第1話 兄の失踪
アルシェスの目の前にはただ茫洋とした青色が続いていた。頭上から差し込む白い光がゆらゆらと踊りながら足元の砂に網目模様を描いている。白い半透明のブヨブヨした生物が、何本もの触手を動かしながら横切っていく。遠くでは銀色に光る肌をした小さい魚が群れを成し、渦を巻くように流れていた。
ここは海底だ、とアルシェスはすぐに理解した。もっとも、アルシェスは実際に海に潜ったことも見たことすら無いので、今見ている風景が夢であることも同時に理解した。
夢の海底は、水の中だというのに不思議と温かかった。アルシェスは手足を動かし水の流れに身を任せるように泳ぎ始めた。息も苦しいという感覚はない。
ゆったりとした水のうねりに乗っていると、足元に大きな亀裂が現れた。その底は暗く果てしなく、深淵にまで届いているようだった。不安が一瞬頭をよぎったが、アルシェスはその中へ潜っていくことにした。
深く、深く潜っていくにつれ、次第と魚の数は減っていった。その代わり、ただの闇が続くかと思われた底にぼんやりとした光が見えてきた。その光は橙色から緑色、緑色から青色、そして青色からまた橙色へと、ゆっくりとその色を変えていく。だが、アルシェスは不思議とその光に懐かしさを感じたのだった。
次第に光の源へと近づいていく。それに合わせて胸に湧きあがった正体不明の郷愁はだんだんと強くなっていった。あの光を前に見たことがある、でもそれはいつのことだろう。アルシェスはただぼんやりと、光に向かって泳ぎ続けた。
ようやく光の元へとたどり着いてみると、そこは神殿のような人工的な建造物の上だった。だが水の底で途方もない歳月を過ごしたためか柱や床はぼろぼろに朽ち果てており、ここが屋根の上であったのか、それとも祭壇であったのかも判らないほどだった。そしてその朽ちた床の上に、人の体の十数倍の大きさはありそうな巨大な晶石の塊が鈍い光を放ちながら鎮座していたのだ。幾重にも重なった透き通った石の柱は自らの内側から淡く、しかし確かな光を放っていた。
アルシェスはそっとその晶石に触れると、光のさらに中心にあるものを確かめようとゆっくりと顔を寄せていった。だが、その向こうには信じられない光景が広がっていた。
アルシェスは今、緑の草原を目の当たりにしていた。その草原では見たことも聞いたこともない、灰色の肌に無数の棘を持った四足の獣がその巨大な体を揺すっていた。その横では白い羽毛に包まれた二足で立つ鳥が人を乗せて駆けている。弓に矢を番えたところを見ると、どうやら鳥に乗った人物は狩りをしているようだった。
草原の果てに目を向けると、草の緑の向こうのさらに奥に見える山よりも、高く天に向かって立つ巨大な樹が見えた。ただそれは確かに樹であったが、どこか生物的で手と足そして頭のような幹があり、まるで人であるかのようにも見えた。アルシェスの視界は意識に従うように、その巨大な樹へと迫っていった。
近づいてみると大樹はより一層その巨大な実態を現していった。幹の大きさは途方もなく、ただアルシェスの住む王都を容易に覆ってしまうほどであることはわかった。無数に分かれた枝には青々とした葉が茂り、赤い実が実っている。頭上では人の背丈を優に超えるほど大きな翼を広げた猛禽が獲物を求めているのか、忙しなく飛び回っている。枝の分かれ目にはその猛禽の巣らしきものも見えた。また大樹の幹に沿うようにして家らしきものが建てられているのが見えた。驚いたことに、この樹上で人が暮らしているのだ。
樹の上に建てられた家に住む人々は皆、吟遊詩人が語る英雄譚の登場人物であるかのように見目麗しい姿をしていた。深い色をした艶やかな天鵞絨の服に包まれた肢体は細くしなやかで、目鼻立ちのすっきりとした顔には高貴な血が流れていることが容易に想像できた。まるで何人にも冒し得ない、神のような聖性すら感じさせるようだった。
一見、自分たちと同じかと思った彼らの姿には、小さな差異だが我々とは決定的に違う、ある共通した特徴があった。それは耳だ。上に向かうもの、真横に伸びたもの、下に垂れたものと向きは様々だったが皆一様に耳が尖っていたのだ。自分が見たこともない王都の外には、このような人々が暮らしているのだろうか。だがアルシェスが今まで読んだどのような物語にもこういった特徴を持つ姿の者は出てきたことがない。また今目にしている人々の神々しさたるや、これまでに知っている如何なる人物よりも崇高な者たちであると感じられた。
ふと、樹精族という呼び名が頭をよぎった。エルフ、聞いたこともないが樹上の人たちをそう呼ぶことが不思議と正しいと思われた。エルフ、とぽつり呟く。
すると、そのエルフのうちの一人がこちらに視線を向けた。女性のようだ。歳は若く、まだ少女のように見える。だが周囲のエルフたちも男女問わず若々しく、思うにエルフには若者しかいないのかもしれない。あるいは神のように老いを知らない種族なのかもしれない。ともあれ、こちらに目を向けた少女は、晶石を通してその姿を見ているはずのアルシェスに気づいたようだった。
すると少女は空中に向かってゆっくりとした所作で両の手を合わせ、祈りの姿勢を取った。自分に向けられている、訴えかけるような眼差しに胸がドキリとする。そして少女は静かに何かをしゃべっているようだった。アルシェスに伝えるように、何かを。
唐突に吹いた強い風が、少女のその鮮やかな若緑色の髪を激しくなびかせた。それでも、乱れる髪を気にもせず少女は真っ直ぐとアルシェスを見つめたまま祈りを続ける。その声は聞き取れなかったが言葉に合わせて動く少女の唇を見ながら、どうにかしてその声を聴きたいと思った。もっと近く、もっと近くへ……。
そこでアルシェスはふと意識が遠くなるのを感じ、夢から醒めた。
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目を開けると、見慣れた天井が見えた。白く塗られた天井には染み一つない。鎖で吊り下げられた照明がゆっくりとかすかに揺れていた。
「……寒いな」
冬の寒さが寝室を支配している。骨の芯にまで至るような冷たさと、深とした静けさ。寝台の脇の窓から覗いた空はまだ明けきらない様子だったが、雲はない。今日は晴れそうだった。
今日は夕刻まで予定はない。それまで何をしようか。剣の稽古もいい。庭のベンチで読書をするのもいい。王都の外まで遠乗りに出かけるのはどうだろうか。
何かの予定を立てているときが一番面白い、とはよく言うが今がまさにそれだろう。まだ決まっていない今日の予定に少し胸が躍った。
手をさすりながら寝台から抜け出そうとすると、見計らったように部屋のドアがノックされた。
「……お目覚めですか、アルシェス坊ちゃま」
「うん、起きてるよ。おはよう、ユージェルム」
アルシェスが返事をすると、深茶色のドアがゆっくりと開かれ、背筋をシャンと張った白髪の男が部屋に入ってきた。白髪の男、シトゥルザーク家の執事であるユージェルムは既に皺一つない燕尾服をキッチリと着込んでいる。
そして執事はアルシェスの目の前数歩のところでぴたりと立ち止まると、目を瞑り深く一礼した。シトゥルザーク家の毎朝の光景だ。
「おはようございます、坊ちゃま。今朝は冷えますのでこの外套をお召しください。」
「自分でやるよ。もう子供じゃないんだしさ」
アルシェスはユージェルムの手から鹿の毛皮で出来た外套を奪うように受け取ると大きく広げ、羽織った。この外套はかつてアルシェスの父ヴォドーが、大狩猟祭の折に狩った鹿の皮で作られたものだ。父はこの外套を思いの外気に入っていて、冬になるといつもこれを着ていた。アルシェスがこれを着ることは、父ヴォドーの命日である今日という日には相応しいだろう。
外套は暖炉のそばで温めてあったのか、ほのかに煤けた匂いがした。
「ご立派なお姿でございます、アルシェス坊ちゃま。亡き旦那様が今の坊ちゃまをご覧になられたらなんと仰るか……」
「大げさだよ、ユージェルム」
ユージェルムがやけに褒めるものだからアルシェスはどこか恥ずかしい気持ちになって一瞬、外套を脱ぎ捨ててやろうかとも思ったが、やめておいた。
執事は未だにアルシェスを子ども扱いする。アルシェスはこの執事が自分の生まれる前から屋敷に仕えておりまた仕事熱心であることを理解してはいたが、十九歳にもなって人に甲斐甲斐しく世話を焼かれているようではいけないとも思っていた。
そんな思いを知ってか知らずか、勤勉な執事は顔色ひとつ変えもせずいつも通りの柔和な顔でアルシェスの支度が整うのを待っていた。
「朝食は既に用意してございます。すぐに召し上がられますか」
「うん。はやくスープを飲んで温まりたいかな」
「かしこまりました。今日のスープはカブを使ったものと聞いております。」
「それは楽しみだ。カブは、父上の好物だったもんな」
左様でございます、とユージェルムは優しく微笑むとアルシェスの後ろについて歩き出した。
階下の食堂で豆の絞り汁とカブを煮合わせた乳白色のスープを口に運びながら、ふと執事に今朝見た夢の話をする。
「ユージェルム、樹上にすむ樹精族という人々を知っているか」
「樹上に暮らす人々、エルフ……でございますか。失礼ながら、今まで聞いたこともございません」
「そうか。では、王都を覆ってしまうほどの幹を持つ大樹の話は?」
「さあ、それも……夢のお話でございましょうか」
「ああ、今日の夢はすごかった。気づくと海底にいたんだ。さらにその底には巨大な晶石があってな、それに顔を寄せると今度は大草原が目の前に広がるんだ」
夢で見たあの景色は本当に心を奪われるものだった。悠然とした大自然の中に、見たこともない生き物や植物、それに樹上に暮らす麗しき人々!特に、あの祈る少女の顔は今でもアルシェスの脳裏に焼き付いている。
「左様でございますか……まさに、夢のようなお話でございますね」
執事の口元は微笑んではいるが、その表情は曇っていた。
「ですが坊ちゃま……」
「わかってる。夢の話は他所ではしないよ」
「……お判りなのであれば結構でございます。」
そう、家の外ではこの夢の話をしてはいけない。それは、見た夢の話をすることがいけないことなのではなく、見た夢のその内容が問題なのだ
アルシェスがその手の夢を見るようになったのは八歳の頃だった。今朝のように朝食を摂りながらアルシェスは両親に嬉々として夜中に見た夢の話をした。『長い髭を蓄えた老人が杖を振りかざし何やら言葉を唱えると、それまで何もなかった空間に炎の球が現れて、それが対峙していた巨大な黒い獣に向かって飛んでいきこれを焼き払った』。そんな話だった。
この時のことはユージェルムも覚えている。息子の話を最初は笑って聞いていた両親であったが、老人の杖の先から炎の球が現れるくだりで顔色が豹変した。ユージェルム自身もアルシェスの話を聞いて雷に打たれたような思いだった。
この世界にはあり得ないものを夢で見る。これは<幻想病>と呼ばれる病気であった。正常な人間であればこの世にあり得ないものを夢に見ることは決してない。だが、ごく稀に、この世にはないものを夢に見る者がいる。それが幻想病患者だ。
病の程度が軽い者であれば、夢の話さえしなければ普通の人間として問題なく生活ができる。しかし重度の者は神の言葉を騙って妄言を撒き散らす、怪しげな薬物に頼って夢想に耽る、さらには死すれば夢の世界に行けると信じ自らの命を絶つなど、社会から逸脱した行動をとるようになる。
アルシェスの両親は当然、自分たちの愛する息子がそういった重度の幻想病患者――幻想病者になってしまうことを恐れた。当のアルシェスは幼かったこともあり親の態度を訝しく思ったが、少なくとも彼の夢の話が歓迎されていないことだけはわかった。その後、両親はアルシェスに他所では夢の話を一切してはならないこと、代わりに家族には見た夢の話を全て話すことを約束させた。
アルシェスはこの約束を、両親が亡くなった今でも大切に守っている。
夢の話を切り上げて食事を続けていると、遠方からかすかに馬の蹄が石畳を蹴る音が聞こえてきた。音が幾重にも重なっていることから、おそらく馬は一頭ではないだろう。
馬の駆ける音はだんだんと近くなり、屋敷の前を通り過ぎるものかと思いきや、そのまま門前で停まったようだった。数頭の馬のいななきの後に、ガチャガチャと金属の擦れあう音と、軍靴が石畳を叩く音が続く。食堂の窓から馬が停まった門を見ると四、五人ほどの騎士が一様に兜を脱ぐ姿が見えた。
「こんな早朝に何事でしょう。すぐにリアムを向かわせます」
ユージェルムが目配せをすると、食堂の隅に背筋を伸ばして立っていた従僕のリアムが元気な足音を鳴らして駆けだしていった。
「今日は父上の命日だろう?今晩のパーティに関して、どこかの家の方が聞きに来たんじゃないかな。」
「お言葉ですが、その様な用向きに鎧兜は不相応かと思われます」
「うーん……参加される家々には武門の方も沢山いるから、私兵を使いに出したとか」
「そうであればよろしいのですが……」
ユージェルムはどこか釈然としない様子で、顎に蓄えた、よく整えられた髭を触った。これは何か考え事をしている時のユージェルムの癖だ。そっとしておこう。
アルシェスは来客の対応をする前に食事を済ませてしまおうと、少しだけ残ったパンをスープに浸して口に運び、ナフキンで口を拭う。パンくずを払い落とし席を立とうとしたところで、息を切らしたリアムが勢いよく食堂に飛び込んできた。
「無礼ですよ、リアム」
「も、申し訳ありません!!」
ユージェルムの穏やかな叱責にリアム少年は肩をすくめ、頭を下げる。
「それで、あの御一行の要件は?」
「それが……」
急ぎ服を着替え、玄関ホールへ向かう。そこには、屋敷にやってきた騎士の一団の筆頭と思われる風格のある老騎士が待っていた。近くで見てみると鎧はよく手入れされているようだったが無数の刀傷があり、この騎士が歴戦の兵であることが窺えた。また濃紺の外套は長い道程を旅したのか、砂埃と跳ねた泥によって汚れていた。
アルシェスがいかめしい姿の客人に対して一礼すると、老騎士が口を開いた。
「貴殿は?」
「私は、代理ではございますが、家長のアルシェス・シトゥルザークと申します。貴殿は?」
「おぉ、これは大変失礼いたしました!」
老騎士はその場に跪くと、顔を伏せた。
「私は、ミュゼランと申します。現在は北東の国境ダライラークで防衛の任に就いておりますが、若い頃にはお父上のヴォドー様の隊で旗持ちをしておりました。このような早朝に甲冑姿で押しかけた御無礼、どうかお許しください。」
「いえ、無礼などとはそんな……父の知己の方でありましたか。顔を上げてお立ちください、ミュゼラン殿。」
実直そうな老騎士は顔を上げて立ち上がると、アルシェスに対し深く一礼した。
「父の命日に合わせていらっしゃったのですね。招待状をお送りもせず、大変失礼いたしました。パーティは夕刻、六の鐘の鳴る頃に始まります。どうぞ参列されていってください。」
そう言うと、ミュゼランは少し苦い顔をした。一瞬、招待状を送られなかった無礼に対して怒り出すのかとも思ったが、目の前の人物はそんな小さな面子を気にするようには見えなかった。
「……いえ、実はその件ではないのです。」
「では、どのようなご用件で?」
ミュゼランは難しい顔で、的確な言葉を絞り出すように言った。
「貴殿の兄上―――白獅子騎士団副団長、バージェス殿が失踪いたしました。」
2/6 大幅加筆&改稿しました。