いってきます
空は快晴で、抜けるように青い匂いは草原のもの。
お昼寝日よりだと思いながら、僕は銅貨色の髪をした女性に声をかけた。
「イグジスタ。本当にいいんですか?」
「もちろんだとも!」
ふんす、と鼻息荒く大きな胸を張るイグジスタ。その背後にあるのは、大量の食料だ。
肉類はなく、主に野菜や穀物など。特にパンがあるのは嬉しい。
誤解を解いてお互いのことを知った次の日。改めて僕たちは出立することにした。
イグジスタからはもう少しゆっくりして行けと言われたのだけど、リシェルさんのこともある。いつまでものんびりしているわけにはいかない。
用意してくれた食料をブラッドボックスに格納して、僕は彼女に頭を下げた。
「ありがとうございます、イグジスタ」
「ふふ、可愛い妹が旅立つのだから、これくらいの支度はするものさ」
そう言って、イグジスタは僕の頭を撫でてくる。
気分的には男だけど、今の僕の身体だと妹という扱いで間違ってはいない。
「……アルジェント」
「あ、はい。なんでしょう?」
「アンタレスが滅びた都市だということくらいは、私も知っている。だから、ここが君の家だと思っていい」
「……ええと?」
「なにかあればいつでも帰ってきてもいい。そういうことだよ」
玖音の家ではなく、アルジェント・ヴァンピールが帰ってこれる場所。
養ってくれるところではないけれど、帰ってもいいところ。
「……ありがとうございます」
言われた言葉の意味を理解してみれば、随分とくすぐったい気持ちになる。
それでも、それが悪い気持ちではないということは分かる。
だから僕は、自然と出てくる気持ちを受け入れた。
「うんうん。というわけで諸君、私の可愛い妹をきちんと守るように」
「……頼まれなくても守るけど、急に姉の顔されると腹立つわね」
「む、なんだいフェルノートくん。気に入らないなら、我がシリル大金庫の威信に賭けて君たちを破産させるよ?」
「職権乱用もいいところね……!?」
イグジスタはこの世界の経済を支えている存在なので、おそらく本気だろう。
ゼノくんがだいぶ青い顔をしているので、止めておいた方がいいかな。
「イグジスタ、あまり無茶なことは言わないでください。みんな頼りになりますし、僕の方も自分の身は守れます」
「むう、しかしだね……ああ、お役目がなければ私もついていくのに! そうだ、大型ゴーレムを三十体くらい連れていくのはどうかな!?」
「やめてください」
僕のブラッドボックスに格納もできるけど、いくらなんでも過剰戦力もいいところだ。
あんな大仰な兵器を三十体って、いったいなにと戦うことを想定しているのだろう。
「ぐぬぬ……でもほら、クズハくんも言っていたじゃないか! 後悔先に立たずって感じのことを!」
「その通りですけど、それなら食べものだけで十分です。それはもう、すごく深刻な問題なので」
リシェルさんの食事量はこの旅で一番の問題だったので、それが解決するだけでありがたい。
けれどイグジスタの方は納得がいっていないようで、形のいい眉毛をしばらくの間歪め、食い下がってきた。
「むむむ……いいかい君たち、何度も言うが私の大切な妹だからね!? きちんと守るように!」
「アルジェ様。精霊様は、なにを怒っていらっしゃるのでしょう?」
「食べ過ぎ注意、だそうです」
ちょっと面倒くさくなってきたので、翻訳に関しては適当にしておいた。
イグジスタのテンションがおかしいというか過保護気味なのは昨日からなので、慣れてはきたけどちょっと疲れてもきている。
優しいとは思うけど、いろいろと過剰だ。シリルさんにもこんな感じだったんだろうけど、疲れなかったんだろうか。
いずれにせよ、いつまでもここにはいられない。
帰ってきてもいいとは言われて、僕もそのつもりはあるけれど、今は用事がある。
リシェルさんを生まれ故郷である魔大陸に送り届けると、約束してしまったのだから。
「それじゃあ、イグジスタ。ええと……」
「うん。いってきますと、そう言ってくれるかい?」
「……ええ、いってきます」
「うん。いってらっしゃい」
さよならではなく、いってきます。
サツキさんにもそう言ったけれど、これはきっと、あのときとは違う言葉だ。
いつか帰るところができたと、そういう意味の言葉。
妹と呼ばれて、そう扱われることにはまだ戸惑うけれど。
それでも、否定したいとは思わなかった。
「では、旅路の無事を祈っている。あ、時々その、手紙をくれると嬉しいかな。無事が分かるし、近況を聞きたいとも思うからね」
「……分かりました」
異世界の郵便屋さんを利用したことは無い。そもそも、どういうシステムで手紙が運ばれているかも僕は知らない。
そういったことは、まあ、あとでフェルノートさんにでも聞けばいいだろう。
面倒にも思うけど、知りたいと言うのだから、たまに書くくらいはしてもいいと思う。
寂しがり屋の、この人のために。
手を振ってくれる相手へと、同じように手を振ることで応えて、僕は馬車へと乗り込む。
フェルノートさんとリシェルさんも、同じように馬車の中へ乗ってきた。ゼノくんの方は、馬車を動かすために外だ。
「もういいんですの?」
「ええ。きちんと挨拶は済ませましたから。クズハちゃんの方こそ、挨拶はよかったんですか?」
こういうとき、いつも元気よく別れの挨拶をするクズハちゃんが、珍しく外に出てこなかった。
不思議に感じて質問してみれば、狐娘はゆるく微笑んで、
「家族との別れですもの。水を差すのは野暮、というものですわ」
「……そういうことでしたか」
「今度はアルジェさんは妹として、そして私は妹さんのお友達として。歓迎してくれると、昨日約束してくださいました。だから、私はいいんですのよ」
嬉しそうに話すクズハちゃんの隣に、僕はなんとなく腰掛けた。
意味はない。馬車は広いから、そうする必要もない。
ただ、そうしたかった。それだけのことだ。
「……アルジェさん」
「なんですか、クズハちゃん」
「ありがとうございます」
「ふぇ?」
不意打ちのような言葉に、一瞬戸惑った。
なにに対するお礼なのか、分からなかったのだ。
たぶん相当間抜けな顔をしていたのだろう。クズハちゃんは狐の耳を揺らしてくすりと笑って、
「母を失った私の側にいてくれたこと、ですわ」
「……ただ、そうしただけですよ?」
あのとき、母親の死を悼んでいたクズハちゃんに、僕は声をかけたりしなかった。
どうしたらいいか分からなくて、声をかけたり、触れたりすることすら憚られて。
ただ彼女が泣き止むまで、側にいたというだけ。
「それで良かったんですのよ」
「そう、なんですか?」
「だって、それで私の寂しさは埋まったんですの。あのときアルジェさんがいなければ、きっと……昨日、イグジスタさんにお説教なんて、できませんでしたわ」
どこか恥ずかしそうに、クズハちゃんが微笑む。
確かにあの日、僕らが出会わなければ、もしかするとクズハちゃんもいつか、イグジスタと同じようになっていたのかもしれない。
そういう意味でのお礼なら、納得できる。
僕がしたことは大したことではないけれど、それが彼女の為になったのなら。
「……じゃあ、どういたしまして」
素直にそう言ってもいいのだろうと思った。
「……だからアルジェさんがつらいときは、きっと私が側にいますわ」
「そうですか?」
「ええ。だって、私にとっては……アルジェさんはもう、かけがえのない人なんですもの」
渡された言葉に、不思議と胸があたたかくなる。
湧き上がるこの気持ちがどういうものかは、よく分からない。
それでもこの気持ちが、胸のぬくもりが、嫌ではないことは分かる。
だから今、僕が感じている気持ちに、従おう。
「……ありがとうございます」
「…………」
「? どうかしましたか、クズハちゃん?」
「あ、いえ、その、い、今の笑い方、もう一回やって頂けますの!?」
「……僕、笑っていました? そんなつもりは無かったんですが……」
「それはもう、かわいらしく! なのでもう一回! もう一回お願い致しますわ!?」
食い気味にクズハちゃんが来るけれど、急に言われても困る。
そもそも今、笑っていることも意識していなかったのだ。
「えーと……こうですか?」
「あ、それもかわいいけどちょっと違うっ……!」
意味不明なテンションのクズハちゃんに、僕はしばらく付き合うことになったのだった。
旅路の終わりはまだ遠くて、友達というものもまだよく分からなくて、急に出来た姉にも戸惑うけれど。
それでも、胸の奥にあるのは、どこか安心するようなぬくもりだった。




