地下室の母
食糧庫の中に入り、人型に戻った僕が最初にしたことは、鼻をつまむことだった。
……タマネギがキツいです。
大量に置かれているタマネギから漂ってくるネギ独特の香りに、少しばかり頭が痛くなったのだ。
吸血鬼になってから嗅覚がかなり鋭くなった上に、その鼻のよさは嗅覚強化の技能効果でより強くなっている。
人間の頃には気にならなかったような臭いでも、今の僕は敬遠してしまう。
タマネギなら火を通せば美味しく食べられるけど、調理していないタマネギが持つ独特の臭いなんかはすっかり苦手になってしまった。
食糧庫には他にも米や小麦粉なども保管されているようだけど、ネギ臭さがひどくて細かいところはよく解らない。
「けほ……こっちですね」
鼻を塞いだことで若干くぐもった独り言を溢しつつ、食糧庫の奥へ。
もはや隠す必要が無いとでもいう風に、地下への階段があった。
階段の周りの壁はどこか不自然だ。煉瓦が崩れたようにも、意図的に抜かれているように見える。
推測だけど、この地下室は後で造ったものなのだろう。屋敷が建てられたあとに、食糧庫の壁を崩して穴を掘って増設された追加スペース。だから不自然な繋がりになっているのだ。
……こういうのって、普通は自分の部屋にあるんじゃないですか?
これだけ大掛かりな改築だ。施したのは領主本人で間違いないだろう。なのになぜ、自室に入り口を作らなかったのだろうか。
目の前にあるのはどう見ても秘密の地下室への階段。こういったものの入り口は、普通ならば自分の部屋から降りられるように造るのが自然だ。
自室にあった方が誰にも見られることなく降りられるし、個室を通らなければならない以上、誰かが勝手に入ってくる様なこともそうそうないのだから。
だけど、この屋敷の地下室へ通じる入り口は食糧庫にあった。今目の前に、確かにある。
……調理担当が領主さん自身だったりとか?
そうであるならば、自分しか入らない食糧庫に地下への入り口を造るというのも納得はできるけれど……まあ、考えても仕方ないか。
面倒くさくなってきたので、目の前にある事実をそのまま受け入れることにして、階段へと足を伸ばした。
ひんやりとした空気を全身で感じながら、地下へ降りていく。さすがに何も着ていないと寒く感じるけど、我慢できないってほどでもない。
明かりのない階段を少しずつ降りて、やがてひとつの部屋へと到着した。
階段を降りきって始めに目に入ったのは、床に描かれた巨大な絵だ。
紫色の塗料で描かれている絵は円形で、円の中には複雑な模様がいくつも描かれている。
丸を描いて、その中にたくさんの記号をひたすら上書きしたような、不思議な絵。魔方陣という言葉がすぐに脳内に浮かんだ。
紫の塗料は僅かに発光していて、どこか妖しげな雰囲気を放っている。
その不思議な陣の周りをぐるりと取り囲むように、剣を持った鎧が配置されていた。
頭から爪先までをすべて覆うフルプレート。どの鎧も不自然に座らされたような姿勢で、中に人は入っていないようだ。
そして陣の中央に、彼女はいた。天井から伸びた鎖に絡めとられて、吊るされるようにして。
狐色の毛並みは汚れ、耳は力なく垂れ下がり、着ている和服はひどく痛んでいる。
足は地面に着いておらず、僅かに浮いている。床に触れているのは、だらりと下がった九つの尾だけ。
「あ……」
見た瞬間に解った。解ってしまった。あの人の命は、とっくに尽きてしまっているということが。
ただ吊るされて脱力しているだけでは、あんな風にはならない。
脱力しているのではない。魂が、抜けてしまっている。力を抜くことすらしていない。
ごくごく自然体の、死体だった。
そのことが理解できても、僕は吊るされている女性に近寄った。魔方陣の塗料が踏み消されることも気にせずに、歩み寄る。
「……こんばんは」
下から顔を覗き込むと、驚くほどに綺麗だった。
長い睫毛のついた目蓋は閉じられて、ふっくらとした紅色の唇は呼吸をしているかのように薄く開いている。どこも腐ったり、痛んだりしている様子はない。
死臭というか、肉が腐敗したような臭いもない。あるのは獣の香りと、女性特有の甘い香り。
死んだばかりどころか、ただ眠っているだけにすら見える。
それでも彼女は生きてはいない。眠るように、きちんと死んでいる。
僕の言葉になにも返すことなく。沈黙を保ったままで、そこにいる。
綺麗なのは、何らかの防腐処理が施されているというだけだろう。
……だとしたら、この感覚は?
未だに感じる魔力の流れ。発生源は間違いなく彼女の身体からだ。
死体が僕を呼んだということだろうか。何故、どうやって?
疑問を浮かべる僕の足元で、ひとつの変化が起きた。紫色の魔方陣が、強く輝き始めたのだ。
始めは罠かと思ったけど、どうも違うようだ。
紫色だった光が、金色に変わっていく。足元を金の光が満たして、広がる。
一面の麦畑にいるような錯覚を得た僕の前に、ひとりの女性が現れた。
ぴんと天井を向いた狐の耳。狐めいた、つり気味の黄色い瞳。
着ている和服は彼岸花に似た赤く、独特の形をした花が描かれた、少し派手なもの。
薄く微笑む口元からは、獣の牙が覗いている。
吊るされている女性にそっくりの、誰かだった。
「貴女は?」
「もしもここに人間以外のどなたかが現れたときのために、この記録を遺させていただきますわ」
「記録……?」
「私はこの屋敷の主に招かれましたの。戦争を止める、そのための方法を共に模索してほしいと……そういうお話でしたわ」
相手はこちらを視界に捉えることなく、投げ掛けた疑問を無視して語り続けている。
遺すという言葉から察するに、今目の前で話している女性は、僕の隣に吊るされている人と同一人物なのだろう。
自分の命が尽きる前に、映像と言葉を魔法で遺したのだ。僕の前世世界で言うところの、ビデオ形式の遺書。
僕が知っている世界ではビデオやレコーダーに収録された言葉は、法的な遺言扱いにはできないけれど……ここは異世界だし、遺したのは狐、見ているのは吸血鬼だ。野暮なことは言わなくてもいいだろう。
クズハちゃんに似ているけど、もっと落ち着いた語り口調で、狐耳の女性は言葉を作っていく。
「騙された……そのことはもはや恨んではおりません。世界の行く末を憂い、足元が見えなくなったわたくしの不徳のいたすところですもの。ただ私の娘、クズハのことだけが気掛かりで……純粋な子なので……あ、写真とか見ます? これあの子が産まれたばかりのもので、凄く可愛いんですよ。ほーら可愛い!」
「死に際に何してるんですか」
映像だから通じないと解っていても、つい突っ込んでしまった。
当然通じなかったので、一通り写真を並べて親バカに付き合わされることになった。捕まってるのに随分と余裕な態度だ。
ほんとに死んでるのかな、この人。あと、異世界にも写真あるんだね。
「……さて。幻影での自由を満喫しましたゆえ、そろそろお話を戻しますわ」
時計がないので正確な時間は解らないけれど、たっぷり数分は親バカをしたあとで、声のトーンを真剣なものに戻してきた。
どうもアップダウンが激しい人だ。熱しやすいという意味では、娘とそっくりかも。
「この映像を見る方がどなたかは存じませんし、頼めた義理ではないこともわかっておりますが……どうか私の娘の事を、頼めないでしょうか。どうか……宜しくお願い致します」
深々と頭を下げ――その姿勢のまま、狐の女性は金色の粒子みたいなものに変わった。霧散して、消えていってしまったのだ。
それと同時に狐色の光は収まり、地下室の中は再び妖しげな紫色の光で満たされる。
「……バカな人ですね」
そんなに娘が大切なら、娘に伝える言葉くらい用意しておけばいいのに。
娘が大切すぎて、忘れていた。そんなところだろう。
自分の心を伝えるよりも、娘のことを考えすぎて、誰かに頼った。
映像なんて遺したところで誰かの目に触れることすら叶わないかもしれないのに。僅かな可能性に、賭けてまで。
「貴女のお願いは聞けません」
その気持ちは尊いと思う。でも、どうして僕がそんな事をしなくちゃならないのか。
他人の面倒どころか、自分の面倒を見てくれる人を探しているようなぐうたらの僕が。
繋がりもない、今日会ったばかりの死体のお願いなんて聞いても、僕にはなんの得もない。
「……僕がするのは、恩を返すことだけです」
僕はただ、貰ったものを返したいだけだ。その為に、彼女を娘の元へと連れていく。
その後どうするかは、クズハちゃんが決めるべきことだ。部外者でも、死人でもなく――当人であり、生き続けなければならない彼女が。
名前も知らない女性の身体に巻き付けられた鎖をほどく。
結ばれたり鍵をかけられたりしているわけではなく、単純に巻いてあっただけで外すのはそう難しくなかったのだけど、身長の問題で少し手間取ってしまった。
「ん、しょっ」
相手の身長は自分よりも高いし、死んでいるから身体に力が入っておらず、見かけよりも重い。
とはいえ、僕は吸血鬼だ。死体ひとりくらい、大した荷物じゃない。丁寧に、お姫様だっこの形で、クズハちゃんの母親を抱き上げる。
クズハちゃんの小屋に戻ろう。そう思った瞬間、再び足元の輝きが増した。
先程のように、光が狐色に変化するようなことはない。紫色の輝きが部屋全体を満たしていく。
「こんな夜更けに客が来るとはね」
階段の方から響いてきたのは、落ち着いた雰囲気のある男性の声。どうやら侵入がバレたらしい。
もしかすると、死体を動かすと探知される仕組みだったのかも。面倒なことになっちゃったな。




