燔祭の獣 06
悪鬼たちにとっての不幸は、夜を迎える前に根拠地が発見されたことだろう。
夜行性の彼らにとっての夕方は、人間で言うならまだ払暁に等しい。
勤勉さに欠ける性質の彼らだから、目覚めている者はまだまだ少なかった。
見張りを音もなく一瞬で片付けたヴァイオラは立坑の縁に立つと、その胸部をグンカンドリもかくやと膨らませた。
ゆっくりと深呼吸をするように無色透明の毒ガスを吐き出す。
それは竜の吐息と呼ぶにはあまりにも静かだが、死の運び手としては何ひとつ劣るものではなかった。
二度、三度とくり返し吐き出された無色透明無味無臭のガスは、重力に従って地表から地下へ、まだ多くの悪鬼たちが眠る立坑の中を満たしていった。
中には異変に気づいた者も居ただろう。
が、気づいた頃にはもう身体が動かなくなっている。
ヴァイオラを中心に直径五〇〇ヤード(四六〇メートル弱)の範囲に、地下で動く者の気配は何ひとつ残らなかった。
『フム……』
次にヴァイオラは、松明ほどの小さな緑色の火をその口の端からプッと噴き出した。
それは竜の吐息ではなく魔法によるものだ。
その程度の魔法は、竜にかかれば児戯に等しい。
種火は立坑の中央を下へ落ちていき、小さな点になってやがて上からは見えなくなる。
次の瞬間、地獄の釜の蓋が開いた。
立坑の中は瞬く間に炎の海と化した。
〈陸の痘痕〉と呼ばれるこの一帯には陥没孔が幾つも存在する。
それは古代帝国の隧道や地下施設が限界を越えて崩落した跡だ。
それらの陥没孔と、悪鬼が根拠地にした立坑は、元々は隧道で繋がっていたものだ。
立坑の炎は勢いを増し、横穴を通って周囲の陥没孔から吹き出す。
闇夜に点々と、森のあちこちから火の手があがる。
森が燃える。
その中心では天を衝く炎の渦が、夜空へ向かって咆哮する巨大な竜を煌々と照らしていた。
*****
夜空に遠く凶獣の咆哮が轟くのを、リンドウは地べたに座り込んで聞いていた。
見上げれば、炎で真っ赤に焼けた夜の空に高く、ドス黒い煙が幾つも立ち昇っていた。
立坑から十分に距離を取っているにも関わらず、彼は恐怖で強張る己の身体を持て余している。
「あれが竜か……」
地上最強の生物。暴力の権化。実体を得た理不尽。
皆殺しにされるなんて悪鬼はどんな悪事を?
数匹が巣穴に忍び込んだだけだ。
その報復があの地獄か?
分かっている。誰だって害虫が家に入ってきたら巣ごと全滅させたいだろう。
だが、この世界では「虫」の中にヒトも含まれる。
いや、それは地球でも時代と場所によっては同じだろうか。
巣穴に忍び込んだのが、もし〈ごった煮村〉の住人だったら。
リンドウは考えるだけで気分が憂鬱になった。
単なる天災なら仕方がなかったと自分に言い聞かせもする。
しかし、地震や噴火は悪意を持たず被害者を選ばないが、竜は悪意を持って被害者を選別するのだ。
「あの方を竜の標準と見なすのは、些か無理があると思われますが」
シークェルもすぐ近くに座って同じように空を眺めていた。
単に力の強さを指して言うなら、確かに彼女の言う通りだろう。
だが、リンドウが言っているのは、そういう意味ではない。
彼の口から大きな溜息が漏れた。
「帰りもアレと一緒か……」
「でしたら、歩いて帰られれば宜しいのでは?」
皮肉か冗談を言われたのだと思って、リンドウはシークェルの顔を見た。
やはり、その表情からは何も読み取れない。
無言のままで互いに視線を交わすと、リンドウは先ほどの発言には裏がないのだと、理由も分からないまま悟っていた。
彼女は本気だった。
「そんなもン――」
魔獣の出没する人外魔境を直線距離で六〇マイル(約九七キロメートル)以上。
危険な場所を迂回しながらだと、少なくともその二倍は歩く必要があるだろう。
食料や水の準備はない。地図もない。しかし――
「無理じゃないな」
「でしょう?」
リンドウがこの世界に来た当初、スウェットの上下とドテラとタオルだけで樹海に放り出された状況と比べれば今は天と地ほどの差がある。
シークェルはその事情を知らないが、自身の能力と今までリンドウが見せた魔法の腕前から、樹海の踏破は十分に可能だと判断した。
リンドウが喉から低い笑い声を漏らす。
身につけた知識や技術のお陰で意に添わない真似をせずに済むかもしれない。
努力が報われた経験など今までは皆無だったが、存外に愉快だった。
「そうと決まりゃ、あとは適当な理由を――」
言いかけて言葉が途切れる。
日没を過ぎているにも関わらず、いつの間にか周囲が明るさを取り戻し始めていた。
この明るさは、火事の炎だけの所為では……。
空を見上げ、リンドウは絶句する。
「逃げるぞ」
「はい」
素早く立ち上がり走りだした二人の遙か上空を、大きな火の塊が浮かんでいた。
*****
渦巻く炎の旋風が空に吸い込まれていく。
と同時に、立坑とその周囲で燃え盛る炎が一斉に消えた。
日が沈んだばかりなのに、すぐ夜明けが来たのかと錯覚するような眩い光が夜の樹海を照らす。
全身に炎を纏い、赤と黄金に輝く巨大な鳥が姿を現した。
『不死に取り憑かれた忌々しきモノめ……』
ヴァイオラが腹立たしそうに呟く。
不死鳥は竜をもってしても、決して侮れない力を持った生物だ。
確かに不死鳥は老竜ほど強くはない。
しかし無傷で勝てるほど不死鳥は弱くない。
しかも不死鳥は寿命以外で死んでも数日で甦る。
ヴァイオラからすれば戦っても何も得るものがない。
ただ、ひたすら面倒なだけの相手だった。
不死鳥が優雅さを漂わせる動きで降りてくる。
ヴァイオラより一回り小さいだけの巨躯にも関わらず、地面へ降り立つ際にもその重量を感じさせない。
不死鳥は現世に存在しながら、半ば幽世に生きる幻獣である。神や精霊といった存在に近しい、超常的な雰囲気がある。
対照的に、竜は規格外の力を持っていても、あくまでも現世に生きる存在、血の流れる魔獣だった。
ヴァイオラが歯を剥いて威嚇する。
『わざわざ地上に降りてきて何のつもりだ? いつも通り頂から下界を見下ろしておれば良かろう』
ヴァイオラの呼びかけに、不死鳥はハクトウワシにも似た高い鳴声で応えた。
声に合わせ〈他心通〉でもヴァイオラへ意志を伝える。
《何故だ……》
その念はどこか愁いを帯びていた。
《飢えを満たすためでも、縄張り争いでもなく、なぜ意味もなく殺す?》
『愚かな!』
地の果てまで届くようなヴァイオラの咆哮が夜の森に轟いた。
『奪いたいだけ奪い、殺したいだけ殺す! それが竜よ!!』
《何たる傲慢。度し難い》
巨獣二体の激突は一晩に及び、直径三マイル(五キロメートル弱)の範囲は完全に灰と化した。
戦いの後も火は燃え広がり、樹海の生き物たちに無視できない被害を与えた。
この非常事態に、普段は独立独歩を貫く樹海の〈主〉たちは協力体制を敷く運びとなった。
あるモノは森を切り開き、あるモノは川の流れを変え、あるモノは天候を操り雨を降らせた。
一週間ほどで火災が鎮火すると、〈奥溜の大樹海〉のあちこちから集まっていた〈主〉たちは、各々の住処へと帰っていった。
*****
「と、まあ、そのような塩梅でして」
今回の火災について報告を終えた男はひと息つくと、テーブルの上にあるカップに口を付けた。
思わぬ茶の熱さにアチチと舌を出し、冷まそうと躍起になってフウフウと吹いた。
「では、もう大丈夫じゃな」
テーブルの向かいに座るダイアナは、肩の荷が下りた様子で穏やかな表情を見せていた。
その日、森の賢女ダイアナの庵には客人が訪れていた。
羽根つき帽子、派手な胴衣、腰に吊った細剣。
その格好はちょっとした剣士に見える。
ただし、二本足で立って歩く猫でなければだが。
猫妖精の王からダイアナの元に遣わされた男爵は、外見上は大柄のネコにしか見えない。
カップを持つ手も完全にネコのもので、器用にお茶を飲む仕草は見る者を不思議な気持ちにさせる。
お茶を飲み終えた男爵が居住まいを正した。
「左様ならば拙者、この後も所用がござるゆえ、これにてお暇仕る」
ヒゲをピクピク震わせた男爵は、いかにも名残惜しい調子で別れを告げた。
「さらばじゃ」
ダイアナが言い終わるや否や一陣の風が吹いた。
次の瞬間、もう猫妖精は姿を消していた。
「やれやれ、お忙しいことだ」
ダイアナはお茶をつぎ足して一服すると、思い出したようにひとり呟いた。
「……あの馬鹿め、便りのひとつも寄越さんのか」
山火事に巻き込まれて消息が途絶えたら、普通は死んでいると思うだろうがダイアナは違うようだ。
手紙が届くようなマトモな場所には住んでいないのに無茶を言っている。
当のリンドウといえば、確かに生きていた。
もっとも、手紙を書くどころではなかったが。




