四十秒で支度するほど焦らない
「……では、アルジェさんは共和国に行くんですの?」
「ええ。こっそりと。あまり目立ちたくないので」
「だからあの山に向かっていたんですのね。確かにあそこ……マリタットを越えると、ヨツバ共和国ですわ」
「マグカップ?」
「マリタット。あの山の名前ですの」
クズハちゃんがザックの口を閉めながら、そう答える。
今彼女が扱っている小さなザックは、食事をしている間に分身に作らせた簡易な道具入れだ。
通された紐は一本で、背負うというよりは肩掛けにするタイプ。ワンショルダー、というのだったか。
中に入っているのは、ブラッドボックスに入れることができない干し肉や、櫛などのすぐに取り出せた方が便利なものだ。
「では、ヘルメットを目指しましょうか」
「マリタットですの」
「そうでしたね、すいません。じゃ、ネグセオーを呼びますね」
「……あの、昨日も思ったのですが、それはあのお馬さんの名前で、いいんですの?」
「ええ、僕がつけました。自信作です」
「アルジェさんって……いえ、その。なんでもありませんわ」
なにかを言いかけたけど、クズハちゃんは結局引っ込めた。
重要な話をするという感じではなさそうだったので、僕はネグセオーを呼び寄せる。
来てください、と軽く念じれば伝わるので、あとは少し待つだけだ。
青毛と呼ばれる黒い毛並みが僕らの前に現れるのには、そう時間はかからなかった。
優雅でありつつもどこか力強い走りで、ネグセオーはこちらにやってくる。
少しずつ速度を落として、最後には僕の目の前で停止した。顔を撫でると軽く鼻息を出すその仕草は、どこか満足そうだ。
「待たせたな、アルジェ。その服、随分と似合うじゃないか」
「ありがとうございます。ネグセオー、食事や給水の必要は?」
「水だけもらおうか」
「解りました」
ブラッドボックスから僕の手で一抱えほどある桶を取り出して、そこに水を注ぐ。
総量を正確に覚えているわけではないけど、オズワルドくんが守っていた森でかなりの量の水を確保したので、残りに気を配る必要はないだろう。少なくなってくればさすがに解るし。
馬というのは確か、日に二十リットルくらいは水を飲むはずなので、これは必要な消費だ。
僕の方は食事と給水の必要はほぼ無いから、水と食料はネグセオーとクズハちゃんに与えればいい。国境を越えて人里につくまで、十分な余裕があるはずだ。
食料に関してはネグセオーはその辺りの草を食べていることが殆どだし、クズハちゃんも野性動物を狩るくらいはできると言うので、水以上に心配することはないだろう。
「お代わりは要ります?」
「いや。充分だ」
満足したらしいので、桶をブラッドボックスに回収する。
これで一通りの準備は整った。予想外のことはあったけど、特に大きな問題があったわけでもない。
寧ろ服が手に入ったのだから、ありがたい。そろそろ出発しよう。
「アルジェさん、お馬さんの言葉が解るんですのね」
「ええ、言語翻訳の技能がありますから。クズハちゃん、ネグセオーに乗ってください」
正直言って歩くのは面倒くさいけど子供、それも女の子を歩かせて自分だけ馬というのは悪い気がして、僕はクズハちゃんを促した。
吸血鬼として産まれて半年も経っていないわけだから、年月で言うとクズハちゃんより僕の方が年下だろう。
彼女の正確な年齢はわからないけど、僕よりも若いということはまず無いはず。
ただ、前世から数えれば僕はそろそろ二十歳になる頃だ。
身体年齢は年少だけど、実年齢というか魂の年齢は年長。
自分をどっちとして扱うかと問われれば、やはり実際に生きた年齢を基準で考える方がしっくりくる。
せっかく足を手に入れたわけだから出来れば乗って移動したいけど、年長者としては子供のことを優先して考えるべきだろう。
お互いに大人なら年長者の特権として僕が乗るというのもありだけど、相手は子供なのだから。
「僕の方は歩きますから」
「そのことなら、問題ありませんわ。アルジェさん、これをお願いできますの?」
不意に渡されたザックを反射的に受けとると、クズハちゃんは満足そうに一度、頷いた。
そのまま黄色の瞳を閉じて、彼女は呼吸を整える。
なにをする気なんだろう。疑問に思ったときにはもう、クズハちゃんの身体は変化を始めていた。
元々小さかった童女の身体が更に縮む。いや、縮むだけではない。四肢や顔の形が、明らかに変わっていく。
二足歩行ではなく四足歩行に。
童女の顔ではなく、獣の顔に。
和服は引き伸ばされるように全身にまとわりつき、赤い華ではなく狐色の毛皮となる。
すべての変化が終わったとき、そこにいるのは子狐だった。
「どうですの? これなら一緒にネグセオーさんに乗れますわよね?」
子狐は僕を見上げて、どこか誇らしげにそう語る。
正直少し驚いたけど、確かにこれならばまとめてネグセオーに乗っても大丈夫そうだ。
「ネグセオー、大丈夫ですか?」
「元々二人乗っても問題はない。それよりも軽く、小さくなるのなら歓迎しよう」
ネグセオーからの許可を貰ったので、僕は彼の背中に乗る。お尻の位置を確認したところで、クズハちゃんがやって来た。
クズハちゃんが身体を落ち着けたのは、僕の太ももの間に挟まるような位置だ。彼女はこちらのお腹に背中を預けて、満足げに吐息して、
「ネグセオーさん、大丈夫ですの?」
「ネグセオー。クズハちゃんの位置とか、大丈夫ですか?」
「爪さえ立てなければな」
「爪さえ立てなければ良いそうですよ」
「善処致しますわ」
「それじゃ、行きましょうか」
クズハちゃんとネグセオーは会話ができないから、僕が翻訳機のような役割となって相互理解を済ませる。
僕には言語翻訳の技能があるけど、二人はそうではないのだから仕方ない。
「僕は寝ますんで、あとは適当にしててください」
「お馬さんの上で寝るんですの!?」
「そうですよ。吸血鬼は定期的に馬の上で寝ないと力が出ないんです」
「そうなんですのね……!」
「アルジェ、嘘を教えるな」
「ほら、ネグセオーも本当だって言ってます」
「言ってないぞ!?」
「お馬さんまで言うなら間違いありませんわね!」
「信じるな少女ぉー!?」
あ、どうしようこれ、結構面白いかも。
訂正してやれと叫ぶネグセオーを無視して、僕は半笑いで瞳を閉じたのだった。頑張れネグセオー。
そういえばネグセオーがいつの間か僕のことを「アルジェ」って呼んでるけど、なんでだろう。まあどうでもいっか。おやすみ。




