プロローグ2
豚の丸焼き。
いったい誰が最初に考えたのか知らないが、鉄棒の技としては最弱の難易度を誇っていることは間違いない。幼稚園、小学校低学年のお子ちゃま達にはお馴染みで、彼らが公園や学校の鉄棒からぶら下がっている光景はよく見られる。
でも、高校で豚の丸焼きなんぞやってるヤツがいたら、きっとそれは周囲から奇異に見られることだろう。
けどまあ、そこんところは慣れってやつだ。
そんなわけで既に奇異に見られることに慣れた高校一年の俺は、鉄棒(と言っても懸垂をやるあの高いやつ)にぶら下がり、豚の丸焼きを披露している。
今は放課後で、下校する連中や陸上部の部員がちらちらとこちらを窺っている。
でも、入学直後に比べれば随分マシになったもんだ。最初はまるで露出狂でも見るような具合だったからな。酷いもんだ。
豚の丸焼き。
この技にはいったいどういった意味が込めらているのだろうか。焼かれていく豚の気持ちを理解しようと編み出された技じゃねえことは確かだ。なぜなら豚は丸焼きにされる以前に死んでいるだろうから。
それはともかく――。
俺が豚の丸焼きをする意味は一応、ある。
考え事をするのに一番集中できる態勢だからだ。ぶら下がることにより視点は反転し、地表が空に、空が地表になり変わる。物事を見る角度が変わり、違うものの見方ができるというもんさ。頭に血が上ったら首を上げればいい。逆立ちだとこうはいかないが、豚の丸焼きなら可能だ。
――なーんてことを言ってみる。
実はなんてことはない。よくわかんねーけど、とにかく豚の丸焼き態勢は落ち着くんだ。
けど、何も考えてないわけじゃない。ていうか、考えるテーマはいつも変わらない。
時間について――。
世界はおもしれーもんで溢れている。
――と、俺は思う。
そんなあれやこれやを、俺は一つでも多く経験しようと日ごろから活動的に動いている、つもりだ。でも、俺はもう高校生になっちまった。
早い。
あまりにも、早い。
手の平でおもしれーもんをすくっても、すくった傍からポロポロと落ちていく。これじゃあザルじゃねえか。
一番厄介なのは、高校生になったからじゃああとどれぐらい人生が続くかどうか、それが皆目見当もつかないということだ。残された時間が分かれば、それを逆算して生き方も考えられるというのに。
……どうすりゃあいいんだ。
と、豚の丸焼き時にいつも考えていることをぐるぐる考えていると、突然、カシャという音と共に眩しい光りに晒され、俺は思わず目を閉じた。
これは、カメラのフラッシュか。
「あ、しまった。間違えてフラッシュ焚いちゃったよ」
と一眼レフカメラを構えた一人の女子は言った。知らない女子だった。
まあ入学してまだ一ヶ月しか経ってないから、知らないヤツだらけなんだけど。
豚の丸焼き態勢だからその女子は逆さまの姿で俺の目に映る。
「……つうかフラッシュ以前に、勝手に人の写真を撮ること自体間違ってんだろ」
俺は言った。
「いいじゃん別に。減るもんじゃないし。あたし、前からあんたを撮ってみたかったんだよ」
その女子は悪びれず堂々と言ってのけた。
「俺を?」
「ほら、よく放課後に豚の丸焼きしてるからさ。変わってるなーと思って」
「…………」
奇異の目で見られることには慣れているけど、こう面と向かって言われるのは初めてだ。はっきり言われてしまうと、結構傷つく。
「あんた暇そうだよね」
「そう見えるが実はそうじゃねえんだ。壮大なテーマについていつも思考してんだぜ。俺ほど忙しい男はいない」
「いやいや、あんたほど暇な男はいない」
俺は豚の丸焼き態勢を解いて、地上に着地した。改めてその失敬な女子の姿を確認する。
……不覚にも可愛いと思ってしまった。
ポニーテールにした髪型と腕組をしたその姿勢が、勝気な雰囲気を漂わせている。首からは一眼レフを提げて、俺のほうを大きな瞳で捉える。
「…………」
あれ、何を言おうとしたんだっけ、俺。
ああそうだ。「喧嘩売ってんのかよ」だった。でもそんなこと女子に向かって言うのもあれだし、第一俺の性格に合わない。俺は活動的だけど攻撃的じゃねえ。面倒事はごめんだ。断じて可愛いから許してやろうなどと思ったのではない。
「あんた、冗談抜きで一年生の中でも飛びぬけて暇な男子でしょ。未だ帰宅部の徳田ツヅクくん」
その女子は言った。
つうか、どうして俺の名前知ってんだ?
「どうして俺の名前知ってんだ? と思ったでしょ。そんなことはもう調査済みよ。なんてったってあたしは徳田くんを狙ってたんだから」
「ね、狙ってた?」
心臓がにわかに鼓動を速くする。この世に生を受けて十六年、ついに俺にも――。
「あたしさ、あんたみたいなのを探してたの。もう入学して一ヶ月経つわけで、皆自分の居場所決めちゃってんだよね。あー困った困った」
「自分の、居場所?」
何言ってんだコイツは。告白じゃねえのか?
……なんだか面倒臭くなってきたぞ。
俺は本能的に不穏な気配を察知した。今すぐにここから撤退せねば。
「さて、と。帰るか」
俺は校門に向けて歩き出す。
「さて、と、これに名前書こうか」
女子は俺の前に立ちはだかり、A4サイズの用紙を差し出す。
「なんだこれ……入部届け?」
「ようこそ、写真部へ」
その女子は初めて笑顔を見せた。
ニコリ、と。
カメラを大事そうに抱え、首をちょこんと傾げた。
ポニーテールがふわりと揺れる。
夕日が彼女の顔を適度に照らし、色々な意味で眩しい。
俺に向けられたその微笑は、どんな趣味趣向性癖の男でも瞬時に悩殺し、篭絡し、麻薬めいた感覚すら覚える最強にして最愛、最愛にして最悪の威力を誇った。
一言で言うと、ムチャクチャ可愛かった。
……反則だぜ、その表情。
俺は三秒の熟考を経て、呆気なく入部届けにサインした。
その女子――荒井歩は、俺のサインを確認すると、ニヤリと不敵に笑った。目の奥が不吉に、いや邪悪に光った。
……俺、はめられたんじゃないのか?