重ならない手と手
「ええと……」
「まずはお礼を言っておくわ。私のことを守ってくれたと、バンダースナッチから聞いたから」
「いえ、あれはその……なんとなく、身体が動いてしまったというだけですから」
「そこは私のため、と言って欲しいのだけど……まあいいわ。とにかく、助かったわ」
「ええと……どういたしまして」
まさかお礼を言われるとは思わなかったので面食らいつつも、僕はその言葉を受け取った。
「エルシィさんは……あの、ぼろきれ虚ろさんと……」
「ぼろきれ虚ろ!?」
「あ、すいません。あの黒い人のことです。黒の伯爵、でしたっけ」
いけない、ついうっかりいつもの調子で適当なあだ名をつけてしまった。だってぼろきれみたいな服装をしていたし、虚ろ虚ろとうるさかったから。
「……あはっ」
呆れられるかと思ったけれど、エルシィさんの反応は予想と違っていた。
彼女は僕の評価に驚いて、けれど、笑った。
「あの伯爵を相手にして、そんな呼び方をするなんてね」
「ええと、すいません。性分なので……」
「……いいわ。少しだけ、気分が落ち着いたから。ふふ、緊張をほぐすのが上手なのね、アルジェント」
そう言って、エルシィさんは柔らかく微笑む。
それは今までに見せたことのない、優しい笑みだった。
こんな顔もできるのだ、ということに驚きながらも、僕は話を続けることにした。
「エルシィさんは、あの人と……なにかあったんですね?」
「……ええ、恥ずかしいところを見せたわ。あなたが思っている通りよ。私はあの男に、大事なものを奪われたの」
そう語るエルシィさんは落ち着いた声でありながら、瞳の中に燃えるような感情を宿していた。
それは僕に向ける執着とは、また別の強さだ。僕に投げられているものではないと分かるのに、焼かれてしまいそうなほど強い憎悪を感じる。
「世界には理不尽が満ちている。だから私は、奪われるのではなく奪う側になった。だけど……どこまで行っても、理不尽は現れるものね」
「それは……」
理不尽という言葉は、僕にとっても重く響いた。
転生したことで、玖音の家とはもう関わることがないと思っていた。
それなのに、転生した先の異世界でさえ、僕は玖音の家と関わってしまった。それも青葉さんのように家を否定している人ではなく、完全に玖音という家の在り方に染まった人間に出会ってしまった。
まるで過去からは逃げられないと突きつけられているようで、ひどく息が詰まる。
自分の呼吸の音ですらうるさく感じてしまうような重い空気の中で、彼女は言葉を続ける。
「あなたは、これからどうするの?」
「僕は……帝国に行きます」
「あら、意外ね。あなたは世界を救ったりしないと思っていたのだけど」
「そんなつもり、僕にもありませんよ」
否定ははっきりと、心の底からの気持ちで紡ぐことができた。
僕は世界を救ったりするつもりは無い。そんなものは、もっと高潔な人がやることだろう。
僕はただ、自分の望みのためだけに、我儘のためだけに生きようとしている。
だから帝国に行くのも、単純な理由だ。世界なんてどうでもよくて、思うことはひとつだけ。
「知りたいことがあるんです。どうしてなのかと問うて、その答えを聞かないといけない気がするんです」
あの日、ダークエルフの里で見た玖音の紋章。
あれを見たときから、僕はずっとあの家紋のことが忘れられない。
転生してもなお、あの家紋を掲げるあの人に、僕は問い掛けたいことがある。
転生しても魂は変わらない。だから生き方は変えられない。それでも。
この世界で玖音として生きる意味は、なんなのかを。
「……知りたいんです」
そしてそれが正しい生き方であるならば。
僕の価値は、転生を経た今でも、なにひとつ無いままなのかもしれない。
「……そう。あなたも、理不尽を認めたくないのね」
「理不尽とか、理不尽ではないとか、よく分からないです。それを判断することもできないくらい、僕はなにも知りませんから」
「……あなたは本当に、まるで生まれたばかりみたいね」
もう一度エルシィさんは柔らかく微笑んで、僕を見た。
執着でも憎しみでもなく、慈しむような瞳。吸い込まれそうだと思ったのはほんの一瞬のことで、彼女はすぐにいつも通りの笑いに戻ってしまった。
「私も、帝国に行くわ。今度こそ、私の理不尽を壊すために」
「ええと……いっしょに?」
「まさか。手勢をあれだけ潰されたら準備も必要だし、日光を浴びられない私は人と旅をするのには向いていない。そもそもあなたのお友達が許してくれないでしょう?」
「……まあ、クズハちゃんたちは絶対嫌がると思います」
「でしょう? それに……あなたのことだって、諦めた訳では無いのよ?」
「あ……」
くい、と顎を持ち上げられて、僕は動けなくなってしまう。
また吸血されるのかと思って、助けを求めるべく大声を出そうと思ったけど、降ってきたのは違うものだった。
「ちゅ」
「んにゅっ!?」
浅く、ほんの一瞬の口付け。
感触だけを残していくような触れ合いに、僕は目を丸くした。
「え、あ、え?」
「くすくす……その顔が見れただけで、今日は良しとしておくわ」
「あ、ぅ」
自分でも分かるくらい、体温が上がっていることが分かる。
急ではあるけれど、彼女は僕のことをお嫁さんにしたいと言っていたのだ。つまり今のキスは、親愛なんかではなく、その、恋とか愛とかの意味で。
「心配しなくても、あなたが帝国に行く頃には私もついているわ。どうせお互いの目的のためには戦闘になるのだし……混乱を作る手伝いくらいはしてあげる。これは、約束ね?」
「あ、ぁ、はい。ありがとう、ございます?」
「ふふ、どういたしまして。それじゃ……私は影にでもなって、夜には出ていくわ。姿を出していると、みんな気が気じゃないでしょうし」
言いたいことだけ言って、エルシィさんは自らの姿を消してしまう。
少しだけ分かり合えたとも思うけど、こちらの意見を求めないのは相変わらずだ。我儘で、自分勝手で、ある意味では誰よりもまっすぐな金色の吸血鬼。
それでも、彼女は僕に約束という言葉をくれた。
「……ありがとうございます」
誰もいなくなった部屋で、僕はもう一度感謝の言葉を紡いだ。
返ってくるのが静寂だったとしても、きっと彼女は聞いているのだろう。
今はきっと、それでいい。ぜんぶを分かり合えなくても、目指す場所が同じだということが分かっていれば。




