受難
「…あんた、そんなとこで何してんの?」
ぶっきらぼうな、若い女性の声が頭上から降ってきた。
膝の上に伏せた顔を少しあげて、声の主を確認する。
視線を足元からゆっくりと上げていく。
深い赤色をした革のブーツ。
ところどころに油汚れのあるベージュのレギンス。
腰には2本のレザーベルトとポーチ。ポーチには薬瓶にようなものが入っている。
胴回りにはレザーのコルセット。表面につけられた細かい傷跡は刃物によるものだろうか。
白いブラウスの第1ボタンと第2ボタンは外されている。庶民とはいえ、だらしがない。
そして右半身を覆うような左右非対称の深緑の外套は端がボロボロになっていた。
外套で隠された右半身から覗いているのは、女性には大きすぎるほどの弓銃。
冒険者かなにかだろうか。
…面倒だ。
そう思ってもう一度顔を伏せる。
「…放っておいてください。」
「ちょ、あんた…人が親切に声かけてやってんのに何なの、その態度は!」
…口が悪い人だな。
こっちは貴方に構っている暇はないんだ…。
とはいえ、今のところ、次にやるべき事の目途も立っていないのだけれど…。
「ねぇ、膝抱えてうずくまってないでちゃんと目見て話しな。」
女性は諦めてくれない。
面倒だけど、もう一度顔を上げる。
僕のことを放っておいてくれないお節介焼きの女性の髪は明るい栗色をしていた。
片側に流した髪はところどころ煤けている。
顔は油や泥、砂埃で汚れているようだが、目鼻立ちはスッキリとしている。
年の頃は僕と同じ18、9歳くらいだろうか。
まだ少女と言っていい年齢だろう。
瞳は燃えるような紅色をしていて、吸い込まれそうな深さがあった。
そして彼女の2つの紅い瞳は、しっかりと僕の瞳を射抜いていた。
その真っ直ぐさに怯んでしまって、また目を伏せる。
「…もういいんだ、僕のことは放っておいてくれ。」
「…ははーん、大方あんたはどっかの貴族の坊ちゃんで町に遊びに来たは良いものの、従者とははぐれるし、悪い奴には騙されるしで途方に暮れてる、ってところかしら?」
一部間違いはあるものの、図星を突かれて少女の顔を見上げる。
「図星ね。そりゃ、そんな高そうな服と家紋入りの剣なんか下げてたらそうなるわよ。」
少女は少し呆れたようにため息をつくと、僕の目の前に屈む。
動いた拍子にふわりと柑橘系の爽やかな香りがした。
そして彼女は再び僕の目をしっかりと見据えると手を伸ばして、言った。
「あたしの名前はナインライム。<虚木>のナインライム。さぁ、立って。宿で話を聞いてあげる。」
僕は自分の名前だけをつぶやくと、その手を取って立ち上がった。
***
旅は順調だった。
レントハイムまでの道のりで、街道にある宿場町は3つ。
そのうち2つを何事もなく通り過ぎた。
そして3つ目の町、プリエストを過ぎてほどなくして、商人の一行と出会った。
「良いお日和ですね。貴族様はどちらまで?」
商人のリーダーと思われる恰幅の良い男が馬上から声をかけてくる。
儲けているのだろう、男の身なりはよく、手には宝石細工のあしらわれた指輪をいくつもはめていた。
「貴殿は?」
「おおっと、これは申し遅れました。私は商人のグラベルと申します。」
「グラベル殿か。私はアルシェス・シトゥルザークです。こちらは従僕のリアム。」
脇に連れ立ったリアムが商人に頭を下げる。
「なんと!もしや、シトゥルザーク家の?」
「ええ、本家の人間です。」
「これはとんでもないお方とお会いしてしまいましたな!はっはっは!」
グラベルはやや過剰と思えるほどに驚いて見せると、耳が震えるほどの大声で笑い出した。
「あ、いやこれは失礼。すると、アルシェス様はレントハイムに向かわれる途中ですかな?」
「その通りですが…」
「では、あのお噂は本当だったのですね?」
「…グラベル殿、噂とは?」
「シトゥルザーク家の御嫡男が国家反逆の罪を犯し逃亡。その弟である方がその捜索の勅命を受け諸国を巡る旅に出た…と」
グラベルの口から語られたことを聞いて思わず身構える。
…すでに市井の商人にまで、その話が伝わってしまっているのか。
「警戒させてしまったようですね。これはとんだご無礼を!しかし、情報は商人の命にございます。そういった噂は町娘の色恋沙汰まですべて仕入れているのです。」
「…そうですか。」
「ご安心くださいアルシェス様。我々はシトゥルザーク家の治めるバールハイムでも商いをさせていただいております。そのご恩を仇でお返しするようなことはいたしませんよ。はっはっは!」
グラベルはそう言って、再びよく響く大声で笑いだした。
「ここでお会いしたのも何かのご縁。レントハイムまで、ご一緒いたしましょう。我が隊には護衛の戦士たちもおります。道中の安全のためにも是非。」
「それは構いません。むしろ有難いお話です。」
ここまでの道で危険なことはなかったが、リアムは僕を守ろうといつも緊張しているのが見て取れた。
リアムに少しでも骨を休めてもらうためにも、グラベルの提案に乗るのは正しいだろう。
それに、目の前の男は商売のことしか頭にないだろうが、悪い人間ではなさそうだ。
グラベルは大きく頷くと、一行に我々が加わることを大声で伝えた。
リアムは少し複雑な顔をしていたが、黙って従っていた。
それからの道中、グラベルの話が途切れることはなかった。
グラベルの話は面白く、何度も笑った。
こんなに笑ったことははじめてだった。
そして日が傾きかけた夕刻。
グラベルが、話を切って野宿の提案をしてきた。
「ここから先、街道を縦に分けるように河がございます。しかし先月の大雨による洪水で橋が流されたまま、今も復旧しておりません。そこまで深い河ではございませんが、夜も近づいてまいりましたので少々危険かと思います。」
「そうなんですか。」
「はい、ですので今日はアルシェス様がお厭でなければ、是非キャンプを張って共に火を囲めればいいかと思うのですが。」
「一向に構いません。野宿はしたことはありませんが、一度やってみたいと思っていましたから。」
「はっはっは!宿のベッドも良いですが、旅の途中の野宿もなかなか良いものですよ!」
グラベル一行の手際は素晴らしく、瞬く間にテントが張られ、森の端の広場に野営の準備が整った。
中心では火が焚かれ、火の上に吊るされた鍋では、一行の中で料理自慢の中年男性がシチューを作っていた。
「ささっ、アルシェス様もお召し上がりください。お口に合うかは分かりませんがね!はっはっは!」
すっかり慣れてしまったグラベルの笑い声を聞きながら、手渡された木のボウルに入ったシチューを一口…
「…これは、旨い。」
「美味しいです!」
隣でシチューを口にしたリアムも同様に賞賛の声を上げる。
煮込まれた兎肉は程よい柔らかさで噛むたびに旨味が溢れだしてくる。
肉と共に煮られた根菜も、これもまた柔らかく、味が染みている。
野趣溢れる食卓だが、この星空の下で摂る食事も、なかなかどうして旨いじゃないか!
「よろしければ、後でレシピを教えてください。家に帰ったら料理長に作らせます。」
「はっはっは!お気に召したようでなによりです。このような料理でよろしければいくらでもレシピを差し上げますよ!」
答えたのはグラベルだったが、料理を作った男も満足な笑みを浮かべて頭を下げた。
「これはシトゥルザーク家に認められたシチューとして売り出さねばなりませんな!」
「ははっ。それならバールハイムの家にいる叔父に頼んでみましょう。」
「ではこれを『大貴族シチュー』とでも名付けましょうかな!はっはっは!」
グラベルは上機嫌だった。
僕も、その笑い声につられて笑った。
しばらくの間、火を囲んでグラベルの今まで旅してきた土地の話や、料理人である男性が実は元は兵士で、エンヴィリオン家のもとで働いていたことなど、様々な話を聞いた。
この頃には僕はすっかりグラベルに心を許していて、その話術に乗せられたのか焚火の熱にあてられたのかはわからないが、シトゥルザーク家のことや兄のこと、旅に出るに至った経緯などを話していた。
「…それは大変な旅になりましょうな。」
「ええ、でもリアムがいれば必ず果たせるでしょう。」
グラベルは熱心に話を聞いて、時折大きく頷いた。
話すのも巧いが、聞き手になるのも巧かった。
「それで、デルマイユへはどうやって御出でになるのですか?関所がありましょう。」
「ああ、それにはこれを使います。」
そこで、僕は胸元にしまっていた朱色の木札を取り出した。
「そ、それは…!!」
「国王陛下より賜りました通行手形です。これがあればデルマイユもランデルゴートにも行けると聞きました。」
手形を見たグラベルは言葉を失って、口をパクパクさせていた。
その様子がおかしくて、僕は思わず笑ってしまった。
「はははっ。なんて顔をなさるんです、グラベル殿。通行手形など、商人であるグラベル殿も持っているでしょう?」
「へ…は、はは。確かにその通り!私めももちろん持っておりますとも。…しかし、少々疲れが出てきたようです。夜も更けてきましたので、よろしければアルシェス様もお休みください。」
「ああ、そうですね。明日もあるし、そろそろ休ませていただきます。」
「…では、こちらに」
そう言ってグラベルは僕たちのテントへ案内してくれた。
「ではごゆっくりとお休みください…」
グラベルがテントの幕を下ろすと、途端に睡魔が襲ってきた。
慣れないことで心身共に疲れていた。
だが、心地よい疲れだ。
楽しい一日だった。
これが旅の楽しさか、という思いを噛みしめる。
外でグラベルと誰かが話しているようだったが、眠気が勝って眠りに落ちた。
「…アルシェス様!アルシェス様、起きてください!」
どれくらい眠った後だったろうか、突然リアムが体を揺すった。
いきなりのことで驚いたが、何事だろうか。
眠い目を擦る。
「どうした、リアム。何かあったのか?」
「シッ!…何やらこのテントの周囲で妙な物音がします。」
リアムは声を抑えて喋る。
その表情は固く、険しい 。
「そんなに怖い顔をしてどうしたんだ。外にはグラベル殿の雇った戦士たちがいる。その見回りの音だろう。」
「いえ、違います。このテントの周囲を取り囲むように人の気配がいたします。」
「それこそ、グラベル殿が手を回したのではないか?我々が安全なようにと」
その時、テントの幕の向こうから、グラベルの声がした。
「…アルシェス様、起きておいでですかな?」
その声は、しかしつい先刻まで聞いていたグラベルの声色と、少し違っていた。
どこか、固い。
緊張に震えているようにも思える。
「ああ、起きて…」
口を開こうとするとリアムに口をふさがれた。
リアムは口の前に人差し指を立てて、静かにするよう、仕草で伝えてくる。
「…いいですか、アルシェス様。私が出て行って、彼らの注意を引き付けます。その隙に裏手よりお逃げください。森に紛れれば逃げおおせられるでしょう」
「…でも、そんなことをしたらリアムが危険だ」
「…このような時のために、私が同行しているのです!」
リアムの表情はいつになく真剣だった。
その気迫に圧されるように、僕は頷いた。
「…わかった。」
「私も機を見て必ず逃げ出しますので、プリエストでお待ちください。」
リアムの言葉に黙って頷く。
それを聞いたリアムは小さく微笑むと、立ち上がった。
そして、幕の方へ歩いて行った。
「何事でしょう、グラベル殿。アルシェス様はお休みです。」
「おお、従僕のリアム様ですな。少しばかりアルシェス様とお話がございまして…」
「…いかにグラベル殿と言えど、このような時間に無礼ではありませんか?」
「お手間は取らせません、ほんの少しでよいのです…!」
リアムがこちらに向き直り、腕を振る仕草をする。
『はやくいけ』ということのようだ。
これからリアムの身に起きるかもしれない危険を思い、胸が苦しかった。
だが、今はグラベルの声に怒気が含まれているようにも感じる。
何か、これからやろうとしていることに興奮しているのかもしれない。
何か、良くないことをやろうと…
リアムがグラベルと会話を続けながら、幕から外に出ようとする。
そのタイミングに合わせ、枕元に置いた剣を掴むと、僕はテントの裏から飛び出した。
全力で走り、森へ入る。
木の枝を踏んだ足元でパキリと乾いた音がした。
「シトゥルザークの坊主が逃げたぞーっ!追えー!追えー!!殺して、手形を奪い取れーぇっ!!!」
背後からグラベルの怒号が聞こえ、耳元を矢がかすめたが、僕は振り返らずに走った。
***
「…ふーん。で、アルシェスはその商人たちからプリエストまで逃げてきたと。」
「…そうです。」
ナインライムの宿泊先の部屋で、これまでの経緯を説明する。
風呂上りの彼女は下はレギンス、上はリンネルのシャツ1枚の姿だ。
濡れた肌に張り付いたシャツが彼女の体の線をくっきりと浮かび上がらせる。
しかも、あろうことか下着をつけていないようで、豊かに膨らんだ胸の先に陰影が見える。
…年若い少女がはしたない。
心臓が脈打つのを感じ、平静を保つため彼女から目を逸らした。
「その奪い取られそうになったっていう手形は今も持ってるの?」
「…」
「そんなに警戒しないでよ。別にあたしは盗ったりしないわよ。」
僕は警戒しながら、首に下げた手形を胸元からゆっくりと取り出す。
朱色に塗られた木札には王家の証、獅子の紋章が彫られている。
「なるほど、それがね。…貴族のあんたはその価値が分かってないかもしれないけど、手形ってのは滅茶苦茶貴重なんだからね。」
「…そうなのか?」
「もちろん。それぞれの国を行き来するのに当然必要になるわけだけど、そもそも身元の怪しい人間にそんなもの渡せないでしょ?」
「言っている意味がよくわからないんだけど。」
ナインライムの説明がよくわからなかったので素直に疑問を口にすると、彼女の顔はあからさまに呆れ顔になった。
「あんたねぇ…その手形をさ、とんでもない極悪人が持っていたとして、そういう人間を自分の国に入れたいと思う?」
「…いや。」
「だから、手形ってのは『信頼できる人間ですよー』っていう証明なわけ。」
なるほど。
国外へ出るには手形が必要だとは知っていたが、そのような意味があるとは思っていなかった。
信用の証、か。
「しかも、手形にも種類があってね。色と紋によって通れる関所が決まってるわけ。」
「…うん。」
「あんたが持ってるその朱色、しかも紋は王家の獅子なんて言ったら、最上級の手形なのよ?商人たちが人を殺してでも奪おうとするわけだわ。」
「…知らなかった。」
そうでしょうね、と言わんばかりに少女は大きなため息をついた。
「ランデルゴートに入れる手形は青、ル・カンは白、デルマイユは緑。あとはどれか2つの国に入れるものもあるし、3つの国全部に入れるものは紫色をしてるわ。」
「3国すべては朱色じゃないのか?」
「朱色は紫の上よ。普通、関所を通る時は1人1人身元を確認されるし、荷物の1つ1つまでチェックされるの。この審査を受けるための待ち時間がね、長いときは数週間待たされる。」
「数週間!」
「…朱色は全部すっ飛ばして最優先で審査を受けられるの。さらに王家の獅子紋はその審査すらすっ飛ばして関所を通れる。まぁ、いわばフリーパスね。」
国王陛下から賜ったこの一片の木札がそれほどに大変なものだったとは。
王都をほとんど出たことが無かった自分が、いかに世間のことを知らなかったか。
いま、まざまざと思い知らされている。
「…ナインライムは、詳しいんだな。」
「昔、父さんと一緒に大陸中を回ってたからね。隊商の護衛をしながらだったんだけど、その時商人に教えてもらったわ。ちなみに、1か国しか行けない青のランデルゴート手形を買うのでもこの街に1軒家が建てられるほどの金額が必要なのよ。」
なんてことだ。
最下級の手形でも庶民の家が建つほど高価だなんて。
それなら陛下より賜ったこの木札はそれ以上の価値が…。
優しげに見えた商人たちがこれを目にした瞬間に豹変するわけだ。
彼らは、本当に僕らを殺してでも、この手形を奪おうとしたのだろう。
…リアムは殺されてしまっただろうか。
「で、あんたの連れのリアム君だけど。」
「…リアムは無事だろうか?」
「確かなことは言えないけど、たぶん殺されてはいないわ」
「本当か!」
「さぁね。でも、手形が手に入らなかった以上、殺人を犯すのは割に合わないわ。お尋ね者になるのはイヤだろうしね。」
「それなら…」
「…それなら、おそらくリアム君は奴隷として売られるわ。」
「奴隷だと!」
「その商人たちはレントハイムに向かってるって言ってたんでしょ?レントハイムには国内でも有数の奴隷市場があるわ。」
リアムが奴隷として売られてしまう?
そんなことあってたまるか!
「リアムは従僕とはいえ、貴族なんだぞ!」
「…なら、なおさら高く売れるわね。貴族の少年なんてそうそう出回らないから。」
こうしてはいられない。
一刻も早くレントハイムに向かわなくては。
僕は腰から外していた剣を引っ掴むと、椅子から立ち上がった。
「ちょっとちょっと!どこ行こうってのよ」
「レントハイムだ!早くしなければ、リアムが売られてしまう!」
「いいから落ち着きなさいよ!馬だって盗られたんでしょ?どうやってレントハイムに行くっていうのよ!」
「走る!」
「そんなの無理に決まってんでしょ!」
次の瞬間、ナインライムが腕を振り上げたと思ったら、左の頬に激痛が走った。
「まったく、おっとりしたお坊ちゃんだと思ったら、今度はキレて暴走するとか…」
思わず床に尻餅をついて気が付いた。
僕はこの少女に殴られたのだ。
ナインライムは、痛そうに右手を振っている。
「乗りかかった舟だから、あたしもレントハイムについて行ってあげる。でも、それは明日の朝、馬を調達してからよ。わかった?」
ナインライムにそう言われて、熱くなった頭が急激に冷めていくのを感じた。
歳もさほど変わらない、平民の少女に諭されるなんて。
そう思ったとたん、急に情けなさが襲ってきて、涙がこぼれてきた。
なんて…なんて自分は無力なんだ。
「…アゥ…ウグッ…」
「もー、今度は泣き出すの?あんたも結構忙しいヤツねぇ。」
そう言いながらナインライムはへたり込んだ僕のそばへ来ると、優しい力加減で抱きしめてくれた。
顔に豊かな胸が押しつけられて少し苦しかったが、今はその温かさが有難かった。
僕は泣き疲れてしまったのか、その温かい優しさの中で眠りに落ちて行った。