈他心通〉って珍しいのか?》

「幻獣ならば、おおかた生まれつき使えよう。じゃが、ただびとが幻獣に会うなぞ一生涯ないわな。人間で使える者とすれば、魔法使い(メイジ)魔術師(ウィザード)か。〈他心通〉とはちと違うが〈念話〉というのもある」


 分からない単語だらけの答えに、リンドウは頭をボリボリと掻く。


《そもそも幻獣と魔獣って何が違うんだ? 魔法と魔術も》

「……お前さま、本当に何処から来なすった?」

《そりゃ、どういう?》

「髪は黒じゃが、顔だちは大漠の民と違う。まさか、東夷から樹海を渡って来たなどと言うまいな」

《…………》


 少々しゃべり過ぎてしまったのに気づいて、リンドウが押し黙った。


「いや、すまなんだ。不躾じゃったな」

《別に詮索されて困るワケじゃねーんだ。しかし、どう言ったモンか……》


 あの神を自称する男の情報によれば、この世界には宇宙創世の神とは別口で土着の神が存在するそうだ。

 しかし、この世界における神の扱いが分からない。

 迂闊に神の存在を口にするのは憚られた。


「とりあえず、わしの家に来んか? 茶ぐらいなら出るぞい」

《……そうだな、世話になる》


 行く当てもなく、この世界の常識は何も分からない。

 改めて現状を思い知らされ、リンドウは落ち着いて考える時間が欲しくなった。


 森の中を進みながら、とりあえず決定的なひと言は避けつつ、しかし極力は嘘にはならないよう今までの経緯を説明する。

 曰く、気づいたら謎の男に拉致されていた。

 曰く、何らかの目的があって身体を改造された。

 曰く、用が済んだらしく気づいたら樹海に捨てられていた。

 曰く、拉致される前に住んでいた場所とココは何もかもが違う。etc...


《ほんと、拉致から改造って俺はウルヴァリンじゃねぇんだぞ……》

貂熊(クズリ)がどうかしたか?」

《いや、気にしないでくれ。コッチの話だ》

「しかし、ヤーパンなんぞという国、聞いた事もないわい」


 ニホン、ニッポン、ジャパンといった名称を使うのはあえて避けた。

 自称神は教えてくれなかったが、過去に自分と似たような境遇の人間がこの世界に来ていて、それが仮に日本人で、しかも何かしらとてつもないヘマをやらかしていたら……と考えたのだ。

 別に扶桑でも秋津洲でも瑞穂の国でも良いのだが、〈他心通〉は頭の中のイメージを直に伝える技だ。

 この世界に世界樹みたいなのが生えている国や、トンボを象徴にしている国や、米が大量に収穫される国があったら、とてもややこしいコトになる。

 だからといって完全にデタラメな名前を使ったら、それを憶えておく必要も出てくる。

 咄嗟に出たのがヤーパンだった。


「で、お前さん、これからどうするんじゃ」

《厚かましい話で悪いんだが、服を一着と履き物。あと、これは出来ればで良いんだが路銀を少し貸しちゃくれねえか? 金が工面でき次第、ちゃんと返しに来るからよ。何か手伝えるってんなら、先に働かせて貰えりゃ有難い》

「言葉はどうするかね」

《なに、聞くだけなら何も問題はねぇ。あとは身振り手振りで何とかするさ》

「それよりお前さん、国に帰れるアテは有るのか?」

《無いな》


 そもそも帰れないが、とは流石に言えなかった。


「むむ……」


 ダイアナはひとり言を洩らしながら、なにごとか考え込んでいる。

 どこからかボロが出たかと、リンドウは気が気でなかった。


 〈煙草喫みの森〉を抜け霧が晴れると、リンドウにも見覚えのある樹海の姿が二人を出迎えた。

 周囲の様子が変わったのに気づいたリンドウが尋ねる。


《なあ、ダイアナさん。この辺りに廃墟になった神殿みたいのがないか? 気づいたらソコに捨てられてたんだ》


 ダイアナは立ち止まると、リンドウの顔をじっと見つめた。


「……〈神域〉に?」


 やはり、この世界の常識を知らないままじゃ、いつどんな地雷を踏むか分かったものじゃない。

 どう言い繕ったものかリンドウが頭を悩ませていると、先にダイアナが口を開いた。


「あれは幻獣も魔獣も縄張りにせん緩衝地帯になっておる。おまけにあの周囲には〈片目〉のような輩が他にもウロツいておるでな。樹海の外の住人は近寄ることもできん」

《そう言われたってな。俺だってサッパリだ》

「お前さん、あとで婆を手伝うてくれぬか? ちと調べてみたいのじゃが」

《分かった。大して役に立つとも思えねぇが……》


 歯切れ悪くリンドウが答える。完全にやぶ蛇だった。

 しかし、手伝えることがあればと口にしたのは自分の方が先で、断ろうにも断り難い。




     *****




 陽が傾いて赤味を帯びる頃になり、ようやく二人はダイアナの家へ着いた。

 蔦に覆われた塀の入口を通り抜け、薬草や香草の匂い立つ庭を横切る。

 樹齢は何千年なのかという大樹が客を出迎えた。

 茜色に染まる賢女の庵は大樹と半ば一体化して、森の中で堂々たる佇まいを見せていた。


「…………」


 まるで絵本の中から抜け出してきたような光景を前に、リンドウは阿呆面さげて驚くしかない。


「ほれ、コッチ」


 分厚い木製のドアを開けてダイアナが催促する。


《お、おう……邪魔するぜ》


 圧倒されつつ、後を追ってリンドウも家に入った。


 リンドウが生涯のうちでも長い時を過ごすことになる、後には一部の人間(とは限らないが)に〈隠者の懐(ハーミテージ)〉と呼ばれることになる場所へたどり着いた顛末は、斯くの如きものであった。

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