それは遥かに遠いはずの、最も近いもの
「っ……!?」
戦闘の長引きを感じて来た頃に、それは来た。
空気が震えるかのような、妙な感覚。そしてそれが起きた瞬間に、シバさんがこちらから離れたのだ。
「スピッツ、合図が来たぞ! アキタを起こせ!」
「分かってるよ! おら、いつまでも寝てるんじゃないですよ……行け、破魔矢!」
シバさんの言葉を受けて、スピッツさんが矢を放つ。
即座の動きで放たれた矢はアキタさんの足元に着弾して、空気に溶けるようにして消えた。
そしてその瞬間、アキタさんの身体を包んでいた、真っ黒な炎が消失した。
「……回復役がいましたか」
イザベラさんが毒づいているうちに、アキタさんが起き上がって、シバさんと同じように距離をとった。
なにかが起きたと思える、状況の変化。イザベラさんも不吉に思ったのか、踏み込むことはせず、僕たちも相手と同じように至近距離に固まった。
「……銀色の。お主のことは非常に勿体無いが、時間切れだ」
「時間切れ……?」
「もう充分に稼いだと、そういうことですよ、お嬢さん」
にやりと笑って、スピッツさんがずり落ちた眼鏡を上げる。
充分に稼いだ。それはつまり、彼らがダークエルフたちを生け捕りにしたということを意味していた。
「っ……貴方たちは……!」
「これも仕事でな。悪く思うなとは言わんが……まあ、お主たちはようやったさ」
「おいシバ、俺はあの金髪女を殴らねえと気がすまないぞ」
「アキタ。親父殿の指示だ」
「……チッ」
意見を述べたアキタさんの言葉を、シバさんは一言で切って捨てる。
空気の振動は大きくなって、ばらばらという重低音さえ聞こえてきた。
「さっきから、この振動はいったいなんなのですか……!?」
「ふっ。知りたいなら、上を見るが良い。ちょうど、ステルスを解除したところだ」
彼に言われるまでもなく、僕は上を見上げていた。
なぜならば、それは僕が知っているものだったからだ。それがあるとすれば、上空だと思っていたからだ。
ダークエルフの領地は魔大陸の内陸、深い森の奥地にある。
そんな場所に、いきなり人間が何人も現れるなんて、あり得ない。
こんな風に蹂躙されるなんてこと、本来ならばあるはずがないのだ。
そんなイレギュラーがあるとすれば、起こせるとすれば、それは普通の発想と、手段じゃない。
空に浮かぶそれを見上げて、僕は呆然と呟いた。
「鉄の臭い……やっぱり、飛行船……」
この騒ぎが起きる前に、クズハちゃんとふたりで感じた、嫌な臭いの正体が、そこにいた。
木々の狭間から見える異様は、鈍い鉄色の輝きを放っている。
無数の鋼板を組み合わせて造られた巨大な影は、確かに空を飛んでいた。
こんな技術が、この世界にあるはずがない。だってこの世界では、車さえも走っていないのだ。
「こんな大きな鉄が空を飛ぶなんてことが、あるのですか……!?」
「あるのさ! 親父殿の頭脳を持ってすれば、絡繰さえもこの通り、空を飛ぶのだ!」
どこか興奮したようなシバさんの言葉も、どこか遠くに思えてしまう。
それは、飛行船という存在を目の当たりにしたショックだけじゃない。
「なん、で……」
自分でも驚くほどに、声が震えている。
いや、声だけじゃない。全身が震えて、立っていることすらも難しくなる。
あれを僕は知っている。産まれた時から知っている。ずっとずっとそれを掲げて生きて、失ったから。
あり得ない。けれど、見間違えるはずがない。
それは見知った、花の形をしていた。
遥か遠く、永久に終わらない繁栄と栄光を願ってつけられたあの花の名のことを、僕はかつて、花を活ける人に月桂樹だと教わった。
僕がずっと見上げてきていたもの。そして今も、見上げているもの。
それは紛れもなく、玖音の家の家紋に他ならなかった。
「どうして……どうして、あんなものがここにあるんですか……だってそれは、玖音の――」
「――ほう、どうやらお主、想像よりも危険なようだな」
呆然とした声をこぼす僕に、シバさんが鋭い目を向ける。
「クオン……『教えてもいないのに、クオンの名を知るものには注意しろ』と、親父殿からの仰せだ。お前のように有望な吸血鬼は正直惜しいが……そっちの方が重要な命令だな」
「……どういう意味ですか」
「なに、気にするな。もう気にしなくてもよくなるのだからな」
「っ……待ってください! あの紋は、やっぱり玖音の……!?」
疑問を最後までぶつけることは、できなかった。
空に姿を現した飛行船が高度を下げ、強烈な風と振動を連続して送ってくる。
風の中心、飛行船から降ろされてきたワイヤーに、シバさんたちが掴まっている。
「では、これにて失礼する」
「く、待ちなさい……このクソッタレども!」
待てと言われて待ってくれるような敵がいるわけもなく。
ワイヤーが巻き取られ、三匹の犬は鉄の小屋へと上がっていった。




