約束の到達点
桜の花は、僕にとっていろいろなことを思い出させるものだ。
前世で僕が生きた日本という国のこともそうだし、青葉さんと交わした約束のことも思い出す。
懐かしさを感じる香りに包まれて、僕は少しだけ瞳を閉じる。
「……サクラノミヤ、とはよく言ったものですね」
感嘆の声は、再会を果たすことができた青葉さんのもの。
……不思議な縁です。
まさか、転生した先で前世の知り合いとまた会えるだなんて思わなかった。
お互いに姿形は変わってしまったけれど、変わらないことはある。交わした約束は、そのひとつだった。
「うーん……サツキさんのオススメだけはありますね」
目の前に広がる景色は、桜一色。舞い散る花吹雪はひどく美しくて、目がくらみそうなほどだ。
喫茶店メイで今後の方針を決めた僕たちは、一晩経って明るくなってからサツキさんに桜の名所を聞いて、そこへとやってきた。かつて結んだ約束を、改めて果たすために。
周囲を見渡せば、同じように桜を見ている人も多く、そのうちの何人かは桜の木の下でお茶やお酒を楽しんでいるらしかった。
「日本みたいですね……」
「アルジェさんも、懐かしいですか?」
「そうですね。僕にとっては、お花見というのは何年かぶりですから」
この世界に転生するずっと前から、僕は幽閉されていた。
だから、こうして外でお花見をするというのは、本当に久しぶりのことだった。
「この辺りが、景色が良さそうですね」
「そうなんですか?」
「ええ。花を見る目には自信がありますよ」
玖音の家で花を見続けてきた青葉さんの言うことだ。信用して良いのだろう。
こいこいというふうに手招きをされたので素直に従って、彼女の側へと近づく。
隣に行く頃には、青葉さんは既に地面に腰掛けていた。近くに座って上を見上げてみると、空は桜の天蓋で覆われていた。
「あ……」
綺麗だ。
素直に、そう思うことができた。
ひらひらと落ちてくる花びらが、青空を彩る。
嗅覚に触れる優しい香りに、つい手を伸ばしてしまう。
ひゅ、と吹いた風が、指先に触れた花びらをさらっていった。
「いつか、あなたは私に言いましたね。『豪奢な花よりも、桜のほうが好みだ』と」
「……そんなこともありましたね」
確か、青葉さんが活けた花について感想を求められたときのことだ。
僕は彼女が活けた作品に対して文句こそ言わなかったものの、桜のほうが好きだと言ったのだ。
もちろんそれは、青葉さんの作品が悪いものだと言いたかったのではない。単純に、僕の好みの問題だ。
「……良かった」
「え?」
「生け花ではありませんが……あなたが見たいと思った花を、こうしてふたりで見ることができましたから」
「……そうですか」
屈託なく、本当に心の底から楽しそうに笑う青葉さんに、僕は月並みな返事をすることしかできなかった。
僕にとっては小さな約束であり、ただ自分の好みを述べたと、それだけのことだった。
こちらにとっては他愛のない、それこそ夢で見るまで忘れていたような約束。けれど青葉さんはそのことをずっと考え続けて、自分の命すら絶って、そして今こうして僕の隣で心の底から笑ってくれている。
なんだろう。居心地がいいような、悪いような、不思議な気持ちだ。
どこかむず痒いようで、恥ずかしいようで、だけど、嫌じゃない。絡んできた指を、ほどきたいと思わない程度には。
「ふふ。やっぱり、あなたは銀士さんなんですね」
「ふぇ……?」
「どうしたらいいか分からないって思っているときの顔、同じですよ」
「う……そう、ですか?」
転生して顔どころか性別すら変わっているけれど、僕という魂は変わっていないのだ。
だから青葉さんの言うとおり、表情の作り方が変わっていなかったとしても、不思議はない。
だけど、そういうところをじっくり観察されているのはちょっと恥ずかしい。
頬の熱さから逃れるように顔を逸らせば、桜の匂いを強く感じた。
「えと……そうだ、お弁当作ってきたんですよ」
我ながらちょっと苦しい逃げ方だと思うけど、時間帯がお昼前なので、構わないだろう。
取り出したお弁当箱は、早朝から用意しておいたもの。
お花見と言えば、食事やおやつも大切だ。おやつはサツキさんのケーキだけど、食事は僕が作っておいた。
早起きするのは面倒だったし、調理中に軽くウトウトしてしまったけれど、味は問題ないと思う。喫茶店だけあって、調理場はかなりしっかりしていて材料も良いものが揃っていたし。
「せっかくなので和食にしてみました」
用意したお弁当箱の中身は、きんぴらごぼうやほうれん草のおひたしなど、野菜中心の和食メニュー。日本人の僕たちにとって、馴染み深いものだ。
野菜が多く、お肉系は筑前煮に入っている鶏肉くらいのものだけど……。
「確か青葉さん、野菜が好きでしたよね」
「あら、覚えていてくれたんですね」
青葉さんは菜食主義というわけではないけど、お肉よりも野菜が好きだったと記憶していた。
牢屋に入れられてからは一緒に食事をする機会もなかったので少し自信がなかったのだけど、間違っていなかったらしい。
お弁当箱を受け取った青葉さんは、しっかりと手を合わせて、
「それでは、いただきます」
ぴんとした姿勢と動きで、彼女は一礼。きちんと挨拶をしてから、おひたしを口に運んだ。
「ん……美味しいですね」
「あ、良かった。あまり自信はなかったので」
「……これで自信ないのですか」
「さすがに、玖音の家の料理人と比べると幾分か落ちると思いますから」
料理は僕が、玖音にとって『いらないもの』だとされて、なにもすることがなくなってから覚えた技術だ。つまりは半分くらいは暇つぶしに習得した技術であり、素人の技でしかない。
玖音の家は常に有能な料理人たちがいて、和洋中どころか、世界中のあらゆる料理を食べることができた。
なのでそういった人たちと比べてしまうと、さすがに腕、というか味は落ちると思うのだけど。
「ふぅ……アルジェさんは自分の中のハードルが高すぎますね」
「そうでしょうか?」
「玖音の家の水準は異常です。と言っても、アルジェさんの場合はそれしか見たことがないのでしょうが……私も誤解していた時期がありますから、気持ちは分かりますが……もう少し、自分に優しくしていいと思います」
「もう十分自分に甘いつもりなんですけどね」
転生してからの目的が『三食昼寝におやつ付きで養ってほしい』なんて時点で、かなり自分本位で甘い設定だと思う。
ただ、青葉さんが言いたいのはそういうことではないらしい。ゆるく首を振りつつも、青葉さんはそれ以上を言わなかった。
その辺りが、彼女が僕のことを『蕾のようだ』と表現する理由なのだろうか。それを疑問に思いつつも、僕はそれ以上を聞かなかった。というより、聞けなかった。
「そもそも、玖音の家の料理では、こんなことはできませんよ」
そう言って、青葉さんが僕の手を取ってきたからだ。
そのまま頬に持っていかれれば、手指に触れる感触はあたたかかった。
「アルラウネには心臓の鼓動はありませんけど……心があたたかくなれば、こうして身体があたたかくなるんですよ」
「……そう、なんですか?」
「ええ。そうなんです。ただの料理では、心を満たすことなんてできません。あなたがこうして作ってくれたから、美味しいだけではなく、嬉しいんです」
頬を緩めて笑う青葉さんは、花が開くように可憐だった。
僕にとってお弁当を作ったのは、ほんのお詫びのようなものであり、玖音の家の料理人たちとは比べるまでもないものであり、なんてことのないものだと思っていた。
その気持ちを、青葉さんはあっさりと否定して、こちらのほうがいいと言ってくれた。
……むず痒い、気持ちです。
面倒だと思いながら作ったあの時間が、悪くなかったと思えてしまう。
ぐうたらで面倒くさがりな僕らしくない感情だ。なのに、嫌じゃない。
「……桜の花びらに埋まっちゃう前に食べましょうか」
「そうですね。あ、アルジェさん。お弁当、ありがとうございます」
「……どういたしまして」
相手からのお礼に対して僕は、ただ無難な言葉を返した。
お弁当の味は、桜の香りと照れくささで、良く分からなくなっていた。
 




