同族の手ほどき
「ふんふん……。面白い旅をしてきたみたいだね」
「まあ、そうですね。退屈はしなかったです」
「ふふ。それはいい事だ。長生きにとって、退屈でないことは大事だよ?」
僕のここまでの旅の話を聞いて、楽しそうに笑っているのは、金色の髪をした吸血鬼だった。
僕と同じように少女じみた姿をしている彼女の名前は、アイリスさん。喫茶店メイの軽食担当で、こう見えても数百年を生きる大先輩だ。
スタンダードな吸血鬼である彼女は夜にならないと自由に動き回ることができず、日中は棺桶の中にいるか、日の光が入らない設計にされているメイの居住区や、調理場で働いている。
今の時刻はもう夜であり、従業員たちはのんびりしている時間だ。
夕食が終わったあとで、アイリスさんは僕の旅の話が聞きたいと言って、部屋へとやってきた。
僕の話を楽しげに聞きながら、彼女は盃を傾けている。
「ん……ぷはー。アルジェも飲む?」
「ええと、遠慮しておきます」
サツキさんから聞いた話だと、ほとんどの吸血鬼はお酒が苦手らしく、普通に飲めるのはアイリスさんくらいのものなのだそうだ。
試したことはないけれど、もしも酔っ払って迷惑をかけてしまうと申し訳ないので、遠慮しておいた。
「ふーん、そっか。ま、良いけどね。吸血鬼は基本的に、お酒ダメだから」
「すみません」
「いいのいいの。飲み仲間ならシノがいるから。といっても、暫く戻って来てないのだけど」
「シノさんってたしか、バリスタをしてるっていう……」
「そそ。うちのコーヒー担当。いい豆探してくるとか言って、また出ていっちゃってねえ。基本的な飲み物はボクたちでも出せるから問題ないんだけどね」
からからと笑いながら、アイリスさんは盃を空にする。
お酌くらいはしようと思って注げば、お酒の甘い香りがふわりと鼻をくすぐった。日本酒に近い匂いだった。
「ふふ、ありがと。可愛い子にお酌してもらえるなんて、吸血鬼冥利に尽きるね」
「そういうものですか?」
「ボクたちにとって、性別ってあんまり関係ないからね。もともと精神体、というか魔力体だ。好きになるのはだいたい心と魔力で、性別は気にしない個体が多いよ」
「……そうみたいですね」
言われて思い出すのは、蜜の村で出会った、アイリスさんとは別の金色の吸血鬼のこと。
エルシィと名乗った彼女は、ムツキさんと同じで、この世界でも特に強力だと言われている吸血鬼のうちのひとりらしい。
彼女は出会っていきなり、僕に求婚してきた。それどころか、性別は関係ないと言って、押し倒してきた。
「ボクも、サツキとはいろんな意味でパートナーだしね」
「……はい。それは、見ていれば分かります」
「うん。ここは……メイはね、サツキがボクのために作ってくれたんだ。寂しがり屋のボクが、せめて過ぎ去る景色を楽しんでいられるようにって。なんでもない日々が、ただの日常が、愛しく感じられるようにって」
「それは……」
「うん。長生きだとね。みんなとサヨナラしないといけないことが多いんだ。みんな年を取って、美しく消えていくのに、ボクはずっとこのままで、取り残されるような気持ちになりそうになる。ううん、そうなってた。サツキはそれを、少しでも受け入れられるようにって、こういう場所を作ってくれたんだよ」
心の底から幸せそうに語り、アイリスさんは目を細める。頬が赤くなっているのは、きっとお酒のせいだけではないのだろう。
昔語りに浸っていたのは、ほんの一瞬。アイリスさんは僕と同じ紅の目を開けて、こちらをじっと見つめてきた。
「だからアルジェも、友達にもう少し求めてもいいと思うよ」
「ふえ……?」
不意打ちのような言葉に、少しだけ面食らった。
アイリスさんはくすりと笑うと、こちらに向けて追加の言葉を作る。
「君は甘えたいのか、甘えたくないのかちょっと分からない。でも、遠慮しているのはなんとなく、分かるよ。甘えたら迷惑かなって思っていて、だから、果てのないほど甘えられる人を探しているような」
「……そう、なんでしょうか」
三食昼寝付きで養って欲しい。その気持ちに嘘はないし、今もそのために旅をしているくらいだ。
だけど、誰かに借りを作ってしまうことはひどく苦手でもある。
そのふたつの気持ちが矛盾しているということは、自分でもぼんやりと分かっている。けれど、どちらも偽りようのない本心なのだ。
「うん。クズハも、フェルノートも、ゼノも、あのアオバって子も。みんな、きっと君のことが好きだと思うよ。だから……全部を預けられない人にも、もう少しだけ甘えていいって思う」
「…………」
「ま、ちょっとお婆ちゃん臭いって自分でも思うから、話半分に聞いてよ。どうせ、酔っぱらいの戯言さ」
「いえ、ありがとうございます」
酔っ払っているのは本当だし、僕から見てアイリスさんが年を取っているのも間違いではない。
それでも、向けられる瞳が真剣かどうかくらいは、なんとなく分かる。面倒くさいと思われてでも、言いたかったことなのだろう。
きっと忠告であり、お説教であり、ほんの少しだけ自分の体験談でもある話だ。聞いて、覚えていて、損はない。そんな気がする。
「さて、と……それじゃ、甘え下手な後輩のために、もうひと肌脱ごうかな」
「え……?」
「お酒は断られたけど……こっちは、断りづらいんじゃない?」
ぐっと顔を近づけて、アイリスさんがいたずらっぽく微笑む。ほう、とお酒の香りを吹きかけられて、くらりとする。
そっと伸びてくる指が、僕の頬を撫でて、唇へと触れた。
「血液。どう見ても、最近飲んでないよね?」
「あ……」
アイリスさんの言うとおり、ダークエルフの領地でリシェルさんに吸わせてもらって以降、僕は血液を口にしていない。
リシェルさんの血がかなり良質な魔力を含んでいたので、まだ衝動は大して顔を出してはないけれど、ここまでの旅路で、アオバさんの首筋が美味しそうに見えてしまったことは何度かあった。その程度には、『乾いて』いる。
気付かれていないと思ったけれど、アイリスさんは吸血鬼だから、分かってしまうのだろう。
「ボクたちは吸血鬼だ。血を飲むのは他人の魔力によって、自己の存在を安定させるため……魔力体である自分の魔力が淀まないようにするため。つまり究極的には血液じゃなくても汗でもなんでも良いのだけど……とにかく、誰かの魔力が無ければ死んでしまう。存在自体が、誰かに依存するものなんだよ」
「……それは、ちょっと前に勉強して知りました。単純な乾きの問題じゃないってことは」
「うん。なのに、自分の命に関わるほど大切なことを、君は他人に頼らずに黙っている。その時点で、遠慮しすぎなんだよ」
まるで懐かしいものを見るように笑って、アイリスさんは僕に擦り寄ってくる。
甘い匂いは、お酒と、彼女の匂い。一口たりとも飲んでいないのに、酔いそうになる。
「ん……ほら、おいで?」
「おいで、って……」
「あの子には頼りづらいんでしょう? だったらお友達で、年上で、先輩のボクが、甘えさせてあげる」
「頼りづらいというか……その、ちょっとあの人は、古くからの知り合いで……照れくさいというか……」
お互いに人間だった頃から知っている。
だからこそ、青葉さんに血をもらうことを頼むことが、どこか躊躇われてしまう。
きっと彼女は断らない。寧ろこの旅を始める前に、自分から提案してきてくれた。サクラノミヤに来るまでの旅路でも、時々僕に血を飲まなくてもいいのかと聞いてきたくらいだ。
だからこれは僕の気持ちの問題なのだろう。なるべくギリギリまで我慢して、相手から強く言われたときしか、血を飲もうとしないのは。
それが遠慮しすぎなのか、そうではないのか、僕には分からない。
「ん、それじゃなおのこと、ボクがなんとかしてあげないとね……ほら、いいよ?」
けれど今、そうして良いと言われて、あまつさえ抱き締められたりしたら。
我慢するのは、難しいことだった。
「あ……んっ」
ほっそりとした首に牙を立てれば、びくりともせずにアイリスさんは受け入れてくれた。
きっと、サツキさんとの行為で慣れているのだろう。お互いに吸い合うくらい、日常的にしているはずだから。
「ん……あは、優しい……ほら、飲むのは二度目でしょう? 大丈夫だから、遠慮しないで……?」
アイリスさんの言うとおり、彼女の血を飲むのは二度目だ。
あのときは不意打ちのように飲まされたけど、今回は違う。お互いに同意して、吸血という行為に及んでいる。
……熱い。
彼女の血は熱の塊のように熱く、どろりとしていた。
じっくりと溶かすように舐め、こくこくと喉を鳴らして、僕は彼女の血液を味わっていく。
行儀の悪い音が部屋に響くけれど、もうそんなことは気にならない。ただ音が鳴ったと思うだけで、血液の甘さに流されて忘れていく。
「あ、ふ……ん、美味しい……」
「あはっ……うん、うん。素直でいいからね……んっ……よしよし、いい子いい子……♪」
やはり吸われることに慣れているのか、アイリスさんは随分と余裕がある様子だ。
今の僕とそう変わらないくらいの見た目年齢の少女に頭を撫でられる。いつもなら少し恥ずかしいと思うところだけど、吸血をしている今は、ただ、安心した。
「ん、ちゅ……じゅるるっ……ぷぁ……あいりす、さぁん……」
「大丈夫大丈夫……もっと吸っていいからね……我慢した分、お腹いっぱいになるまで……ね?」
髪に指を通される感触に甘えながら、僕は更に多くの血液を求めて、彼女にすがりついた。
熱のある液体にお腹の奥が満たされて、全身に甘い感覚が広がっていく。
「ぷはっ……」
熱から逃れるようにして口を離せば、冷えた空気が胸へと通る。吸血に夢中になっているうちに、全身には汗が浮いていた。
「は、ふ……い、いたいのいたいの、とんでいけ……」
ぼんやりとした頭で、それでも言葉と魔力を編む。
すぐに魔法の効果が発揮されて、首筋の傷は塞がった。
「あは、気にしなくていいのに……痛いのも好きだから」
「僕が気にします……」
「ん、そっか……ふふ、アルジェ、もう眠そうだね。いいよ、このまま眠って……」
楽しそうなアイリスさんに体重を預けて、僕は瞳を閉じた。
これでまた暫く、吸血衝動には悩まされずに済むだろう。
友人たちに甘えていいと言われたことをぼんやりと考えながら、僕の意識はゆっくりと眠りの海へ落ちていった。




