燔祭の獣 02
どうやら危機は去ったらしい。誰とはなしに安堵の息が漏れた。
血の気が引いた顔のカジャクが、震える声を抑えながら言った。
「ありゃあ……緑竜か? 真竜なんぞ初めて見たぞ!」
「全長が八〇フィート(約24メートル)を越えていました。規格外の大きさです」
「なあっ!?」
シークェルが告げると、カジャクは悲鳴にも似た声をあげる。
とてつもなく大きな竜だと感じたのは、自分の臆病が大きく見せたと思っていたからだ。
「老竜ってヤツなんだろうね」
スケアクロウは苦い笑みに、諦めの色を浮かべていた。
カジャクの顔色がますます悪くなる。
老竜といえば、大国が軍を率いても勝てるか甚だ怪しい、化物の中の化物だからだ。
それより上といえば古竜ぐらいのものだが、世間では古竜は伝説上の生物という扱いだ。
つまり老竜は、実際に遭遇する脅威としては最悪の部類に入る。
「〈碧緑〉のヴァイオラ、この辺りの〈主〉だな」
全員の視線がリンドウに集まる。
「参ったな、こりゃダイアナの婆さんが出張らねぇとどうにもならんぜ」
ヴァイオラは竜の例に漏れず、自分たち以外の種族を雑魚だと見下している。
しかし、竜の他にも侮れない力を持つ個人の存在を知っていたし、その力を認めないほど愚かでもなかった。
卓越した魔法使いであるダイアナは、ヴァイオラが話を聞く価値を認める数少ない人物のひとりだった。
スケアクロウが、常になく緊張の面持ちで訊ねた。
「村の方角へ飛んでいったのは偶然だと思うかい?」
「なにが出来る。死体が増えるだけだぞ」
リンドウの明け透けな答えにスケアクロウが鼻白む。が、何も言い返せない。
冷静に考えれば、まったくもってその通りだからだ。
スケアクロウには、空を飛んでいったアレよりずっと小さな竜と戦った経験がある。
だから、竜の怖ろしい強さをよく知っていた。
皆の気持ちが暗く沈みそうになると、カジャクが待ったをかけた。
「何もあの竜が村を襲うとは限らんじゃろ」
「そりゃそうだが……」
「まだ何もわかっとらんというのに、随分と悲観的じゃな」
「性分だからな」
へっ、と鼻を鳴らしリンドウが続けた。
「部外者の意見だが、しばらく村には近づかないで事態の収拾を待つ方が賢明だぜ」
「ンな事ぁ、言われんでもわかっとるわいっ!」
カジャクの怒声を耳にしたリュビが身を震わせる。
主人の怯えを察知したレトが歯を剥き出して威嚇すると、今度はカジャクが怯える番だった。
リュビの両肩にシークェルが後ろからそっと手を添えると、険悪になった空気を断ち切るかの如く言い放った。
「わたくしが村の様子を見て参りましょうか?」
驚いたリュビは後ろを振り返る。
シークェルはいつも通りの無表情だった。
とても、自殺願望を疑われるような発言をした人物とは思えない。
「アンタこそ本当に部外者じゃろ。そんな真似させられるか」
「行くとしたら野伏である僕の仕事だよ」
カジャクとスケアクロウの二人が即座に却下する。
リンドウは発言の真意を探るように無言でシークェルを見ていた。
「お待ちください。わたくしが適任だと判断する理由がございます」
シークェルにとって己の有用性を他者に示すことは、人間で言う生理的欲求に近い。
現地勢力との交渉は、案内人として設計された彼女に期待される本来の役割だ。
その枷が外された今となっても案内人の役割は、彼女の精神の基底をなす重要な部品のひとつだった。
「竜語の話せるわたくしなら、万が一の事態に陥っても交渉が可能です」
「可能なのは意志の疎通で交渉じゃねーだろ」
リンドウがシークェルの詭弁を言下に斬り捨てた。
圧倒的強者には交渉など必要ない。ただ要求を突きつけるだけだ。
相手の手に弾丸を込め撃鉄を起こした拳銃があったら、こちらは素手だったなら、要求には全て「はい」と答えるしかない。少なくともその場では。
竜が自分の縄張りから出て行けと言ったら村を捨てるしかないし、問答無用で村人を殺しにきたら逃げ回る以外にない。抵抗は無意味だ。
「では、子供だけでも先に安全な場所へ」
「そう――」
「嫌ッ!」
同意しようとしたスケアクロウを、リュビが強い調子で遮った。
肩に添えられていたシークェルの手を振り払う。
「また私だけ逃げるなんて、ゼッタイ嫌ッ!」
「リュビ……」
「フン、逃げたところで樹海の次は何処に行こうと言うんじゃ?」
カジャクは口角を歪め、皮肉な笑みを浮かべる。
「村にいるのは方々から逃げて来て、帰る場所なんぞ何処にもありゃあせん連中ばかりじゃぞ」
「…………」
スケアクロウには返す言葉が無い。
彼は、行こうと思えば大抵どこへでも行けるし、そこでやっていけるだけの力も持っている。
〈ごった煮村〉の住民について、わかったような口をきける立場ではない。
沈黙を破るようにリンドウが口を開いた。
「おい、ガキ」
リンドウがリュビの方へ歩を進めると、主人を守るようにレトが前に出た。
リンドウが底冷えするような眼差しを向けると、怯んだようにレトが小さく唸る。
スケアクロウが目を丸くした。
魔狼や魔狼犬がヒトを相手に気圧されるというのを、彼は聞いたことがなかった。
「レト……」
リュビが背を撫でてやると、落ち着きを取り戻したレトは主人の横へ控えた。
リンドウは身を屈め、リュビと視線の高さを合わせ真正面から顔を見据えた。
「お前、今日ここで死ぬ羽目になっても納得して死ねるのか?」
「リンドウっ!」
「俺はコイツに聞いてんだ手前ェはすっ込んでろッ!」
スケアクロウが制止したのも無理はない。
リンドウの問いは、まだ十歳の子供に向けて放たれるべき問いではない。
彼は子供の扱いがわからない。子供として扱われた経験がないからだ。
しかし、これはリンドウ自身も過去に経験していたことだが、状況や環境は子供に判断力が身につくのを親切に待ってはくれない。
リンドウがひとつ、あえて言わなかったことがある。
自分が竜に殺されるよりも酷い目に遭う可能性だ。
親しい人間が虐殺される瞬間を(あるいは虐殺の結果を)見せつけられて、なお自分だけ生き延びるのは、場合によっては自分が死ぬよりも辛い。
リュビは歯を食いしばり、使い終えたあとのボロ雑巾のように顔を歪めた。
涙と鼻水に塗れたグシャグシャの顔で叫ぶように答えた。
「そんなのわかんないっ! わかんないよッ!!」
涙で泣きはらした顔を拭おうともせず、こみ上げる嗚咽を押し殺しながらそれでも話し続けた。
「なんにもできないけど、なんにも知らないのは嫌ッ! 逃げ出したら無かったことになるの? ならないでしょ!? なんで逃げなきゃダメなの? なんで、私ばっかり……」
かつてはリンドウも、今のリュビと同じ気持ちに駆り立てられ、同じ問いを投げかけたことがある。
得体の知れない何か――神とか、あるいは運命だとか――に向かって。
“なんで、自分ばっかりこんな目に?”
リンドウの答えは決まっている。
(そういうものだから)
理不尽に理由など無い。ただの確率だ。
その問いの向こうには虚無しか広がっていない。
出来事に何か意味があると思い込むのは単なる気の迷いでしかない。
この世には理不尽なぞ存在しない。理不尽だと思う人の心があるだけだ。
静かに泣き続けるリュビの様子を、レトがすぐ横で見守っていた。
シークェルが何処からともなく布を取りだすと、ありとあらゆる液体でベタベタに汚れたリュビの顔を拭っていく。
されるがままに顔を拭われるうちリュビの目蓋は重くなり、舟を漕ぎだしたかと思うと、シークェルの胸に頭を預けそのまま眠りに落ちた。
泣き疲れたにしても眠るのが早すぎる。
レトは困惑していた。はたしてこれは主人に危害が及ぼされる状況なのか?
しかし、敵意や緊張は感じられない。
判断に窮したレトが尾を高く上げ警戒を露わにする。
「手前ェ、一服盛りやがったな……」
「本人が何を言おうと、子供を危険地帯には連れて行けません」
リンドウの指摘を平然と返したシークェルは、横抱きにしたリュビの身体をスケアクロウへ差し出す。
「お任せします」
「ちょ、ちょっと待って。だから何で君が行くって話になってるの」
スケアクロウは身体を受け取りながら、眠るリュビを起こさないよう押し殺した声で抗議する。
リンドウが割って入った。
「単純に考えろ」
「単純?」
スケアクロウは訝しんだ。何も複雑なことは言っていない。
「会ったばかりで得体の知れないアカの他人のコイツを危険な目に遭わせれば、村の皆が助かる可能性が見えてくる。悩む必要があるか?」
「そういう問題じゃない!――っていうか思ってても口に出さないでよ、そういうの」
スケアクロウは思わずシークェルの顔を見たが、彼女は相変わらずの無表情だ。
「だいいち、君だって外の人間をアテにするなって言ったろ?」
「恋と戦争では手段を選ぶなって諺を知ってるか」
「選ぼうよ!?」
「完全に同意します。有効であれば手段など選ぶべきではありません」
「ゴメン、話がややこしくなるから、ちょっと黙ってて貰えるかな?」
「うぅ~……」
眠っているリュビの眉が不愉快げに歪み、口から小さな呻き声が洩れた。
はっ、と興奮から覚めたスケアクロウが声を低くする。
「……君たち二人は安全な場所でリュビの面倒を見てくれれば良いだろ。村とは関係ないんだ」
「お前さ、危険な役目は自分の仕事だと思ってんだろうけどよ、腕っ節で考えたって意味ねぇぞ。相手が老竜じゃ、俺でもお前でも生まれたての赤ん坊でも同じなんだよ」
「…………」
「アッチは馬の何倍も早い速さで空を一直線、コッチは森を自分の足で歩きながら遠回り。どうやったって先回りは出来ねぇ。だったら、いきなり村が襲われてる場合のことは考えるだけムダだ」
プラプラと手を振りながら、リンドウが身も蓋もない指摘をする。
これでも先ほどまでは子供の目があった手前、一応は自重をしていたのだ。
「それ以外を考えりゃ、竜語の話せないお前に何が出来る? コイツに丸投げした方がまだ上手くいく可能性が高い――違うか?」
「ぐっ……」
何も言い返せない。
シークェルが普通の人間でないのは、既にスケアクロウも分かっている。
だが、暴力の世界でそれなりに名を上げた彼にとって、か弱い女性(に見える相手)を危険な目にあわせるのは耐え難い苦痛だった。
とはいえ、自分の信条など村の安全には比ぶべくもない。
スケアクロウは肩を落とし、喉からため息を漏らした。
「もし、村がダメだった場合じゃが――」
それまで黙って暗い表情で話を聞いていたカジャクが重い口を開いた。
「ワシひとりでは、リュビを樹海の外まで連れて行くことができん……竜の様子を見に行っても足手まといじゃろ……」
「そんなの鍛冶師の仕事じゃないだろ?」
スケアクロウに助け船を出されても、己の無力感に耐えるカジャクの表情は暗い。
「すまんが、ワシはリュビと何処かに隠れて待つとするよ」
「あのう、少し宜しいでしょうか?」
シークェルが小さく挙手をした。