見知らぬ森の中で 02
森の緑が日増しに濃くなり、強くなった日差しが夏の訪れを感じさせる頃。
その日は朝から強い雨が降り、外で作業をしていたミチオは早々と拠点に引っ込んだ。
今では拠点の廃屋にまともな屋根がある。
太い木の枝に両側から枝葉を立てかけただけのモノだが、雨は十分に防げた。
濡れた服を乾かすため火を起こす。弓きり式の火起こし器にも大分慣れた。
家の中で火を焚いてもボロ屋の換気は十分すぎるほどで、煙は屋根の隙間を抜けて外へ出て行った。
(こりゃ、冬が来たら凍死しちまうな……)
焚き火に照らされたミチオの顔は無精髭に覆われ、蔓で結んだ髪も伸び放題だ。
野生の中に身を置いて運動不足が解消されたのか、痩せ過ぎだった身体は少し逞しくなっている。
家の中に吊された、原型が怪しくなるほどボロボロになったスウェットを見上げた。
(植物から布を作るのは……俺にゃ無理か。なら干草を編むとか、あるいは動物の皮か……)
次の目標が決まった。
数日後。ミチオは獣を狩るべく森に入った。
手には、念を入れて頑丈に作り直した槍と、蔓を編んで作った投石器を持っている。
これまでの探索では、肉食獣と直に相対する事態を何とか避けてきた。
本当なら実戦でも〈全身硬化〉の検証をしておくべきなのだが。
シカなどの草食獣はよく見にしたが、これらを狩ろうとは今まで考えなかった。
一切、肉を食べる必要のない身体なのに、食の快楽のため命を奪うのが躊躇われたのだ。
全ての命は平等という立場を取ると、雑草を刈るのも人の首を刎ねるのも同じになる。
その理屈だと既に木を切り倒しているからシカも殺せるハズだ。
しかし、ミチオはそこまで観念に殉ずる人間ではなかった。
(しかし、毛皮だけ剥いでハイそれまでよってのもなぁ……)
シカの死体をそこらへ放置しておけば、あっという間に樹海の食物連鎖へ飲み込まれ跡形もなくなるだろう。
それは分かっていたが、MOTTAINAI 精神が首をもたげる。
人間を辞めたうえ、他人のいない場所で暮らしているから、規範はすべて自分の内にある倫理に拠るしかない。
そうしてミチオが文字通り「取らぬ狸の皮算用」に励んでいるうちに目的地へ着く。
視界が開けると、そこには澄んだ水を湛える小さな泉があった。
つい先日、見つけたばかりのその泉で、ミチオは岸に残る様々な獣の足跡を目にしていた。
少しずつ行動範囲を広げていった成果だ。
周囲を観察し、岸から離れた風下で身を隠せそうな場所を探す。
ミチオには猟の経験などないから出たトコ勝負だ。
思ったよりも身を隠せるものがなくて、カモフラージュネットを作るべきだったかと後悔する。
一本の木を選び、その根元で身を小さくして待った。
獲物が姿を見せたら、まず石礫で弱らせ、逃げる後を追って槍でとどめを刺す。
一応は練習もしてきたが、どうにも無理そうなら次は罠の使用を試みる。
もっとも、ミチオに作れそうな罠といったら落とし穴ぐらいなので、その場合は地面を掘る道具を作ってから日を改ることになるが。
今日のようにじっと待つときは〈全身硬化〉が役に立つ。
使用中はまったく身動きが取れないので、つまり、まったく物音を立てないで済む。
硬化中は通常の五感が働かなくなる欠点は、既に克服していた。
周囲の状況がわからなければ〈全身硬化〉を解除するタイミングも分からない。
ならば、能力の元になった大兜泥亀は、きっと何らかの手段で周囲を把握しているに違いない。
そう考えて試行錯誤をくり返す中で、体表を包む魔力を通して周囲を窺う術を身につけた。
新しく得た知覚は、五感とは勝手が違っていて慣れるのにかなり手こずっている。
正午近く、その超感覚的知覚が泉に近づく影を捉えた。
ミチオは〈全身硬化〉を解除し、相手が物音を立てるタイミングに合わせ地面に伏せる。
張り出した木の根から頭を出して様子を窺った。
魔法による知覚には死角がないという利点はあるが、対象をぼんやりとしか捉えられない欠点があった。
それが自身の鍛錬不足によるものなのか、大兜泥亀も同じなのか、今のミチオには分からない。
木立の向こうから姿を現す巨躯。
目にした瞬間、ミチオの全身は総毛立った。
一匹の獣がそこにいた。
ワイヤーブラシのような剛毛に身を包んだそのイノシシは、まず体格が地球のソレとは比べものにならない。
ウシに匹敵する身体は1トンを越えているだろう。
身体のあちこちに傷痕があり、ひときわ大きな傷で片方の目を失っていた。
身体は傷だらけでも、全身から発する圧力には微塵の衰えも感じられない。
(無理!)
ミチオは早々に白旗を上げた。どう考えても狩られる立場なのは自分の方だ。
一秒でも早くこの場を立ち去りたかったが、圧倒的な存在を前に目を逸らすことすら出来ない。
檻や壕を隔てずに猛獣と相対することが、これほどの恐怖とは。
勝手に歯が鳴ろうとするのを必死に堪えた。
理性では、この獣相手にも〈全身硬化〉は有効で、よほど下手を打たない限り命の危険はないだろうと考えていた。
それでも湧き起こる本能的な恐怖は止め難い。
ナメクジの這うような、ゆっくりとした動きで後ろに下がり、再び〈全身硬化〉を発動した。
完全に相手の視界から隠れたうえで、改めて魔力を使った知覚で相手の様子を窺う。
巨猪は泉で喉を潤したあと再び動きだした。
向かう先はこちら、迷いもなく真っすぐにミチオの方へ近づいてくる。
「思いっきりバレてんじゃねェか――ッ!!!」
野生の獣を相手にした逃走劇の幕が切って落とされた。
走る速度で人は獣に敵わない。
短距離走の世界記録保持者でも時速四〇キロ未満。地球のイノシシは時速四五キロで走ると言われている。
そしてミチオの走る速さは世界記録に遠く及ばず、大猪の速さはその巨体にも関わらず地球のイノシシに劣るものではない。
多少の障害物はモノともせず、周囲に破壊をまき散らしながら大猪が突進する。
衝突の瞬間に牙でかち上げられて、ミチオは梢を越えるほど高く吹き飛ばされる。
地面に叩きつけられ、ボロ雑巾のようになりながら再び走り出す。
(常人だったら今ので十回は死んでんぞ!?)
常人は通常一度しか死なないと指摘してくれる者はここに居ない。
代わりに大猪の咆哮が森に轟いた。
「ブォォ――ッ!!」
大気が震える。
今までは遊び半分だったようだが、格下の獲物を仕留め損なったせいで本気になったらしい。
「バーカ!バーカ! 鎮西に帰れッ!!」
ひたすら逃げ続けながら、せめてもの抵抗でミチオは罵声を浴びせた。
〈超恒常性〉の力が働いて全力疾走でも殆ど息が切れない。しかし、そもそも足の速さが違い過ぎた。
何度も追いつかれ、その度に跳ね飛ばされ地面を転がされた。
身体は傷付かなくても衝撃は受ける。安全基準を完全に無視したジェットコースターとフリーフォールの連続に失神して、その度に〈超恒常性〉の力で叩き起こされた。
大猪は追撃の手を緩めようとしない。
今は〈魔力光合成〉の働きで魔力を補給できているが、陽が沈んだ後もこのペースで〈全身硬化〉を連続使用して朝まで魔力が保つのか、実戦で能力を連続使用した経験がないからミチオには分からない。
だから、相手が満足するまでサンドバッグになる案は却下だ。
日暮れまでに大猪を撒く必要がある。しかし、どうやって?
もう、何度目なのかも分からない。
跳ね飛ばされたミチオは倒壊した巨木の幹に叩きつけられ、そのまま斜面を転がり落ちていく。
後を追ってきた大猪が怒りをぶつけるように倒木へ体当たりをすると、倒木はミチオの方へ向け斜面を転がりだした。天然のブービートラップだ。
泥まみれのミチオは倒木を避けようと立ち上がり、泥濘に足を取られその場に転がった。
「ウォ――ッ!!!」
周囲にこだまするミチオの叫びに、大きな地響きが続いた。
悠々と、大猪が斜面を降りていく。
窪地へ転がり落ちた巨大な倒木の周りをうろつく。
何も反応がないのを確かめると、大猪は興味を失ったように踵を返し道を戻っていった。
森には再び静寂が満ちた。
(……行ったか)
大猪が戻ってこないのを確認しミチオは安堵する。
だが、大猪が去っても危機はまだ終わっていない。
ミチオは、仰向けに倒れた状態で地面と倒木の間に挟まれていた。
そのまま自らの意志で〈全身硬化〉を解くと圧死するだろう。
そして〈全身硬化〉中は身動きがとれないから這い出ることも不可能だ。
(あれ……もしかして……詰んでる……?)
答える者はどこにも居ない。
森に夕闇が迫り、やがて夜が訪れた。
*****
大陸の中央部。いにしえには中原と呼ばれグランモルス帝国の首都も置かれたこの地は、今や当時の面影はどこにもなく〈奥溜の大樹海〉の名で知られる魔境と化していた。
大樹海の外縁部、南西の方角には年中雪を頂く霊峰〈ときじく山〉の姿がある。
〈ときじく山〉の万年雪は周囲を流れる川の水源でもあった。
その年の冬は例年になく雪が降り、春先の雪解け水も常より勢いを増していた。
雪解け水の一部は地下水脈となって四方に行きわたり、樹海南西部のあちこちで泉となって沸き出す。
十数年に一度だけ森に現れるという、数か月の後には姿を消してしまう〈泡沫の泉〉だ。
大樹海の中にあって、年じゅう霧に包まれていることから〈煙草喫みの森〉と呼ばれる一角に、木立を縫って進む小さな影があった。
手にカゴを持った粗末な身なりの老婆が、魔獣の出没する危険な森の中を歩く。
まるで公園へ散策にでも来ているようで、何の警戒も見せない。
たびたび立ち止まって森の恵みを――木の実やキノコや野草の類をカゴへ入れていった。
ただでさえ昼なお暗い森は霧に覆われて、常人ならあっという間に道を見失ってしまうだろう。
しかし、あちらへ行けば次はこちらへとぶらぶら歩く老婆の足取りは、道に迷った者のそれではなく自信に満ちていた。
方々を歩きまわって疲れたのか老婆は木の根元に腰を下ろした。
「ハァ、やれやれ……」
水筒の水で喉を潤し、額の汗を拭いながらしみじみと呟いた。
老婆の目的は双頭蛇蓮というハスの花弁にあった。
開花した双頭蛇蓮の花弁は希少な水薬や膏薬の材料になる。
〈奥溜の大樹海〉の双頭蛇蓮は〈泡沫の泉〉に水が満ちる十数年に一度だけ花開き、あとの年月を種のまま泥中で過ごす。ハスは上から下まで余すことなく薬に用いられるが、花は開いてから4日ほどで散ってしまう。
この機会を逃せば次に手に入るのは十数年後だ。
だからといって正気の人間なら、〈奥溜の大樹海〉へ採りに行くなど考えもしないのだが……。
一休みすると、老婆は再び歩き始めた。
長年に渡る森歩きの経験から当たりをつけて、泉の現れていそうな場所を次々と訪ねていった。
〈泡沫の泉〉はいつも同じ場所に現れるとは限らない。
双頭蛇蓮を手に入れるには、直近で泉の現れた場所を知っているだけでなく、過去に遡って泉の現れた場所を幾つも知っている必要があった。
ようやく見つけた〈泡沫の泉〉に喜び勇んで老婆が近づくと、泉には既に先客がひとり居た。
「おやまあ」
老婆は恐れる様子もなく人影の元へ近づいていく。
先客は男で、全裸だった。
地べたに座り込んで泉に足を浸している。
痩せ細った身体は泥まみれで背はかなり高い。
髪はボサボサに伸び、髭をぼうぼうと生やして、まるで獣だ。
目には光がない。
男の異様な風体に物怖じもせず、老婆は男に語りかけた。
「もし、お前さま大丈夫かね」
「…………」
「もしかしてお邪魔かな?」
「あぁ……」
一瞬、男は声に反応するように身を震わせたが、それだけだ。
しばらく待っても応えがないので、老婆は自分の用事を先に済ませることにした。
靴を脱いで裸足になり、カゴから取りだした軟膏を足裏に塗る。
そのまま泉に向け足を踏み出すと、老婆は水面を歩いていた。
靄に包まれた湖面に、血のように赤い花が、水面を覆う葉の隙間から顔を出している。
双頭舵蓮は名前の由来通り一本の茎に二つの花が付いている。
老婆は花に直接触れず、鉗子のような器具でひとつの株につき数枚ずつ花弁を摘んで袋に詰めていった。
収穫を終えた老婆が岸に戻ると、あの怪しげな男は泉の水に腰まで浸かり全身の泥を洗い流していた。
先ほどまでの茫とした振る舞いが嘘だったかのように、至って普通に見える。
老婆が近づく。水面を歩く老婆を前にしても、男には大して驚いた様子もない。
見るからに愛想笑いだと分かる笑みを浮かべて口を開いた。
「**********」
男の話す言葉は、長い時を生きてきた老婆にもまったく聞き覚えのないものだった。
「じぇんじぇん、わからん」
残念がる老婆に対して、「だろうね」とでも言いたげに男が苦笑する。
その反応に老婆が「ン?」と首を傾げた。
「婆の言葉がわかるのかい?」
男は何度も頷いた。
「**********」
男は謎の異国語に身振り手振りを加え何かを訴えたが、やがて諦めたのか肩をすくめて見せた。
老婆が岸にたどり着いても男は後を追わず、困った顔で腰の辺りを両手でなぞるようにする。
「ハイハイ……そもそも、お前さんなんで裸なんだね」
曖昧な笑みを浮かべる男に、老婆はカゴから取りだした前掛けを手渡した。
身体を洗ったついでにしこたま水を飲んだらしく、岸に上がった男は見事な水っ腹だった。
全裸に前掛けだけの姿と相まって何とも言えず見窄らしい。
改めて自分の身なりを見やると、男は言葉を失って情けない顔になる。
老婆は声に出して笑った。
「ハハ、笑うたりして悪かったな。わしの名はダイアナ。お前さん名前は?」
「……リンドウ」
おそらくは、いま考えた偽名だろうと老婆――ダイアナは察っしていた。
しかし、元より樹海を全裸でうろつく奴がマトモであるハズもない。
知らん顔をして次の話題に移った。
「リンドウ殿。お前さん、かような地でどうなさった?」
リンドウは両腕を組み考え込む。
しばらくは神妙な顔をして黙り込んでいたが、やがて深々と頭を下げると、その場を立ち去ろうと踵を返した。
「ちょいとお待ち」
ダイアナが後ろから前掛けを掴んだせいで、リンドウは危うく股間を丸出しにするところだ。
どういうつもりだ? とでも言いたげな非難の目がダイアナに突き刺さる。
「どういうつもりか聞きたいのは、わしの方じゃ」
リンドウの解せない顔がすぐに納得の色を帯びた。
股間を手で隠しつつ、前掛けを外して返そうとする。
「あのな。何をどうしたら、そんな考えになるんだね」
呆れ顔のダイアナに、合点がいかないのかリンドウは首をかしげつつ前掛けをつけ直した。
「人は裸で森を歩きゃせん。わかるか?」
己を指さし、何ごとか抗議するリンドウは完全に無視された。
「とにかく、こっち、ホラ、来ませい」
森の賢女にして魔法使いでもあるダイアナは、リンドウが見た目どおりの人間ではないと既に気づいている。
おそらくは魔法か魔法の水薬で人に化けた幻獣・魔獣の類だろうと考えた。
そのまま人里に出しては、人にも幻獣にも互いに不幸な結果を招くだろう。
ためらうリンドウを「いーから、いーから」の一点張りで押し通し、ぐいぐい手を引いて森を歩きだした。




