海は広いな大きいな
「……景色に飽きましたね」
くぁ、と我ながら大きく口を開けて、大空へ向けて欠伸をする。
涙で歪んだ視界に映るのは、青と白の二色。海と空、そして雲の色だ。
船首と呼ばれる船の一番前の方のところで、僕はぼうっと海を眺めていた。
「魔大陸って遠いんですねえ」
目指すところである魔大陸はまだ見えず、遥か目の前には水平線が横たわっている。
正確な速度は分からないけど、海が荒れているせいで、ピスケス号の船速は思った以上に遅い。魚座、という名前がウソのようだ。
実際商船としては廃棄予定の古いものだったようだし、血の契約で強化しているとはいえ、ガタが来ているところがあってもおかしくはない。
船の補修の仕方なんてさすがに知らないので、壊れないことを祈るばかりだ。
……最悪、この船が壊れたら、僕がなんとかするしか無いかな。
ある程度の荷物を諦めて、ブラッドアームズで鎖を作って全員吊り下げて、蝙蝠化して飛んでいくとか。
考えるだけで面倒くさいことこの上ないけど、最悪の状況になっても全員が生き残れるようには考えておこう。
「アルジェ……」
「あ、フェルノートさん。大丈夫ですか?」
「な、なんとかね……といっても、もう自分を回復させる魔力もないけど……」
とても本調子とは言えなさそうな様子で、オッドアイの巨乳騎士がやってきた。いや、元騎士か。
フェルノートさんは明らかに不調だけど、それでも自分の身体を引きずるようにして、僕の隣までやってくる。
「うう、風が気持ちいいわ……」
どうやら風に当たりにやって来たらしい。
船室から動けるようになったのならそれは良いことだし、気分転換にもなるだろう。
放っておくと、フェルノートさんはべちゃっと床に転がった。
普段の凛々しい雰囲気はどこへやら。すっかり弱ってしまっている。
「はぁぁ……いつまで続くの、この状況……前に船に乗ったときは、ここまでひどくなかったわよ……」
「ゼノくんいわく、この時期は荒れるらしいので、もしかするとずっとこのままかも知れませんね……はい、元気になぁれ」
すぐに効果が切れてしまうけど、気晴らしの間くらいは保つだろうと思い、回復魔法を行使する。
僕を中心として、風のようなものが広がり、船全体を包み込むように広がって行く。
回復魔法の波。それはゆっくりと船全体を包み込んで、フェルノートさんだけではなく、恐らくは船室にいるゼノくんとリシェルさん、ネグセオーたちをも癒やしていく。ついでのようなものだけど、多少はみんなの助けになるだろう。フェルノートさんも、回復魔法の重ねがけを一回分節約できるし。
「どうです、フェルノートさん? 楽になりました?」
「ええ、かなり……でも、良かったの、アルジェ。今のは魔力の消費が……」
「すぐ回復しますし、たまになら大丈夫ですよ」
「……それなら、素直に甘えさせてもらうわ」
よほどキツかったらしく、フェルノートさんは素直にこちらに頭を下げてくる。
……だいぶ参ってますね。
船に強いとか弱いとか関係なく、これは本職でもなければ耐えられないのではないだろうか。
ときおり大きめの波ががつんと当たり、波の飛沫が顔に当たる。視界は上下左右に大きく揺さぶられ、正直座っていないと歩くのも面倒なほどだ。
「アルジェは平気そうね……」
「そうですね。吸血鬼は、そのあたり強いかもしれません」
前世の僕ではここまで揺れたらさすがに酔いそうなので、これは吸血鬼という種族の特性ではないだろうか。
どちらにせよ、気分が悪くならないのはいいことだ。転生する際に吸血鬼を勧めてくれた転生担当のロリジジイさんに感謝しておこう。
「あと数日はこの状況が続くと思うので、覚悟しておいたほうが良いとは思います」
「ごめんなさい、役に立てなくて……」
「いえ、どうせ運転は勝手にしてくれるので、僕もそんなにすることはないのですし。陸に戻るまでゆっくり……とは行かないと思いますが、休んでいてください」
陸に戻ればフェルノートさんもいつも通りに動けるようになる。
ここまでよく働いてくれていたので、たまにはこういうときがあってもいい。
僕はぐうたらで面倒くさがりでなんのやる気もないダメ人間、もといダメ吸血鬼だけど、普段お世話になっている人が疲れているときくらいは、多少は役に立ちたいと思う。
養ってくれる人以外に頼りっぱなしになるのは気分的にむずむずするので、ちょうどいい機会だと思うことにしよう。
そんなことを考えて、僕はもう一度海を眺め始めた。ぐらぐらと揺れる中で船室に戻るのも面倒だし、このまま一度お昼寝でも――
「――え?」
自然と言葉が溢れるのは、代わり映えがしない景色が急激に変化したから。
荒れてはいるものの、快晴と言えた目の前の光景が、まばたきをしている間に暗くなっていく。
その暗さは雲ではなく、海から発生したものによって引き起こされていた。
「霧……こんな、いきなり?」
フェルノートさんが疑問符をこぼしている間にも、視界は霧に覆われていく。
ほんの数分で、振り返ってもピスケス号のマストさえ見えないほどの濃霧が周囲を包み込んだ。
「……ずいぶんと、肌に刺さりますね」
辺りを覆い、僕たちにまとわりつくようにして視界を奪う霧が、やけに肌に触る。
海で発生する霧というのは確か、暖かく湿った空気が海の冷たい水で冷やされ、空気中の水蒸気が水滴として見えるようになるという現象だ。
つまりは肌に触れば冷たいと感じてもおかしくはない。ないのだけど、今、僕が感じている感覚は、明らかに肌の冷えではなかった。
恐らくはフェルノートさんも同じなのだろう。二色の目をすうっと細め、明らかに警戒した様子で、霧が立ち込める周囲を見渡している。
「アルジェ。この霧、なにかおかしいわよ」
「これは……魔力……?」
異世界に転生してから何度も味わった、自分へと魔力が向けられている感覚。僕が感じているのは、それだ。
海にも危険はある。それは港町アルレシャでも見たことだ。この異世界には当たり前のように剣と魔法があり、それはつまり、それだけ危険があるということ。
面倒に思いつつも油断なく神経を澄ませて周囲を見渡していると、ある変化があった。
「なにかが……来る?」
船首側、霧の向こうに影が映っている。
その影はゆっくりと僕たちの方へと向けて近付いてきているらしく、だんだんと濃くなっていく。
「……なに?」
フェルノートさんが呟いた瞬間。
足元が大きく揺れた。
「ひゃっ……!?」
それは大きな波に当たったときのような揺れではなかった。
水ではなく、なにか大きな、明確な質量を持ったものにぶちあったような音。
「浅瀬に乗り上げた……!?」
「っ……違うわ、アルジェ!」
「っ!?」
「なにか――下になにかいる!!!」
フェルノートさんの叫び声が響いた瞬間、ピスケス号が軋みをあげ、動きを完全に止めた。
血の契約による操作を試みても、動かない。明らかになにかが、船の動きを妨げている。
「な、これは……!?」
「ま、そう急ぐな。わらわの領域にせっかく入ったのだから、ゆるりとしていけ?」
「誰!? 姿を見せなさい……!」
突然響いてきた女性の声に対して、フェルノートさんが鋭い声を飛ばす。
腰に下げた剣を抜いて完全に臨戦態勢に入ったフェルノートさんと同じように、僕の方もなにが起きてもいいように構える。
最悪、ピスケス号を諦めてでも切り抜けなくてはならない。ここはまだ、通過地点なのだから。
ただ、現状では言葉をかけてきた相手が完全に敵だとは断言できない。
話し掛けてきたということは、相手に意思疎通をするつもりがあるということ。
ピスケス号の動きを妨げているのは間違いなく相手だけど、問答無用で潰しに来ていないということは、話し合える余地があるということだ。
おそらくは声の主である影に向けて、僕はゆっくりと話しかけた。
「……誰ですか、あなたは」
「んぉ? わらわか? そうさな……まあ、実際に見れば分かろうよ。いらっしゃい、お客人。さあさ、わらわの領域に案内しよう」
「案内……拉致とか、拿捕の間違いでは?」
「ほっほ。そうとも言うのう……では、ここで潰れるかえ? 見たところ、船内にはいくらかの命があるようだが?」
みしり、と船体が嫌な音を立てる。
どうやら、明確に戦わなければならない相手ではないけど、友好的というわけでもなさそうだ。
「……フェルノートさん、どうですか?」
「……正体がわからないし、今海に投げ出されたら、船を壊すような攻撃力持ちの相手と動きづらい環境で戦うことになるわ。あと、自慢にならないけど私は魔力空っぽよ」
「選択の余地、なさそうですね」
船内にはクズハちゃんたちがいる。迂闊に動いて、みんなを危険に合わせるわけにはいかない。
正体は不明だけど、案内するというのならなにかしらの用があるのだろう。ならば、その間は安全が保証される。
「……では、案内をお願いします」
「くふふ。良い返事じゃのう。では、少しばかり待っておれ……そうれ、我が腕に抱かれよ」
言葉が響いた瞬間、ピスケス号が巨大な泡に包まれた。
「水の魔法……しかも、ここまで大規模!?」
「お前たち、水中では息ができんじゃろう。我は領地は海底。故にそこへと至るには、こうして保護してやらねば不可能ということじゃ」
「……あなたは、一体」
「わらわは、海魔族という。いわゆる魚人じゃな。名乗りは顔合わせのときにさせてもらうとしよう」
話しているうちにも、ゆっくりとピスケス号が海へと沈んでいく。どうやらこのまま、海底へと連れていかれてしまうらしい。
海魔族の領域。どんな所なのだろう。そもそもどんな用事があって、僕たちを呼ぶのだろう。
シリル大金庫はゼノくんの用事で、僕にとっても因縁があった。
けれど、この展開は完全なイレギュラー。予定されていない寄り道だ。
おまけに連れていかれるのは海の底。相手の気分ひとつで僕たちを守っている魔法は解除され――そうなったらどうなるかなんて、考えるまでもない。
「……面倒なことになりましたね」
言っている間にも、視界はゆっくりと水底へと引きずり込まれていく。
せめて、相手の用事が少しでも厄介なことでなければいいのだけど。




