第三章 07
罰に暴走の気配がなくなった。
彼らは上手くやったのだろう。
俺は今回のことで学んだ。
人は人を許すことができる。
罪は最終的には許しに向かうのではないか?
そう考えると――
人が人を裁判するのは、罪を償わせて、ある意味、人を許すためではないか?
罰を受けさせて、その結果で相手が酷い目にあうにしろ、なんにしろ、それで楽になることで世界を――その事実を――
それがあったことを受け入れ――それを忘れることを――
前に進むことを――許す。いや、終わらせるという方があっているのか?
そうなると裁判教会はむしろ必要ないのでは?
いや、裁かれるべきなのに裁かれていないものがある。
裁かれるべきなのに裁かれていないものを――
何かが動けば――
何かが正しくなれば、壊れる偽物を――
裁けば――
動かすことであるべき姿――
つまり、本物にすれば――
それが精算され、許された時に――
本当に心を入れ替えることができるかもしれない。
そう、どうしても変えられないものは、それを受け入れてなお許すことで変えられるかもしれない。
いや、それは時によるのだろう?
その考え方で正しい方法で望みを叶えられないことを変えられないものとして受け入れてしまえば――諦めてしまえば――
初めの願いという汚れのない――罪のないモノが――
諦めによる悪い方法の選択をしてしまって罪になってしまう。
いや、受け入れるだけなら問題がないのだろう?
それはそれを叶えることすら諦めること。
いや、自分の願いを妥協することだから――
だからと言って、間違いを犯してもいいと妥協してはいけない。
それが罪になる。
だから、受け入れてなお許すことでも――
その最後の手段でも変えられないのなら、
願いを諦めるか妥協するか――
人を頼ってでも、世界の力を借りてでも、
その許せるという正しさで――
また方法を考えるしかないのだろう?
そこまで行ける程の正しさと想いがあるのなら、
世界は――少なくとも誰かは――必ず味方をしてくれる。
そう思う。




