せき止めるもの白きもの
「……えーと」
さて、一歩を踏み出してはみたものの、どう声をかけようかな。下手に動いて敵意があると見なされれば、ハクエンはすぐに攻撃してきそうだ。
実際、僕が一歩前に出たことで相手は警戒を強めている。真っ白い毛並みをざわざわと逆立てて、姿勢をぐっと下げたのだ。
あとのほんの少しこちらが踏み込めば、縮めた身体が枷を失ったバネのように弾け飛んでくるだろうことは、簡単に想像できる。
……怪我を、してる?
敵意によって逆立った白の毛並みには、僅かに赤黒い色がある。
斑点のように見える淀んだ赤は、模様ではない。血液による汚れだ。臭いで分かる。
ほんの少し前から嗅覚を刺激している血の臭い。その原因のひとつが、目の前のハクエンなのだろう。
手負いで、しかし闘志のある相手。こういう手合いは戦うとだいたい面倒くさい。
不利なコンディションにあってなお相対しようとする側は、それだけの理由を持っているからだ。
「……聞こえますか?」
言語翻訳の効果範囲を引き上げて、ゆっくりと言葉を投げかける。
攻撃を仕掛けられればこちらもすぐに対処できるように、集中はしておく。気構えしていれば、素早さ極振りの速度で回避することはできる。
ハクエンは警戒を解くことはなく、けれど無視はしなかった。
「この山から立ち去れ」
低く、威圧のこもった声が木の葉を擦る。初めて会話して、それでも拒絶されているのだと分かる声音。
返された言葉の意味はこれ以上歩を進めるなと、そういうことだ。
とはいえ、「はいそうですか」というわけにはいかない。僕はそれでもいいけど、クズハちゃんが納得しないだろう。
下がるにしろ、納得できるだけの理由を貰わなければならない。だから僕は立ち去ることも進むことも選ばず、その場で言葉を重ねた。
「どうしてですか?」
「……ヌシらが来た目的は分かっている。だからこそ、通すわけにはいかないのだ」
こちらの目的が分かっているということは、前々から僕たちを見ていたか、探られても仕方がないようなことをしていたかだ。
初めからこちらを見ていたのなら、さすがにここに登って来るまでに僕が気付くだろう。ならば後者ということになる。
「水路を塞いだのは、貴方なんですね?」
「……そのうちにまた仕切りは取り払おう。それで意味があるかどうかは分からないがな」
「どうして、ですか? こうして原因を調べに来られること、分かっていたんでしょう?」
「怪我を得た同胞がいるのだ。そして、湧く湯は減っている。優先すべきはどちらか、自明というものだ」
なるほど。そういうことか。
彼が傷を負っていて、それでも僕たちの前に立ち塞がらなければいけない理由。彼の仲間は多く、そして彼よりも重く怪我をしているのだろう。
その上で、お湯の量は減っているのだという。ならばここの仕切りを外したところで、お湯はふもとまで届かない。途中で地面に吸われ尽くしてしまうはずだ。
「どうか引き返してくれ。特に吸血鬼は今、仲間たちには恐怖の対象なのでな……群れの長として、血を吸うものの臭いがするお前たちを通すことはできない」
「恐怖? 吸血鬼が、ですか?」
「そうだとも。湯も、同胞も。吸血鬼によって奪われたからな」
サツキさんのこと……じゃ、ないよね。
こうして温泉が枯れた原因を調べに来ているくらいだし、そもそもサツキさんが原因であるならハクエンの方も警告無しで攻撃してくるだろう。違うはずだ。
「事情はよく分かりませんが……そういうことなら、僕が治しましょうか」
「なに?」
「温泉の方はどうなのかは知りませんが、傷であれば僕の方でなんとかできますよ」
「そんなことが」
信じられるか、あるいは、できるのか、と続く前に、僕は口を開いた。
相手は明らかにこちらを警戒しているので、続く言葉は否定か疑念だろうと分かっているので、それを出す前に潰してしまおう。そういう意図で、相手の言葉を食うように告げる。
「痛いの痛いのとんでいけ」
紡がれた言葉は魔力を変換して、結果を生み出す。
目の前にいるハクエンがどの程度傷付いているのかは分からない。けれど怪我の規模が不明でも、僕の回復魔法なら関係ない。
病気だろうと怪我だろうとまとめて治すし、汚れも落とすオマケ付きだ。そしてその効果は、かけられた側ならすぐに分かる。痛みや不具合が突然に消えてしまうのだから。
ハクエンは自分の身体に起きた癒やしという変化に、口を半開きにして驚いている。
その様子は動物園で横から他の猿に餌を取られた猿みたいに、ポカーンとしたものだ。実際猿みたいな顔だし。
オズワルドくんは牛と人の混ぜものという感じだったけど、こっちは完全に猿を大型化したような感じだ。見ていると自分の遠近感が狂ってしまったかのように思えるほど、妙なサイズ感がある。
「どうですか?」
「……治っている」
「ええ。仲間がいるのであれば、そちらも治しますよ」
「何故、だ?」
「……友達のため、ですかね」
面倒なことも多いけど、クズハちゃんが僕のことを慕っているのは本当だ。
服を作ってくれたり、山道を先導してくれたりもしてくれている。
そうしたことをクズハちゃんはきっと「友達ですもの」と言うのだろう。それならば僕の方でなにかすることもやはり、友達だから、でいいかな。実際には「面倒くさいからなるべく波風立てずに終わらせたい」という理由だったとしても。
「……そうか」
どこか考えこむような響きのある言葉。ハクエンは自分の身体を確かめるようにじっくりと眺めて、やがて、身体から力を抜いた。
こちらも緊張を解いて、一歩を下がる。もう大丈夫という意味を込めて後ろに手招きをすると、ふたりがやってきた。
「大丈夫ですの、アルジェさん?」
「ええ。とりあえず敵意がないのは伝わったと思います」
「言語翻訳技能ですか。私も持ってますが、動物や魔物の言葉まで解すなんてレアですねぇ」
「鍛えてますから」
うん。具体的にはロリジジイさんが鍛えてくれたのだけど。本日のオススメというだけあって、やはり便利だ。
この技能がないと僕は他人との会話もままならない。おそらくその場合、転生してまずすることは言葉の勉強だっただろう。
そんな面倒なこと絶対にしたくなかったので、従っておいて正解だった。らくちん万歳。
「……ついてこい。いや、ついてきてくれ」
ハクエンが背を向けて、歩き出す。
僕から持ちかけた話なので、断ることはない。後ろのふたりは彼の言葉が分からないので、「案内してくれるそうです。行きましょう」と声をかけて僕はハクエンに続いた。
怪我のことは僕がなんとかできる。温泉の方は知らないけど、サツキさんならなにか解決の糸口を見つけるかもしれない。
ここで引き返すというのも不完全燃焼な感じなので、なにか成果くらいはあると良いのだけど。




