雨夜の森 01
ひとりの男が夜の森を、雨に打たれながら彷徨っていた。
四〇を過ぎた辺りに見えるその男は、青白い顔でゼイゼイと息を荒げている。
泥に汚れ見るも無惨な有様になった短衣や短袴は、よく見ればそれなりに上等な代物なのが分かる。少なくとも、そこらの農夫が着ているようなモノではない。
疲労で踏ん張りが利かなくなって、男は泥に足を取られて地面に膝をついた。
濡れた服が肌にまとわりついていた。寒さで震える歯が小刻みに音を立てた。
秋も深くなった収穫月の夜だ。
このままじっとしていたら風邪をひくどころか下手をすると凍死しかねない。
再び立ち上がるために男は気力を振り絞る必要があった。
男は、いま自分が何処を歩いているのかも分かっていない。
いや、東ノ浦街道の北側にある森なのは分かっている。だがそれだけだ。
逃げ回るのに必死だった所為で、街道のある南がどちらかも分からない。
空は雨雲に覆われて月も星も見えなかった。
ここはまだ普通の森だが、迂闊に〈奥溜の大樹海〉へ近づき過ぎれば男の命は無い。
東ノ浦街道は〈奥溜の大樹海〉の南を通る街道で、樹海の終端から六マイル(一〇キロメートル弱)ほど離れた位置で海沿いを東西に伸びている。
年に何度か樹海から流れてくる魔獣が出没するため、決して安全とは言えない道だ。
しかし人の往来は盛んで、場所柄のせいもあって武装集団(その辺の破落戸よりは上等な、だ)が多く通る道だから賊の被害は少ない。
その事情もこの男には当て嵌まらなかったようだが。
暗い森を歩くうち、男は前方に小さな明かりを見つけた。焚き火の明かりだ。
焚き火の明るさと暖かさが、男の目には何物にも代え難く魅力的に映った。
何も考えず近寄りそうになって、慌てて足を止めた。
わざわざ街道から外れた森の中で野宿を? 如何にも怪しげではないか。
だが、火の近くには誰かが居るはずだ。自分を助けてくれるかもしれない誰かが。
あるいは、昼間に男を襲った賊のように、街道沿いを進むのは後ろめたい誰かが。
警戒心を保ち続けようにも、男は気力も体力も既に失い過ぎていた。
ヨロヨロとした足取りで、男は蛾のように灯りへ引き寄せられていく。
焚き火に寄り添う二つの影を目にした途端、崩れ落ちるように倒れそのまま意識を失った。
*****
何か食欲をそそる匂いを嗅ぎつけて男は目を覚ます。
わずかに身動ぎ、芯に残る疲労感に呻き声が漏れる。
思うように動かない身体で、横たわったまま周囲を見回した。
雨が、木の幹に張られた天幕を叩く音がする。
周囲はまだ暗い。男が意識を失ってから、まだそれほどの時間は経っていないらしい。
ずぶ濡れだった身体は拭われ、下履き一枚の姿で柔らかな毛布に包まれていた。
男はほっと胸をなで下ろす。焚き火をしていた人物は悪党ではなかったようだ。
天幕の片隅では、こちらへ背を向けた男が焚き火の前で何か作業をしている。
その黒髪の男はかなりの長身だった。六フィート(約一八〇センチメートル)は確実に越えているだろう。
そちらの方から、男が目覚める切っ掛けとなった匂いが漂ってくる。
男は自分が半日以上なにも口にしていないことを思い出す。
いちど気付いたら、空腹は如何にも耐え難く感じられた。
男は起き上がろうとする――が、それは叶わない。何故ならロープで手足を縛られていたからだ。
それまでは何処かボンヤリとしていた男の意識が一気に覚醒した。
「な、なっ――!?」
「すまんが、アンタが何者か分からねぇからな」
背を向けたまま、黒髪の男から言葉が返ってきた。
男の目の前では、三脚に鎖で吊られた鍋がグツグツと音を立てている。
匙で鍋の中身をすくい取り何かを確かめると、蓋を閉じて鎖の長さを調節する。
そこで、ようやく黒髪の男は振り返った。
その眼差しは、“すまない”と思う相手に向けるものとは思えない剣呑さだ。
身なりは清潔そうだが、随分と粗末なうえに色合いも地味だった。
武器の類は身につけていない。鎧も着ていない。だが、堅気とも思えない。
横たわる男の顔をジロジロと眺める。
「身体はもう大丈夫そうだな」
黒髪の男の問いに、囚われの男は何度も首を縦に振る。
わざわざ助けたぐらいだから殺すつもりは無いだろう。
しかし、素っ裸で縛られたまま地面に転がされているのは如何にもマズい。
相手を刺激しないため、落ち着いた声になるよう努めて声をかけた。
「あの、どうやら助けて頂いたようで……」
「どうかな」
会話をブツ切りにするような男の返答。
考えていたことを、当の本人に言われてしまった。
しかし、そんな言葉のひとつやふたつにいちいち狼狽えていたら、とても商人なんぞやっていられない。
「申し遅れましたが、私はボニファスと申します。旅の商人です」
「商人、ねぇ……」
言いながら、黒髪の男は懐から何かを取り出す。
くるくると巻かれた布を紐で縛ったソレは、ボニファスの財布だった。
しかも、普段使いのジャラジャラと硬貨が入ったやつではない。
虎の子の宝石や貴金属が入っているやつだ。
これにはボニファスも動揺を隠せず、ギョッと目を見開く。
狼狽えるボニファスを前に黒髪の男が呟いた。
「盗りゃあしねェよ。そのつもりなら、とっくにアンタをブッ殺して埋めちまってる」
「ははは……」
場を和ませようとするボニファスの愛想笑いも、この男には通用しないらしい。
笑い声は尻すぼみになり、やがて途絶えてしまう。
雨が天幕を打つ音と、焚き火の木がはぜる音が、やけに大きく聞こえた。
「立場を理解して貰ったところで……じゃあ、話を聞こうか」
*****
ボニファスは荷馬車を駆り、ひとり街道を東に進んでいた。道連れも護衛もない。
集団で移動すれば安全だが足は遅くなる。護衛が居ないのは単に金を惜しんだ。
そんな暴挙に出たのも、東ノ浦街道は賊の被害が非常に少ない道だったからだ。
この街道の終点である〈境界の町〉は、この国で最も〈奥溜の大樹海〉に近い町だ。
それより先は、樹海を挟んだ反対側の四五〇マイル(七〇〇キロメートル以上)向こうまで人の住む町は無い。
腕に自信があるなら、樹海外縁部の魔獣狩りや遺跡の探索は良い稼ぎになる。
〈境界の町〉は、そういった荒くれ者たちの拠点なのだ。
〈境界の町〉は海に面した港町で、陸側は分厚い壁に囲まれている。
肉以外の食料ほぼ全てを輸入に頼っており、それらは海路で運ばれてくる。
壁の外に畑を作ることは出来ない。〈奥溜の大樹海〉に近すぎて魔獣に荒らされてしまう。
海に住む大型魔獣の影響で、この世界では船の大型化が進んでいない。魔獣対策も万全とは言えない。
高い金を払って狭い船倉に詰め込まれるぐらいなら、陸路でついでに商隊の護衛をすれば金も儲かる。
そう考える者が多いので、東ノ浦街道を通る商隊の護衛は他に比べて異常に質が高い。
そもそも並の賊を相手に苦戦する程度の腕では、樹海で魔獣を相手に戦うのは自殺行為だ。
そういった事情を背景に、ボニファスは金魚の糞よろしくアカの他人について行くことで旅の安全を確保していた。
このような真似は、もちろんこの世界でも褒められたものではない。
魔獣に襲われたら、最悪は馬を見捨てて逃げれば良いと考えていた。
わざわざ人間を好んで食べる魔獣もいるが、殆どは違う。
ボニファスが前日に泊まっていた〈湿草野の港〉から〈中州宿場〉までの道程はそう遠くない。
朝に出立すれば陽が沈む前に余裕を持って辿り着ける距離だ。
たとえ一人旅でも半日と少しだけなら大丈夫、だと思っていた。
時刻は昼近く。宿場までの道程はあと半分といったあたりだった。
上り坂に差しかかったボニファスは、馬の負担を減らすため荷馬車を降りていた。
後ろから一人、騎馬が徐々に近づいていることには気付いていた。
特に不審な様子はなく、すぐ追い抜いて行くだろうと気にも留めていなかった。
俄に大きくなった蹄の音にボニファスは振り返る。
馬上の人影はいつの間にか顔を覆面で覆っていた。
馬を駆り、街道を行き来する旅人を狙う賊の一党。
騎馬盗賊と呼ばれる者たちだ。
町からそれほど遠くない、それも往来の激しい宿場町の近くで凶行に及んだのは、よほど逃げ足に自信があるのか何も考えていないのか。
賊は、走る馬の上から身を乗り出し、すれ違いざまにボニファスを小刀で切りつける。
「ひぃぃ――ッ!!」
情けない悲鳴をあげながらボニファスが腰を抜かすと、頭のすぐ真上を小刀の切っ先が走り抜けていった。
最初の一撃を躱せたのは完全に運だ。恐怖で腰が抜けなかったら、首を刎ねられていただろう。
盗賊といえども、大半の者は血に飢えた獣でも快楽殺人犯でもない。
万が一に捕らえられた場合、相手を殺す・殺さないでは罪の重さも段違いだ。
大抵の賊は脅して金目のものを奪い取るだけで済ます。とはいえ物の弾みで殺害に至る場合も多々あるが。
しかし、いきなり殺しにかかる賊というのは、皆無ではないが相当に凶悪と言える。
荷馬車の横を駆け抜けた賊は、すぐさま馬首をめぐらし再び襲いかかった。
そこでボニファスは二度目の幸運に見舞われる。荷馬車を曳いていた馬が暴れ出し賊の行く手を遮ったのだ。
地面を這うように逃げながら、物入れから発煙筒を取りだし紐を引いて投げる。
錬金術師の手による品で決して安くはない。金貨を何枚かまとめて投げているようなものだ。
しかし、命には代えられない。
あっという間に周囲は白煙で覆われた。ボニファスは咳が出そうになるのを必死に耐える。
街道を逃げても馬に勝てるワケがないから、ガムシャラに森の方へ走った。
あとはもう、無我夢中だ。
いつの間にか雨は降り出すし、何度も転んで服は泥まみれになった。
野の獣や魔獣に出くわさなかったのは雨のお陰かもしれず、その点では幸運だった。
逃げ回るうち道に迷った。陽も沈んだ。
半日近く森をさまよい歩き、精も根も尽き果て……。
明かりを見つけたあとの顛末は、既に語られた通りである。




