流れる夢のように
「ん……」
瞳を開けたら、くすぐったかった。
その理由は簡単。彼女の長い黒髪が、こちらの鼻先にかかっているからだ。
「……流子ちゃん?」
「はい、おはようございます。銀士さん」
嗅ぎなれた匂いの名前を呼ぶと、見なれた笑顔と聞きなれた声で返答される。
……また、夢ですか。
アルジェント・ヴァンピールではなく、玖音銀士としての記憶。それを夢として、追うように体験している。
夢の僕を起こしてくれたメイド服の女性は、水城流子ちゃん。
玖音の人間として不適格の烙印を押された僕が、この部屋に囚われて数日経った頃にやってきた、僕のお世話係だ。要らなくなった人間でも、こういう人は充てがわれるらしい。
艷やかな黒の長髪に、実年齢――二十歳以上らしい――よりも幼い、十代の少女のような顔立ち。
本当なら流子さんと呼ぶのだけど、本人たっての希望でちゃん付けで呼んでいる。いや、呼んでいたと言うべきか。
頭を飾る白のフリルを揺らし、流子ちゃんが微笑んだ。
「いつも思うんですけど、ねぼすけさんですよね、銀士さん」
「ここに入ってからすることがないもので、つい眠る時間が長くなってしまうんです」
「……確かに、ここは娯楽が少ないですね。今度、ボードゲームでもお持ちしますよ」
「いえ、そこまでは」
「ふふ、そうですか? お相手しますよ? ……さ、ご飯ができましたから、起きてください」
「ありがとうございます」
記憶の中、過ぎ去った過去となっている会話。
相手の言葉も僕の返答も、すでに知っている。
……どうして、昔のことを夢に見るんでしょうか。
異世界に転生してから、過去の夢を何度も見ている。
まるで記憶をたどることに意味があるとでも言うように、何度も、何度もだ。
記憶の中の僕は自動でベッドから降りて、食卓へと歩を進める。意識だけの僕はそれをただ、じっと見ていることしかできない。
「ご飯くらい、自分で作るんですけどね」
「さすがにこれくらいはさせて頂かないと私、本当にすることがなくなってしまいます」
「はあ、そうですか」
流子ちゃんが笑みで、「さあどうぞ!」と促してくれるので食卓につく。
テーブルの上には焼き鮭やおにぎり、お味噌汁といった、和風な料理が並んでいた。
正直なところ、黙っていても食事が出てくることはありがたいことなので、素直に頂くことにした。
反対側の席についていただきますを言って食べはじめると、流子ちゃんも対面に座った。
どういうわけなのか、彼女はよくいっしょにご飯を食べてくれるのだ。
「おいしいですか?」
「ええ、とても」
「ふふ、銀士さんは表情が動かないから、聞かないと分からないんですよね」
「わーこれすごくおいしーい」
「表情変えずに声色だけ嬉しそうにするのやめましょう!? ホントかどうか判断できなくなりますから!」
「そうですか、分かりました」
「もう、嬉しそうにするならちゃんと顔も笑った顔にしてください」
文句を言いつつもどこか楽しそうに、対面の相手は箸を進めている。
ご飯くらいは自分で作れるけれど、作ってもらえてありがたいのは本当だ。それがおいしいものであれば、尚更に。
「三食昼寝つきの生活……こんなに楽に生きて、いいんでしょうか」
「たぶん、ここの事をそう言うのは、銀士さんだけだと思いますよ」
「そうですか?」
「……ここ以外にもいくつか同じ部屋があります。でも、ここまで長く保っているのは、銀士さんだけです」
保っていると言われ、ぼんやりと想像がついた。
僕が産まれた玖音家は、世界のすべてを手中にしていると言っても言い過ぎではないくらいの大家だ。
だからこそ家人は常に完璧を求められ、そうでない人間は不要の烙印を押されて、幽閉される。夢の中にいる僕も、そのひとりだ。
僕よりも前にこの部屋に連れて来られた人たちは、たぶん耐えられなかったのだろう。己の扱いに耐えられなくて、死を選んだのだ。
僕にはその気持ちは分からない。いらないものが捨てられるのは、当たり前のことだと感じるからだ。
必要の無くなったものや、古くなったものは捨てる。そんなのは誰でもやっていること。
ならばどうして、自分が「そうなる」可能性を考えないのだろう。
夢の中にいるあの頃の僕も、転生してアルジェント・ヴァンピールとなった今でも、そこが分からない。
「自分はいらなくなった……ただそれを受け入れるだけのことが、そんなに難しいんでしょうか?」
「難しい……というか、まず不可能だと思います。だからこそ、この部屋があるんです」
「この部屋が……?」
「……外界から隔絶し、いらないとする。人の……それも必要であることをずっと求められてきた玖音の人間の心を壊すには、十分すぎる場所です」
言われた言葉の意味は、なんとなく分かる。だってこの部屋は、あまりにも綺麗すぎるから。
僕がここに来たとき、調度品だけでなく、壁や天井、床の隅までが新品のような有り様だった。
それなのに鉄格子の向こうの壁や階段は古く、まるで部屋だけが新しくここに置かれたような景色なのだ。
まるで使われるたびに使いものにならなくなって、新しく造り直しているような、妙な雰囲気。
溜め息を吐いて、流子ちゃんが言葉を続ける。
「心を壊し、周りを壊し、けれどそれでも届かなくって……最後には、自分を壊す。それが、ここに入れられた人たちが、例外なく辿ってきた道です……貴方が現れるまでは」
「……流子ちゃんは、何度か見てるんですか?」
「……ええ」
表情を曇らせて、流子ちゃんは箸を置いた。
明らかに食べる気を失った相手を放置して、夢の僕は箸を動かす。
意外ときちんと味を覚えているらしく、「懐かしい」と思う程度には、意識だけの僕も食事の味を感じて、思い出していた。
「……貴方のことを怖がる声も多いのです。だからこそ、私のような慣れているものがついているのですが」
「……それ、僕に喋っていいんですか?」
「ダメ、でしょうね。でも、銀士さんはどうせ気にしませんし、ここは監視されたりもしてませんから」
諦めたような、安堵したような笑顔で、流子ちゃんが笑う。
あのときの僕はどうして笑うのか分からなかった。今の僕も、正直どうしてなのか分からない。
それでも夢の中でもう一度出会った笑顔は――不思議と、悪いものではないように思えた。
「銀士さんは変な人、ってことです」
「そうですか?」
「はい、とっても。だから……ここから出られなくても、生きていてほしいです。私ももう、壊れてしまう人を見るのには……疲れましたから」
どこか祈るような、願うような言葉。
それを渡された僕が、なんと答えたか。僕はそれを知っている。覚えている。
けれど、夢の中の僕がその言葉を紡ぐ前に、意識が浮かんだ。
……「大丈夫ですよ」と、僕はそう言ったんですよね。
不可抗力というか、眠っている間のこととはいえ、渡した言葉を守れなかった。
僕は長生きすることなく、あっけなく死んでしまったのだ。
胸の奥に小さな針が刺さるような感覚すら置き去りに、僕は夢から醒める。
誰かが、名前を呼んでいる。
呼ばれている名前は――どちらだろうか。
 




