シリルノート
「……この手記が開かれる日が来るとは、思わなかったなぁ」
古い紙と埃の香りの隙間を、鈴が鳴るような声が抜けていった。
僕にそっくりで、けれど、僕とは違って優しく笑う少女。
この笑顔を、僕は知っている。見たことがある。
誰かのことを想う笑顔。それはクズハちゃんのお母さんと同じ、優しい微笑みだった。
手を伸ばせば届く距離、机の上で足を組んで座る少女に、僕は言葉を投げる。
「シリル、さん?」
「ノンノン。私はシリルだけど、シリルじゃあないんだよ。限りなくシリルに近いけど、どうしようもなくシリルとは言えない」
「えーと、つまり……尻毛さん」
「どうしてそうなった!?」
いけない。このネタが通じない人だったのに、ついやってしまった。
相手は僕そっくりの顔を歪め、気を取り直すように咳払いをする。
「こほん……シリルノート。私のことは、シリルノートでいいよ。尻毛はやめて。尻毛ノートとかもやめてね」
「分かりました、シリルノートさん」
名乗られた名前を呼ぶと、シリルノートさんはにこりと笑った。
僕によく似た顔だけど、やはり話し方や雰囲気は全然違う。彼女がシリルさんに近いものだと言うのなら、やはりシリルさんと僕は別物だろう。
そしてその確信を、確証に変える言葉がきた。
「それにしても、こんなところになんの用事だい? シリルにそっくりな、でも、違う人」
「……やっぱり、違うんですか」
「そりゃあ違うさ。髪の色も、瞳の色も違えば、泣きぼくろもないし、魔力は似ているが、ベクトルが逆だ」
「ベクトル……?」
「性質ってこと。君はシリルに似ている。なるほどたしかにその通り。でも、それだけだ」
「……それだけ、なんですか?」
「それだけさ。気になるなら、あとでダークエルフにでも聞いてみるといい。今は私の時間だから、あとでね」
言われて振り向いてみれば、そこにリシェルさんはいなかった。
なにか仕掛けはあるのだろう。けれど、今はそれよりも気になることがある。
改めてシリルノートさんの方に目を向ければ、彼女は机の上から降りていて、
「さてさて、私の役目はただひとつ。シリルのノートを開いた人に、シリルが残したことを伝えること。シリル本人は、開いてほしい人がいたんだろうが……あの子は今、随分と盲目のようだ」
肩を竦め、シリルノートさんはそう語る。
あの子と言うのは、やはりイグジスタのことだろう。
硬貨のようにきらびやかで、頑なに僕をシリルだと信じる大金庫の精霊。
はふう、と溜め息をついて、泣きぼくろがある方の瞳を閉じてウィンクすると、シリルノートさんは言葉を重ね始めた。
「まあ、彼女の気持ちも分かるさ。何十年も大好きな人が不在で、ひとりで硬貨を造り、数え続けていたんだ。気のひとつやふたつ、おかしくなる――それは、仕方がない」
「シリルさんは、死んでしまったんですか?」
「さて、はっきりとしたことは分からない。私はイグジスタと同じで、ここのゴーレムが見聞きしたものしか知らないから。でもシリルが生きているなら、ここに帰ってこないなんてことは、ありえない」
シリルノートさんは書庫の中を確かめるように見渡しながら、語り続ける。
「さて、君はシリルのことが知りたいらしいから、彼女のことを語ろう。シリルは元々、ある人に師事していた。その人は師匠であり、誰より愛した親友だった」
「…………」
「その人は自分のことを『別の世界から来た』と語っていて、シリルは彼女に機械のことを習ったそうだよ」
「別の、世界……」
「本当かどうかは分からないけどね。私はあくまで手記で、シリルが残した記録を語るだけのものだから」
別の世界が異世界のことを言うなら、その親友というのは転生者でまず間違いない。
機械というのは耳に慣れない言葉だと思ったけど、やはり、誰かがこの世界に持ち込んでいた文明だったのか。
「シリルと師匠は、ふたりでひとつの夢を持っていた。それはこの世界の通貨を統一すること。口にしてみると簡単だけど、それはとてもとても、簡単なことではなかった」
「……それはそうでしょうね」
お金をひとつに統一する、なんて、はっきり言ってむちゃくちゃだ。
それはお金の流れが生じることで誰かひとり、どこかひとつの国が利益を得てはいけないということだ。それでは必ずどこかの誰かと、諍いになってしまうから。
そしてお金が一種類しかないということは、そのお金が無価値になった瞬間に、経済が崩壊するということでもある。
「そう。簡単ではなかった。それこそ愛する人が道半ばで失われてしまうくらいに。それでも、シリルは情熱を失わなかった。かつて聞いた、別世界で偉大な人が入るという墓標……ピラミッドと言ったかな。それを参考にして、親友の墓を夢の体現として、ここに建造した」
「そこまでして……」
「そう。それだけの想いが、彼女にはあったのさ」
想い、夢、生き甲斐。
そういったものを、シリルさんにはきちんと持っていたらしい。
やっぱり、僕と彼女は別人だ。
僕のようなぐうたらで、面倒くさがりで、なんの役にも立たないようなものとは違う。
僕には、シリルさんのように情熱や愛情はないのだ。
「そうして生み出した人工精霊があのイグジスタ。親友、イグジィを模して造られた、シリルの慰めだ」
「模してって、それじゃあシリルさんは……」
「そ。今のイグジスタが君をシリルのように見るように、シリルはイグジスタに親友の幻影を見ていた……最初はね」
「最初?」
「うん。だって違うじゃないか。君とシリルのように、イグジスタとイグジィも違う。一緒にいるうちに、シリルはそのことに気付いたのさ」
「あ……」
「だから彼女は、イグジスタをイグジィではなく、イグジスタとして見るようになった。もちろんそれは当たり前のことなんだけどね。いやはや、気付くのに時間がかかったものさ」
まるで人事のような物言いで、けれどシリルノートさんは恥ずかしそうに微笑んだ。
机の上に並んだペンを手に取ってくるくると回し、彼女は想い出を紐解いていく。
「それからのシリルはイグジスタの振る舞いと意思を尊重し、育つようにした。違うものを違うものとして、認めたんだ」
「……大切に、したんですね」
思い出すのは、イグジスタが語ったシリルさんとの想い出の数々。
大切でなければきっと、あそこまで慕うことは無い。それこそ似ている別人を、そうだと盲目的に信じてしまうほど。
「そうさ、そうとも。だからシリルが生きているなら、帰ってこないなんてことは有り得ない。シリルはイグジィを想い、イグジスタを慈しんだのだから。大切にするべきものがいる、親友の墓標に帰ってこないはずがないんだ」
「……じゃあ、シリルさんは」
「うん。ま、ほぼ間違いなく死んでるだろう。シリルはただの人間だったしね」
「…………」
「それを君が気に病むことはないさ。ただ、君がその姿であることに、なにかを感じるのなら……そうだね。あの馬鹿者の目を覚まさせてくれるかい?」
どこかすっきりとした顔で笑って、シリルノートさんは僕の頭を撫でてきた。
頭皮に触れる優しい感触は、ほんの少しの時間で離れてしまう。
僕にそっくりな顔はくるりと回転して、こちらに背を向ける形になった。
「面倒事だけど、どうか聞いてくれると嬉しい。私も彼女をこのまま見続けるのは、少しだけ悲しいんだ」
「分かりました」
口から出てきたのは、自分でも驚くくらいはっきりとした言葉。
僕になんの利益もない。そのことが分かっていても、自然と頷いていた。
シリルノートさんは僕の言葉に振り向いて、柔らかく微笑んだ。
始めに見たのと同じ、誰かを想う優しい微笑み。
ほんの少しの間、見つめ合って――肩を叩かれた。
「アルジェ様? 大丈夫ですか?」
「……ん」
リシェルさんの声が聞こえた瞬間、視界がもう一度開けた。
夢から覚めたような感覚があり、気だるさから欠伸をしてみれば、滲む視界はシリルさんの日記を捉える。滲んだ文字の意味は分からない。
「夢……いえ。夢のような、なにかなんでしょうね」
「あら、眠っていらしたんですか? でしたら、起こしてしまいましたか……申し訳ございません」
「いいえ。ちょうど良かったです」
まるで計ったようなタイミングだけど、たぶんシリルノートさんが気を利かせてくれたということだろう。
語られたことを思い出しながら、僕は隣のダークエルフのお嬢様に問いかける。
「リシェルさん。僕の姿が誰かに似ていたとして、それになにか因果関係とかってありますか?」
「……関係、でございますか」
リシェルさんは人差し指を頬に当て、軽く思案するような仕草をした。
薄い色の金髪と長耳を揺らし、少しの間、沈黙をこぼす。少しの時間を挟んでから、語ってくれた。
「吸血鬼は高濃度の魔力が意思を獲得した存在です。その高濃度の魔力に持ち主がいた場合……つまり大規模な魔法を使うなどして大気中の魔力を濃くした場合、生まれてくる吸血鬼の形はその魔力の持ち主に『引っ張られる』ことがあります」
「……じゃあ、僕の姿が誰かに似ていたら?」
「アルジェ様が生まれる環境が自然ではなく、人為的に生まれたということですね」
「……それだけ?」
「はい、それだけです。遺伝のように魔力の質をある程度は受け継ぐでしょうが、別人でございますよ」
それを早く知りたかったとも思うけど、リシェルさんは僕の言葉以外が分からないのだ。
ここまでどういう経緯で滞在しているのか、僕は彼女にきちんと説明していなかった。ここでなにかを言うのは、お門違いだろう。
言葉の壁がある面倒さは感じても、仕方が無いとは理解している。
僕が生まれた土地は、かつて大規模な戦闘があったという場所だ。
リシェルさんに語ったように、街の残滓があれども、廃墟と化した寂しい場所。
その場所でかつて使われたなにかの魔法が、シリルさんの手によるものだった。そういうことだろう。
納得を得て、僕は椅子から立ち上がった。
「……それじゃあ、行きましょうか」
「もういいんですか?」
「ええ。知るべきことは、知りましたから」
記されているすべてではなくても、僕が知らなければいけないことと、知りたいことは知ることが出来た。
これ以上、想い出を暴くのは野暮というものだ。
ここにある想い出を、僕よりもずっと知るべき人がいる。
約束してしまったことを果たすため、僕は隠し部屋をあとにした。




