猟矢の獣
どこともしれない遠い夜の空で、暗く重く鐘が鳴り響いていた。
鐘の音は、アパートの薄い壁を通り抜け部屋へ入り込むと、パイプベッドの上で丸くなっていた男の耳へたどり着く。
眉をしかめ男が身じろぐ。喉からうめき声が漏れた。
閉じられた瞼が二度三度と震え、やがて眠り続けるのを諦めたように開かれた。
目覚めた男の顔には濃い疲労の色が浮かんでいた。視線は茫として力が無い。
寝起きの回らない頭で何か考えているのか、じっと天上を見つめている。
と、不意に男はゴフッ、ゴフッ、と強い咳をする。
身体を起こそうとして適わず、力尽き、ベッドの上で蒲団にくるまったまま顔を横へ向けた。
カーテンの隙間から射し込む街灯の光は、独り暮らしの侘しい佇まいの輪郭を浮かび上がらせていた。
不自然なまでに家具の少ないワンルームの部屋。
キッチンで埃をかぶる調理器具の数々。
大型の冷蔵庫がやけに目を引いた。
無造作に床へ積まれた書籍の山。
空き缶やペットボトルで膨らんだゴミ袋の山。
部屋にはテレビも電話もPCも無かった。
焦点の定まらない目で男が部屋を眺めている。
と、またひとつ外から鐘の音が聞こえ部屋の暗がりに広がっていった。
(……ああ、大晦日か)
そんな事すらすぐには気付けないほど、男は完全に日付の感覚を失っていた。
腹の底から大きな溜息を漏らす。
控え目に言っても気分は最悪で、体調はそれに輪を掛けて最悪だ。
ひとり鬱々と考えに浸れば、弱気の虫と自己憐憫の忍び寄る気配がする。
男の背筋に冷たいものが走った。
身を震わせ、襟元に巻いたタオルで顔や首を拭う。
タオルは汗を吸ってじっとりと重くなっていた。
男は、酷く喉の渇いている自分に気づいた。
男は力の入らない体を鞭打ってベッドから抜け出す。
床を這うように進む。
伸び放題で手入れもされていない髪と、ノッポで痩せぎすの体は幽鬼さながらだ。
着古したスウェットとドテラが見窄らしさに拍車を掛けていた。
男は床で膝立ちになり、ほとんど空の冷蔵庫から薬瓶とペットボトルを取り出す。
瓶から取りだした錠剤をミネラルウォーターで飲み下した。
胃に何か入れておくべきだと思ったが、固形物を口にする気にはなれない。
無理をして冷蔵庫に残っていたパウチ入りのゼリー飲料を飲み下す。
床に座り込んだ。
尻の下がひんやりと冷たくて、男はそのまま床の上で眠りたくなった。
床に座ったままひと息いた男は、ミネラルウォーターのペットボトルを手にベッドへ戻る。
往復で十メートル足らずの移動に疲れ果て、倒れるようにベッドへ身を横たえる。
パイプベッドの軋む音が、やけに大きく聞こえた。
(子供のころ風邪で死にかけたときも、こんなだったか……)
昔を思い出すと胸が悪くなる。
男は、知らず知らずのうち火傷の跡が残る右腕を摩った。
冬は嫌いだ。嫌な思い出しかないうえに体の古傷まで痛む。
とはいえ、春にも夏にも秋にも碌な思い出がない。
物心ついてから十年余りの月日は苦痛と孤独の記憶で埋めつくされていた。
そこから今に至る十年弱の記憶は失敗と敗北と逃走で塗り固められている。
地獄から逃れた先はまた地獄だった。
地上に地獄を生み出すのは人間だと気づいたら、どこにも逃げ場はなくなっていた。
この数年というもの、男は世捨て人のような毎日を送っていた。
そんな生活もあと半年を目処に貯金が尽きれば否応なく終わる。
未だに全てのことを虚しく感じていたが、人生の敗残者にも日々の生活がある以上は糧を得る手段が必要だ。
男は実家へ帰ることも出来なければ、恥を忍んで頼る友人も今はいない。
誰にも頼れないと思っていたし、そのつもりも無かった。自らの頑なさを自覚することもなかった。
男は朦朧とした意識のまま刹那に想う。
祈るべき神を持たない身でただ漠然と想った。
(悩んだって余計に苦しむだけだってんなら……)
獣になりたい。
鳥に、魚に、虫に。
原生生物に。
自我のないモノに。
あるいは、機械に。
人形に。
自分が変わるしかない。
変わらざるをえない。
自分が今の自分である限り、同じことの繰り返しなのだから。
だが、繰り返されるだけの日々すら失って、男の地球での生は終わりを迎える。
周囲に翻弄され、怯え、惑い、怒り、最後まで何もわからなかった旅路の終着点は、この独り居の部屋だった。
鐘は、いつの間にか鳴り止んでいた。