甘く、満たされるもの
「ん、ふ」
傷つけた場所から溢れた血が、口内を満たす。
何度も口にしたこれを、直接味わうのは二度目だ。
味だけではなく、牙と唇、そして舌に、肌と肉の感触がする。
それを心地いいと思ってしまうのは、やはり吸血鬼ゆえだろう。
柔らかな肉の感触。
濃密な血の匂い。
とろけるように甘い味。
吸血という行為のすべてが、気持ちいい。
「つぅっ……!」
「っ……!」
血に酔ってしまいそうだった意識が、フェルノートさんの声で引き戻される。
反射的に牙を抜こうとしたところで、頭を押さえられた。
「……大丈夫だから、続けて」
「ん、ふぁい……かぷっ」
抱き寄せられるような形で囁かれた言葉に、僕は従った。
彼女に言われるがままに吸いついて、こくこくと吸血を継続する。
遠慮という言葉が頭の中にあったのは、ほんの少しのこと。
気がつけば僕の方から彼女にすがりついて、意地汚く音を立てて血を求めていた。
……美味しい。
血の味は甘く、飲み込むたびに喉の奥までがとろとろに溶けてしまいそう。
一口ごとに体が熱くなり、もっともっと欲しくなってくる。
舌先で傷口をえぐるようにして、血液を舐めとっていく。
ぴちゃぴちゃと濡れた音が部屋に響く。みんなが起きてこないかとも思うけど、そんな心配はすぐに血の味に流されるようにして消えてしまった。
「は、ん……もっと、フェルノートさん、もっとぉ……」
「んっ……いいわよ、アルジェ……」
抱き寄せられて、頭を撫でられる感触。
受け入れられたことを実感しながら、何度も何度も喉を鳴らした。
「ん、ちゅ……じゅる、あはっ……おいし、これ、好き、好きぃっ……♪」
「く、ぁ……ん、好きなだけ、飲んでいいから……我慢しなくて、いいからね……」
髪に指を通されるのを感じる。時折、指が耳に触れるたびに、ぞわりとしたものが背筋を撫でていく。
くすぐったいような、けれど、嫌ではない感覚。
甘えるようにぴったりと彼女にくっついて、喉を鳴らす。
情熱的にくちづけるように、湿った音を漏らしながら吸血していく。
「は、はふ……ぷはっ……」
頭がじんじんと痺れるのを感じながら、僕は口を離した。
これ以上飲んでしまうと、フェルノートさんが危ない気がする。ぼうっとした頭でも、きちんとそれを理解して、止めることができた。
「ん……アルジェ、大丈夫?」
「は、はい……ごめんなさい、フェルノートさん……」
本来なら気を遣わなくてはいけないのは僕の方なのに、むしろ相手に心配されてしまった。
お腹の奥から発熱しているような感覚がして、身体が震え、甘く痺れる。
フェルノートさんはそんな僕を抱きしめて、頭を撫でてくれた。
そのことに甘えながら、口の中に残る血の味を唾液で流して、ゆっくりと息を整える。
「……フェルノートさん。痛かったりとか、しませんでした?」
「大丈夫よ。昔吸われたのと比べれば、大したことないわ」
「……吸われているとき、なにか、感じました?」
吸血鬼が血を吸ったときに相手に与える感覚は、吸血鬼が一番望んでいるもの。
そのことを思い出して、僕はフェルノートさんに質問した。
「悪い気分ではなかったわ。安心しなさい」
「そうですか……よかった……」
フェルノートさんがそう応えたということは、僕が彼女に対して、悪い気持ちを持っていなかったということだ。
もちろん悪い感情を持っているつもりは無かったけれど、僕には自分自身のことも分からないのだ。
もしかしたら傷つけてしまうかもしれないという不安を、フェルノートさんは受け入れて、否定してくれた。
僕が彼女に与えた感覚がなんなのかは気にはなるけれど、今はそのことよりも、ただ相手がそうしてくれたことの方が嬉しかった。
血を吸ったことによる高揚感と、抱き留められている安心感で、身体の力が抜けていく。
それでもやらなくてはいけないことは忘れない。僕がつけてしまった傷に指を這わせて、言葉を紡ぐ。
「痛いの痛いの、とんでいけ」
多少意識がはっきりしなくても、この魔法は間違えない。この世界に転生してから何度も使い、助けられてきた魔法なのだから。
編まれた言葉が魔力を練り、魔法の効果を正しく生み出す。
発動した力はフェルノートさんの肌を撫で、即座に傷口を塞いだ。
回復魔法。単純な治癒だけではなく造血を助ける作用もあるので、貧血の心配もない。
「ありがとう、アルジェ」
「お礼を言うのは……僕の方ですから」
「……ベッドまで、運ぶわね」
断る理由もなければ自分で歩く気力もなかったので、素直にそうしてもらうことにした。
ふわふわした意識の中で、身体もふわりと持ち上げられる。
お姫様抱っこでベッドまで運ばれて、優しく降ろされた。シーツが柔らかく、僕の身体を受け止めてくれる。
火照った身体が冷えたシーツに包まれて、気持ちいい。お日様の匂いに身体をすり寄せれば、気分も落ち着いてくる。
「はふぅ……ありがとうございます、フェルノートさん」
「どういたしまして」
「ん……」
髪を撫でられる感触が気持ちよくて、自然と目が細くなる。
嗅覚に触れる甘い香りは血ではなく、フェルノートさんの匂いだ。
距離の近さを、不快だとは思わない。慣れた間柄だし、この人は優しい。
打てば響くような反応も、守ってくれる頼もしさも、僕を怒るときの態度も。すべては、優しさからくるものだ。
細められた視界に映るのは、どこか潤んだように揺れる二色の瞳。
「フェルノートさん……?」
「あの、アルジェ。ちょ、ちょっといいかしら」
「あ、はい……なんですか……?」
まだ頭はぼうっとしているけれど、質問に答えるくらいの余力はある。
彼女の頬は赤く染まっていて、どこか熱でもあるかのようだ。吸血したせいだろうか。
「ええと、その……い、今から言うことは聞き流してくれていいっていうか、断ってくれてもぜんぜん構わないのだけど……」
「ん……フェルノートさんの、頼みごとなら……断りませんよ?」
「え、い、いいの!?」
「あふ……いつもお世話になってますから……多少面倒くさいことでも、引き受けます……」
いけない、落ち着いてきたら今度は眠くなってきた。
意識を集中して、寝落ちに耐える。せめて話を聞き終えるまでは起きていなくては。
「な、なんでも……!!」
「いえ、なんでもじゃないですけど……」
そこまでは言ってない。
眠気を帯びた頭でも、そこはきちんと否定しなくては。「真面目になって働け」とか言われたらたまったものではない。
僕の目的は「三食昼寝つきで養ってくれる生活」。これは譲れないし、譲る気もないのだ。
「とりあえずフェルノートさんの頼みなら、全部ではないですけど、ちょっとめんどくさくても聞きます」
「……なんか一気に覚醒してない?」
「大事な話でしたから、今の」
油断した瞬間に変な約束をさせられたら困る。そういう詐欺多いし。
この人はそういうことはしないだろうけど、それでも自分が言っていないことを肯定していると、どこかで問題が起きそうで面倒くさい。自分の考えはきちんと申告しておかなくては。
「ま、まあいいわ……あのね。その、あの……」
「……?」
「ほ、ほら。お茶してる間にベッドは冷えちゃったし、このベッド広いからふたりくらいは眠れると思うのよね」
「そうですね」
あてがわれたベッドは、サイズ的にはふたりくらいは余裕で入れそうなものだ。
中でも僕のものがひときわ大きいのは、やはりイグジスタの気遣いだろう。僕の世界での判定基準で言うなら、他のみんなのベッドはダブルで、僕のがクイーンサイズくらいの大きさか。
肯定すると、フェルノートさんはこちらにぐっと近づいてきた。
息がかかりそうなくらいの至近距離になった相手の顔は、どこか落ち着きを失っているようにも見える。
「フェルノートさん……?」
「だから、ほら、ね。ふたりで寝ても大丈夫だと思わない? むしろその方が暖かくてよさそうじゃない?」
「ええと……まあ、そうかもしれませんね……」
「で、でしょう!? だから今日は私と――」
「――うーん?」
「っ!?」
続けようとした言葉は、クズハちゃんの声で遮られた。どうやら、話し声で起こしてしまったらしい。
フェルノートさんは飛び上がるようにして、僕から一気に距離をとった。
突然の声の主であるクズハちゃんは、狐耳をぴこぴこと動かしながら起き上がって、
「うー……もう朝ですの……?」
「あ、え、ええと……ま、まだ夜よ、クズハ。寝てていいわ」
「んう……はいですの……」
とろんとした声でそう答えると、クズハちゃんは再びベッドに横たわった。ぽふんと音を立てて、小さな体が尻尾ごとシーツに沈む。
彼女はすぐに眠りに入ったらしく、ほどなくして規則正しい寝息を立てはじめた。
「……素直な子で助かったわ」
「ふえ……?」
「なんでもないわ……アルジェも、もう寝なさい。明日は嫌でも起きてもらうんだから」
「ん……お話はいいんですか……?」
「ええ。頭が冷えたから、いいわ……気にしないで」
よく分からないけれど、相手の中では話は終わったらしい。
サイドテールを外して、フェルノートさんが床へと入っていく。
なんの話をしようとしていたのかが気になるのも本当だけど、いい感じに眠気がやってきたので、気にするのはやめた。
久しぶりに血液を摂取した充足感が、湧き上がってきた睡眠欲を助長する。満腹になったら眠くなるのと似たような感じだ。
「おやすみなさい、フェルノートさん」
意識が夢に沈んでいくのを自覚しながら、言葉を投げる。
自分でも消え入りそうな声量だと思ったけれど、相手はきちんと手を振って応えてくれた。
そのことに満足を得て、僕は瞳を閉じる。
お腹の奥に落ちた血液のあたたかさが、すぐに意識を眠りに落とした。




