もう少しだけ寝ていたいのに
「……ふぁぁ」
微睡みから浮かび上がって、とりあえずは欠伸をひとつ。
涙混じりの視界で辺りを見渡せば、どうやら森のようだった。
涙を指で払いつつ起き上がってみる。うーんと……?
……嗚呼、そうそう。イカ倒して、ここまで飛んできたんでした。
アビスコールというご大層な名前のイカを海に沈めて、僕は蝙蝠の身体でここまでを飛んできた。
陸地に着いたらすぐに降りても良かったのだけど、探されても面倒だからと思って少し長く飛んで、この森にまでやってきたのだ。
ここなら目立たないかな。そう考えて地上に降りて、蝙蝠化の技能を解除して――疲れたから、寝た。
「んー、にゃっ」
軽く伸びをする。
降り注いでくる木漏れ日は朝のものだと解る、まだあまり熱を持っていない、爽やかなもの。
ということは、ここに来てから一晩は経過しているだろう。
もしかすると二日くらい寝ていたかも知れないけど、寝てる間のことは知らない。
「懐かしい夢を見ましたね」
懐かしいといっても、つい半月か一月ほど前はあの世界に居た。あの世界で、惰眠を貪っていられた。
思い出したら恋しくなってきちゃった。早くまたああいう生活がしたいな。
「さて、これからどうしたものですか」
とりあえずは国外逃亡だろう。サマカーさんはあの性格だと僕のことを報告するのは遅らせてくれるだろうけど、それでも国からは出た方が良い。
利益のある存在の情報なら他国には流さないだろうから、国を出れば追われる心配はなくなる。
国境の方角は解らないけれど、アルレシャがどちらの方角かは覚えている。ちょっと暴論だけど、アルレシャから離れ続ければいずれは国の外だ。
もちろんその為には、移動しないといけないんだけど……これには、問題が結構あった。
まずは食べ物。三日くらいなら平気だけど、必要性がないって訳ではない。水も含めて。
次に服。汚れは回復魔法で落とせるけど、ゼノくんに貰ったこの一着しか持ってない。破れたりしたら面倒だ。フェルノートさんがいくつか用意してくれてたけど、置いてきちゃったし。
どっちも事前に準備してこられれば良かったのだけど、あのままアルレシャに戻ったら面倒事が待ってただろうから仕方がない。結構派手にやっちゃったし。
そして血液。食べ物は三日耐えられても、血液はたぶん、それくらいで欲しくなってくる。
おまけに食べるものがないとなると、吸血衝動に誤魔化しがきかない。飲まず食わずでは、前のように一週間も我慢はできないだろう。
こればかりはブラッドボックスに保存できないから、準備もなにもないので仕方がないことではあるけど。
あとは準備というよりは心残りだけど、フェルノートさんには挨拶くらいはしていきたかったな。
寝床に関してはちゃんとお金を払っていたから貸し借りは無しで良いだろうけど、お別れくらいはしておきたかった。今さら考えても意味のないことだけど。
「はぁぁぁ……」
そしてもうひとつ。僕が特大の溜め息を吐き出さなければならない問題がある。
これは血液より重要なことだ。それでいて本当にどうしようもない問題。
食べ物や水なら、調達はたぶん不可能じゃない。血だって、動物か魔物でも捕まえて吸血すれば良いだろう。
フェルノートさんのことにしたって、どこかで会えるかもしれない。アルレシャは良いところだから、機会があればまたお昼寝しにいきたいし。
けれど今、僕の悩みの大部分を締めるこの問題だけは、解決策が思い付かなかった。
「……めんどくさぁい」
そう。めんどくさい。
歩きたくない。
蝙蝠で飛ぶのも疲れるから嫌。
むしろもう働きたくない。
誰か運んで。ご飯も用意して。あと、おやつと血液も。
解ってる。そんなことを考えても無駄だってことは。
ここには僕しかいない。自分で動かなきゃ一歩も進めないし、食事だって出てこないのだ。
それでも僕は、断固として働きたくない。
はー、たまたま王子様とか王女様が通りかかって、そのまま僕を抱っこしてお城まで連れてって、あとは上げ膳据え膳で養ってくれないものかな。
「……寝ましょう」
これからのことを思うと憂鬱だ。まずは一回眠って忘れよう。
そう考えて草のベッドに寝転ぶと、背中に触れる感触は土特有の固いものだけど、それはそれで気持ち良い。
時折木々の合間から来る風には草木の青い匂いだけでなく、花の蜜の香りもする。
ささやかな甘さと爽やかさの混じった、自然の匂い。
欲を言えばベッドちゃんが恋しいけど、こういう香りに包まれてお昼寝は、悪くない。寧ろ好き。
眠るために思考のスイッチをオフにしようとして――匂いに、雑味が混ざった。
それは不思議な臭いだった。甘い、それも悪い意味での甘さ。更に酸っぱさのようなものが混ざっている。
転生する前の、ずっと前。まだ外に出ることが許されていた頃に、嗅いだことがある臭いだ。なんだろう、これ。
とても気持ち良くは眠れそうにないくらいの臭気に、落としかけた意識を戻す。
人が気持ち良く寝ようとしていたのに台無しだ。誰だか知らないけど、責任取って養ってもらわないと。
「……近付いてきますね」
不快な臭いはどんどんこちらに近付いてきて、その臭いを濃くしていく。
吸血鬼は、種族的に臭いや音に敏感だ。これは技能の効果とは別の、種族的な特性。
「犬や猫の鼻が人より優れている」だとか、「人間の男性よりも女性の方が色調に優れる」とかと同じ、生き物として他よりも有利な点だ。
それに加えて嗅覚強化の技能まで持っているものだから、今の僕はこういう「くさい」と感じる臭いが転生前と比べて苦手なのだ。吸血鬼はニンニクが苦手、というのも頷ける。
臭いを感じてから少し時間を空けて、今度は地響きが来た。
大地を揺らす振動は規則的なもので、地震ではなく何かが「歩いている」のだと解る。
臭いから方角は判別しているのでそちらの方に視線をやれば、その正体が解った。
木々の隙間を窮屈そうに歩いてくるのは、目測二メートルほどの巨体。
腰巻きを巻いただけの身体は凄く筋肉質で、全体に満遍なく黒くて短い毛が生えている。相当不潔にしてるらしく、身体の周りにはハエが何匹か飛んでいた。
足は身体の武骨さにしては細いけどやはり筋肉質で、爪先には蹄を備えている。
丸太みたいな腕の先にある手は五指だ。形だけなら人間のものに近い。握られているのは、虎の首でも落とせるんじゃないかと思うくらいに大きな斧。
そして荒い鼻息を繰り返す顔は、明らかに人のものではなかった。
大きくて湿った鼻、縦長の顔、身体と同じく全体に生え揃った黒い短毛。
全身一通り眺めてから、転生前に鉄格子の部屋の中で読んだ小説のいくつかに、似たようなものが登場したのを思い出す。
ミノタウロスだとか、牛頭だとか。そういう生き物。いや、魔物というのが正しいか。
「ブモォォォォォォォ!!!!」
鳴いた。ぶもーって鳴いた。
木々が震えるくらいの大声だけど、あれはぶもーって鳴いたよね。
「牛小屋の臭いでしたかー」
確かに昔、嗅いだことあった臭いだ。ようやく思い出して納得がいった。
うん、牛小屋なら行ったことある。確か父親の親戚のいとこのはとこくらいが育ててた。なんか凄いブランドらしいけど、鉄格子の部屋に入るずっと前のことで子供だったから、大人の話はよく覚えていない。
「愚かだな、密猟者ぁ!!」
喋った。それも結構流暢に。
言語翻訳の効果はかなり狭めてある。人間の言葉を翻訳できる程度にだ。だって鳥の言葉とか理解できても、寝るのに煩わしいだけだから。
そんな今の状態で牛の言葉がわかったのだとすると、目の前の牛は今、この世界の人間が使う一般的な言語を使いこなしているということになる。
正直驚いたけど、それよりも今の言葉には気になる単語があった。
「……密猟者?」
「この森は鳥たちが監視している……お前のような薄汚い密猟者をな!!」
なんのことですか、と思うけど相手は聞く耳を持つ気がなさそうだ。
あと、鳥が監視してるわりには一晩ぐっすり寝られた。監視の網、結構緩くないですか?
そんな僕の疑問をつゆとも知らず、あっちは物凄くやる気だ。ふしゅーっと、湯気が出そうなくらい荒い鼻息を放っている。むぅ、くさいなぁ。
「森を汚す輩は、俺様が許さん!!」
牛のもの特有の細い尻尾をしならせて、地面を一打ち。明らかに怒っている相手が、武器を振り上げた。
その様子を見ながら、僕が思い、口にすることはひとつだ。
「……牛の血って美味しいんでしょうか?」
もちろん斧が降り下ろされた。




