王妃付きの下級侍女は、王太子妃になると豪語していた上級侍女の亡骸を清める
「私、テオドール殿下と婚約するのよ」
国王陛下の側妃ヘルミーネ様の侍女のマリエッタ様がそんなことを後宮で触れ回っていた。
王妃付きの侍女で、普段あまり接点のない私の耳にも、その自慢げな声が聞こえてきた。
王太子テオドール殿下が婚約者を選定中だというのは宮中でも噂になっていて、侍女たちの会話の中にもよく上る話題ではあった。
上級侍女の中には貴族令嬢も少なくなく、王太子妃を夢見る者もやはり少なくない。
次女とはいえ、伯爵令嬢であるマリエッタ様にも、テオドール殿下の婚約者候補となる可能性は、皆無ではないだろう。けれど、有力な公爵家や侯爵家を差し置いて、マリエッタ様が王太子妃になるというのはあまり現実的でないように思えた。
「ちょっと、ミーナ! こののろま! いつまでやっているのよ」
マリエッタ様の怒鳴り声だった。
先ほどまで機嫌が良さそうだったのに、妙な方だと思った。それとも、王太子妃気取りで下級侍女をいじめるのが楽しい嗜虐趣味だろうか。
私は王妃宮と、側妃宮をつなぐ裏廊下で足を止め、後ろを振り返った。
つい先ほど私がお茶を淹れた給湯室の前で、マリエッタ様が、私と同じ下級侍女のミーナさんを叱りつけているところだった。
「申し訳ありません……」
ミーナさんはマリエッタ様に頭を下げた。
「謝って済まそうとするんじゃないよ!」
そう言って、マリエッタ様はミーナさんが手に持っていたお茶の盆を、勢いよくひっくり返した。
そんなことをしたら余計時間がかかるのに……。
「熱っ……」
盆に乗っていた銀製のティーポットの熱い紅茶が、ミーナさんの手にかかったようだった。
「何で落とすのよ! また淹れ直さないといけないじゃない。それに、ティーポットに傷がついたら、あなた弁償できるの?」
それはあんまりだ……。私は二人のところに駆け寄った。
「今のは……マリエッタ様の手が当たったからです」
「は? 何なの、あんた? 下級侍女の平民は頭だけでなくて目も悪いのかしら」
私にも侮蔑の言葉を浴びせると、マリエッタ様は私の手の盆を見た。
「あら、あなた、わざわざお茶を持ってきてくれたのね。気が効くじゃない。では、遠慮なくいただいていくわね」
そう言って、マリエッタ様は私の盆の上のティーポットを奪って去っていった。
「大丈夫ですか、ミーナさん? やけどしてしまっているのではないですか? お水で冷やさないと……」
「ノエラさん……。ごめんなさい……。あなたまで巻き込んでしまって……」
ミーナさんの目には涙が浮かんでいた。
悔しさと、私への申し訳なさもあるのだろう。
「そんなこといいから、手を見せて」
ミーナさんの右手の甲を見ると、親指の付け根のあたりから手首にかけて赤くなって、水疱ができていた。ひどいやけどだ。
私は急いでミーナさんを給湯室に連れて、流水でやけどをした手を冷やした。
「もういや……」
ミーナさんがこぼした。
ミーナさんはまだ後宮に入って一年も経っていないだろう。給金のためとがんばっていたが、上級侍女たちのいじめに、もう限界を迎えているのかもしれない。
「私、もうこの後宮を出て行くわ」
私はそれを止める気にはならなかった。
「そう……。でも帰るところはあるの?」
「辺境の実家に帰るわ。貧しい家だけれど」
「帰るところがあるのね。いいじゃない。じゃあ、帰ったら手紙をちょうだいね」
私は努めて笑顔を作った。
その後、王妃陛下に出すお茶が遅れた私は私で、王妃付きの上級侍女に怒られたのだけれど、ミーナさんのことを責める気にはなれなかった。
マリエッタ様は確かにお美しい。けれど、ミーナさんも同じ金の髪で可愛らしく、何より同じ人間だ。それなのに、生まれた家が違うだけで、ミーナさんばかりがつらい目に遭わされるのは、あまりに理不尽に思えた。
けれど、この後宮で、いや、王宮内で、平民の下女であることは、人として扱われないことを意味した。
ここにしがみつくしかないのは、孤児の私のように他に行くあてもない者だけで、行くあてがある者は出て行くのが普通だ。
マリエッタ様の遺体の清めをするように言われたとき、最初に思い浮かんだのは、そのミーナさんとのことだった。
※
王妃付きの侍女の中には、もちろん最も上位の侍女もいるのだけれど、最も下位の侍女もいる。なぜなら、王妃付きの侍女は、後宮で最も大事な仕事も、最も穢れた仕事もしなければならないから。
私、ノエラ・フェルマンは、その最も下位の下級侍女だ。
後宮で最も穢れた仕事のひとつが、後宮で発生した死体の処理だと言われている。
けれど、私はそれが汚い仕事などとは思っていない。同じ場所に生きて、ここで亡くなった方に最後に向かい合い、あの世へと送り出す、大事な役目だと思っていた。
ただ、マリエッタ様のような上級侍女の方には複雑な感情があることも否定できない。私のような下級侍女はさんざんいじめられてきて、死んで当然だとは思わないまでも、同じ下級侍女が亡くなるよりは、その悲しみが薄くはなる。とはいえ、ミーナさんほど接点がなかった私には、そこまでの恨みはない。
マリエッタ様に一番つらい目に遭わされたミーナさんがまだ宮中にいたら、どう思っただろうとも想像してしまう。そのミーナさんは、すでに辺境に帰郷してしまったと聞いている。
いくら相手が意地悪な上級侍女であろうと、私は死者に敬意を示し、仕事に手を抜くことはない。
後宮の奥の遺体安置所で、私は亡骸に対峙する。
そして、清潔な布でその亡骸を清めていく。
マリエッタ様は側妃宮の二階の回廊から転落し、運悪く庭園に敷かれた石畳に顔を打ちつけて亡くなったらしい。お美しかったその顔は見る影もない。
本当にテオドール殿下が婚約するつもりであったなら、きっと悲嘆に暮れることだろう。
私が亡骸の右腕を布で拭っているときだった。
右手の甲のあたりに違和感を覚えた。
黒ずんで爛れたような痕があった。落ちたときに手も何かにぶつかったのだろうかと思った。
いや、そう思い込みたかった。
私はその手の痕を知っている。
親指の付け根のあたりから手首のあたりにあったのはやけどの痕だった。何かにぶつけてできた傷なんかではない。
もう一度、改めて亡骸の顔を見た。
石畳に打ちつけられ、ひどく損傷してしまった顔からは、もはや元の顔立ちを判別するのは難しい。
けれど、その右手のやけどの痕ははっきりとわかる。
これはマリエッタ様の亡骸なんかではない。
この亡骸は、ミーナさんだ。
※
私はその亡骸がミーナさんだと認識しながら、体を拭い続けた。やけどの痕が痛々しい右手に触れることがためらわれたが、最後にはきちんと拭った。
私はそこでまた、別の違和感に気づいた。
その右手の爪の先に何かが挟まっていた。
青と赤が混じった塗料だろうか……?
私は嫌な想像をしてしまう。
例えば、その塗料が、後宮内のどこかの部屋の扉のものだったとしたら……?
ミーナさんは後宮を辞めるとヘルミーネ様や侍女長に伝えてから、何らかの理由で監禁されて、そこから脱出しようと扉を引っ掻いていた……。
そして脱出には成功したものの、運悪く二階から転落し、このような運命を辿ってしまったのだろうか?
「ノエラ、亡骸の様子はどうだ?」
急に誰かが後ろから声をかけてきて驚いた。
私が振り返ると、ひとりの黒ずくめの男が立ってこちらを見ていた。まるで、死者を迎えにやってきた、死神のように見えた。
私はその「死神」が誰か知っていた。
王宮内に死者が出ると、必ずその場に現れると言われる、王弟ヴォルフラム殿下だった。妖しい美しさとその黒ずくめの姿から、文字通り「死神王弟」と呼ばれ、皆から敬遠されている変人だ。
人々は、ヴォルフラム殿下がただの死体好きだと考えているが、実際は違う。殿下は死者に敬意を払っている。そして、もしそれが王宮の問題によって引き起こされたものであれば、その悲劇を繰り返さないよう調査しているのだ。
死体の清めをする私とは、何度も顔を合わせているので、すっかり知った仲でもある。身分差がありながらも、私が王宮内で普通に話ができる唯一の男性でもある。
「ヴォルフラム殿下……。この遺体……」
そこまで言って、私は言葉を詰まらせた。
目から涙が溢れ、嗚咽が漏れた。ミーナさんの悔しさと悲しみが伝わってきた気がしたのだ。
「どうした? ……話すのは落ち着いてからでもいい……」
いつもは冷静なヴォルフラム殿下だったが、私の様子に少し狼狽えているようだった。
私は深呼吸し、息を整える。
「おまえは、マリエッタ嬢と仲がよかったのか? 確かマリエッタ嬢は側妃ヘルミーネ様の侍女だったと思うが、王妃付きのおまえとも交流があったのか?」
ヴォルフラム殿下が尋ねてきたので、私は首を横に振った。
「違うのです……。この亡骸はマリエッタ様ではないのです」
「何だと!?」
「顔が傷んでわかりにくくなっているのですが、この方はヘルミーネ様の別の侍女の、ミーナさんなのです。私、少し前に、ミーナさんが手にやけどを負ったところに居合わせて……そのやけどの痕が、この亡骸の手に……」
「……見間違いなどではないのだな?」
「はい。間違いありません」
ヴォルフラム殿下はあごに手をやり、考え込んだ。
「しかし、なぜミーナ嬢の亡骸がマリエッタ嬢のものだということになっているのだ……? マリエッタ嬢はどこに行った?」
「それはわかりませんが……ミーナさんはどこかに監禁されていたのかもしれません。手の爪に青と赤の塗料が挟まっていて……宮中のどこかの部屋の扉のものだと思うのですが……」
「見覚えはないのか?」
「青の扉は側妃宮にたくさんありますが……赤も混じっている扉は心あたりがないのです……」
「隠し部屋などでもあるのか?」
「下級侍女の私がそんなものは知りません」
「そうだな。それは私が国王陛下に伺っておこう。ところで、そのミーナ嬢やマリエッタ嬢に最近変わったことはあったか?」
「ミーナさんはマリエッタ様にいじめられていて、手のやけども、マリエッタ様が熱い紅茶をかけてできたのです。それでミーナさんは後宮を去ることを決めていました」
「ふむ。では、辞めることが気に食わなくて、マリエッタ嬢がミーナ嬢を監禁した可能性はあるだろうか?」
「なくはないと思いますが……。そうだとして、なぜマリエッタ様が殺されたことにする必要があるのでしょうか?」
「マリエッタのほうは、最近他に何かあったか?」
「マリエッタ様ですか……。ああ、そういえば『テオドール殿下と婚約する』と皆に吹聴して回っていましたね。誰も信じてはいませんでしたが」
「マリエッタ嬢は伯爵令嬢だったな? なくはないだろうが、テオドールから『マリエッタ』の名前を聞いたことはないな。どこぞの侯爵令嬢が気になっているという話は聞いたことはあるが……」
「そうなのですか? では何を根拠にマリエッタ様は……? とても自信をお持ちだったようですが」
ヴォルフラム殿下が、少し顔をしかめた。
「ふむ……。何か引っかかるな。今回の事件と関わりがある可能性がある。そのあたりは私が調べておこう」
「ヴォルフラム殿下は、国王陛下からヘルミーネ様のことについて何か聞いていないのですか?」
私の問いに、殿下は少し気まずそうにした。
「実は……ヘルミーネ様はあまり国王陛下の覚えが良くなくてな……。その、子どもを産まんので……」
「そんなの……仕方がないではありませんか! ……でも国王陛下は、ヘルミーネ様の側妃宮には頻繁に訪れているとミーナさんから聞いたことがあります。覚えの悪い側妃の方のところになぜ……。国王陛下はお子を産まなくても、ヘルミーネ様のことを愛していらしたのではないのですか?」
「そのことも含めて私のほうで確認しておく」
ヴォルフラム殿下はなおも気まずそうに言った。
「あっ!」
私は大事なことに気づいて声を上げてしまった。
「どうした?」
「まもなく、マリエッタ様の伯爵家の方が亡骸を引き取りに来てしまいます。どうしましょう」
「私が伯爵家の者に出直してもらうよう話をつけておこう。心配するな」
そう言って、ヴォルフラム殿下は遺体安置所を出て行こうとした。
「殿下、あの……爪の塗料も証拠として保全できますか?」
「ああ、それも任せておけ」
※
翌朝、私が朝の掃除を終えようとしていた頃に、ヴォルフラム殿下が後宮にやってきた。
「ヴォルフラム殿下、おはようございます」
「おはよう、ノエラ」
ヴォルフラム殿下の表情は、昨日に比べて少しすっきりしている気がした。
「ここにいらしたということは、何かわかったのですか?」
私は殿下に尋ねた。
「ああ、いくつか手がかりになりそうなことがわかった。だが、まずは青と赤の塗料が使われている扉の部屋を探したい。国王陛下から調査の許可はいただいた」
「でも……そんな扉は見たことはないですよ」
「それについてもわかったことがある。ヘルミーネ様の側妃宮に案内してくれ」
私はヴォルフラム殿下をお連れして、側妃宮を案内した。
侍女たちが訝しげに殿下と私を見て、ひそひそと話をしていた。
「後宮に陛下以外の男性が入るなんて……」
「なぜ王弟殿下が遺体安置所以外に……」
そんな声が聞こえると、私も非難されている気がしてくる。
当のヴォルフラム殿下はまったく意に介さず、堂々と後宮の中を歩いて行く。
側妃宮には、青い扉の部屋はそこら中にあるけれど、赤が混じっている扉はやはりない。
それでも構わず、殿下は進んでいく。
その目は扉を一つずつしっかり見ていた。
そこは、ミーナさんと最後に会った裏回廊の、側妃宮側の通路だった。
ふと、かすかに人の声が聞こえた気がした。
何かを訴えるような女の人の声……。
「助けて」と言っていたような……。
怖くなって、ヴォルフラム殿下の腕に思わずしがみついた。
「どうした、ノエラ?」
「あ、申し訳ございません……」
私は慌てて、殿下の腕から手を離した。
「いや、腕を組むこと自体は構わんぞ」
「何を言っているのですか。下級侍女が王弟殿下の腕を掴むなんて、打首ものです……。そんなことより、声が聞こえませんでしたか? 『助けて』って……。ミーナさんの亡霊かもしれません……」
「亡霊……? 散々亡骸を見てきて、まだそんなものが怖いのか?」
「死んだ方は怖くないですけれど、亡霊は怖いんです! ぜんぜん別なんです!」
「では私の腕を掴んでおれば良いではないか……。で、どこからその声がしたのだ?」
私は前のほうを指で示した。
「あっちのほうです。……えっ?」
私の指の先に、ひとりの女性が立っていた。
こちらを恨めしそうにじっと見ている。
私はまた思わずヴォルフラム殿下の腕にしがみついた。
「何だ、ノエラ。おまえは生きている人間も苦手なのか?」
「えっ……?」
恐る恐る女性のほうを見る。
それは知っている顔だった。
ヘルミーネ様の侍女長のテレーゼ様だ。
私はまた慌ててヴォルフラム殿下の腕から手を離した。
「ヴォルフラム殿下、こんなところにどういったご用ですか?」
テレーゼ様は歩いてこちらに向かってきながら、口を開いた。
「国王陛下からの許可を得て、調査に来た。マリエッタ嬢の死について、不審な点があったのでな」
「あれは事故です。何の不審な点があるというのですか?」
テレーゼ様は表情も変えずに言った。
「マリエッタの部屋がご覧になりたいのであれば、ご案内します」
「いや、けっこう。私には私のやり方があるのでね」
ヴォルフラム殿下はそう言って、テレーゼ様のほうに向かって、前に進んだ。私もその後ろに隠れながらついていく。
「そちらには何もございませんよ、ヴォルフラム殿下」
テレーゼ様が制止しようとするが、殿下は足を止めなかった。
「何もないかどうかは私たちが確認する」
私「たち」って、私まで巻き込まないでほしいけれど。他の妃の侍女長とはいえ、目をつけられたら面倒だ。
私たちがテレーゼ様の横を通り過ぎていくと、テレーゼ様は私たちをじっと目で追っていた。
無表情なその顔は、感情を失った亡霊を思わせて、私はやっぱり怖くて、無意識にヴォルフラム殿下の腕を掴んでしまっていた。
「あれ……?」
少しだけ進んだ先で、私は違和感を覚えた。
先ほどテレーゼ様がいたあたりに、青い塗料の屑のようなものが落ちていた。
ミーナさんや私のような侍女がきちんと掃除をしていれば、こんな屑は残さない。
青い扉の前だった。
「他の部屋の扉より色がきれいです……。まるで、最近塗り直したみたい」
「よくわかったな。おまえを連れていてよかった」
そう言うと、ヴォルフラム殿下が黒い外套の中に手を入れ、腰のあたりから短剣を抜いた。
さながら人の命を狙う死神のようで、何を始めるのかと緊張しながら見ていると、扉の表面の一部を短剣で削り始めた。
そうして青の塗料を削っていくと、削られた部分に赤い色が覗いた。
「赤い塗料……?」
「この扉はもともと赤い扉だったのだ。側妃宮の前の主人の趣味で、青に塗り替えられた」
「じゃあ、この部屋にミーナさんは閉じ込められて……。扉に傷がついてそれを隠そうとしていたの? でもそれなら、内側だけ塗り直せばいいのでは……?」
「いずれにせよ、この部屋に何かあるのは間違いないだろう」
ヴォルフラム殿下が後ろでこちらを見ていたテレーゼ様に顔を向けた。
「開けるのだ」
「……できません」
テレーゼ様はなおも無表情に答えた。
「この部屋はヘルミーネ様のご命令で、何人たりとも入室は許されません」
「私は国王陛下の許可を得てきているのだ。扉を壊すようなことはしたくない」
ヴォルフラム殿下の言葉に、テレーゼ様は小さくため息をついた。
そして、腰に下げた鍵束の中から一本の鍵を外し、殿下に差し出した。
※
扉の向こうの部屋では、ひとりの女性がベッドに横たわっていた。
それはマリエッタ様に間違いなかった。
ひどく疲れていて、お顔が腫れてしまっているようにも見えるけれど。
それよりも私は扉が気になって、その内側を見た。
「やっぱり、内側は塗り替えられていないです……。でも引っ掻いたような傷はある……。あ、マリエッタ様が逃げようとしていたのか……」
振り返って見ると、マリエッタ様が体を起こし、私たちのほうに顔を向けて目を見開いていた。
「ああ、ヴォルフラム殿下……助けに来てくださったのですね……。王太子殿下が……テオドール殿下が救助をお願いしてくださったのですね?」
「何の話だ? おまえは誰だ?」
ヴォルフラム殿下が冷たく言い放った。
マリエッタ様だとわかっているはずだと思うのだけれど……。
マリエッタ様は不思議そうな顔をして、今度は私に視線を向けた。
「あ、あんた。王妃陛下のところの下級侍女ね。あんたがテオドール殿下に言って助けを呼んだの? やるじゃない。私が王太子妃になったら……」
「違います……。私が助けたかったのはミーナさんです……」
私は無性に悔しくなって言った。
「ミーナ? 私が少し厳しく躾けたら辺境に帰ると言い出した、ミーナ? 何なの、あなた? 王太子妃になったら、あなたのことも躾けてやるわ」
「王太子妃というのは何の話だ?」
「あら、ヴォルフラム殿下はまだ伺ってないのですね。私は、テオドール殿下と婚約する予定のマリエッタ・ハルデンブルクです」
「残念だが、テオドールはハルデンブルク伯爵家の令嬢を婚約者とする予定はない」
「ですから、ヴォルフラム殿下はまだ聞いていないだけですよ」
「いや、テオドールはどこぞの侯爵令嬢との婚約を考えているはずだ」
マリエッタ様は表情も変えず、お腹に手を当てた。
「私がこの子を産めば、テオドール殿下と私が結ばれるのです。ヘルミーネ様がそうお約束してくださいましたから」
……マリエッタ様は何を言っているの? 婚約すらしていないというのに、テオドール殿下の子を身ごもっているの?
「でもここにいるのはもう嫌。ヘルミーネ様ったら、こんなところに無理やり閉じ込めて……私にいじわるばかりするのですもの。ちょっとパンの屑を落としただけで、『侍女のくせに』って頬をぶたれるのよ。きっとすごく私に嫉妬しているのだわ」
「嫉妬……」
私はヴォルフラム殿下のほうを見た。
殿下の眼差しには、哀れみが浮かんでいた。
「ひょっとして……国王陛下は……」
殿下が頷いた。
「マリエッタ様……ひょっとしたら、その子どもを産んだら、ヘルミーネ様に殺されてしまうのでは……。だって、マリエッタ様はもう亡くなっているのですもの……」
「あなた、何を言っているの? 本当に下級侍女って頭が悪いから、話にならないのよね。あっ!」
マリエッタ様が何かに気付いたのか、その視線が私たちの背後に向けられた。
「ヴォルフラム殿下、こんなところで何をされているのですか? この部屋の入室はお断りしておりますが」
豪奢なドレスを身にまとった女性……ヘルミーネ様だった。
テレーゼ様が呼んできたに違いない。
「国王陛下の許可は取っている。それよりも、この娘……マリエッタをここに監禁して、何をさせるつもりなのだ?」
「はて? マリエッタ? マリエッタという名の侍女は亡くなったはずですが?」
私はその言葉を聞いて背筋が凍る思いがした。
やはり、ヘルミーネ様は、マリエッタ様を生かしたままにするつもりはないのだ。けれど、「まだ」生かしておかなければならない理由がある。
「ヘルミーネ様まで何を仰っているのですか? 私ならここで生きているではないですか……」
マリエッタ様の声は震えていた。怯えているのだ。
「この娘はどうもおかしくてね。知り合いの娘なのですけれど、ここで侍女として教育するように頼まれたのです。でもなかなか言うことを聞かないので、ここで徹底的に教えておりまして」
「う、嘘です。何のお話をしているのですか? ヴォルフラム殿下、どうかお助けください。私はここでヘルミーネ様にひどい扱いを受けているのです。赤ん坊は差し上げると申しているのに……」
「赤ん坊を……差し上げるだと?」
ヴォルフラム殿下が訝しげにヘルミーネを見た。
私は自分の恐ろしい想像が、当たってしまっていると確信した。
「ヴォルフラム殿下……。ひょっとして、国王陛下は、ヘルミーネ様ではなく、マリエッタ様にお会いするために、この側妃宮に通っていらしたのではないですか?」
ヴォルフラム殿下はただ小さく頷いた。
「それで、マリエッタ様は、国王陛下のお子を身ごもったのですね」
「あなた……王妃陛下の侍女の娘ね……。侍女の見習いが国王陛下の子をって……何の冗談なのかしら。国王陛下のお子を身ごもっているのは私よ」
「あなたが子どもを身ごもっていないことは宮廷医師に確認している。あなたが子どもを身ごもりにくいお体であることも」
ヴォルフラム殿下が言った。
「ヴォルフラム殿下。あなたには信じられないかもしれないけれど、それでも奇跡は起きるのよ」
「奇跡……?」
私は思わず口を挟んだ。
「国王陛下との間に子どもができないヘルミーネ様の前に、国王陛下の子どもを身ごもった侍女が、マリエッタ様がいたから、その子どもをヘルミーネ様に差し出して、ヘルミーネ様のお子とするつもりなのですね……。それを奇跡などと……」
私は相手が側妃であろうと、その恐ろしい行為を許せる気がしなかった。
「だから、何を……」
言い訳などさせない。
「ですが、マリエッタ様が子どもを産むまで隠し続けるのは無理があります。マリエッタ様の伯爵家も気づくでしょうし、何より国王陛下がマリエッタ様に会いにきてしまうでしょうから。でも、そんなとき、マリエッタ様に背格好が似ているミーナさんが、後宮を出て辺境に帰ると申し出てきて……本当にこれこそ奇跡だと思われたのでしょうか……」
「ミーナ? 誰のことかしら?」
「この王都の人たちにとって、辺境の平民など、いてもいなくても同じ存在です。万が一、ミーナさんのご家族がミーナさんを探したとしても、あなたにとっては大した問題ではないでしょう。だから……ミーナさんを、マリエッタ様として、殺したのではないですか……?」
「何なの? どういうこと? 私は死んでいることになっているの?」
マリエッタ様が驚いた声を上げた。
「マリエッタ様、あなたはもうこの世にはいないことになっています。ですから、お子を出産されたら、そのまま殺されるでしょう。そうでなければ、辻褄が合わなくなりますから」
「嘘でしょう……。ヘルミーネ様は、子どもさえできれば、国王陛下にかけあって私を王太子妃にしてくれると仰ったではないですか? ……けれど、ヘルミーネ様は私にいじわるばかりして……何かおかしいと思っていたわ……」
「あなた、何を仰っているの? 側妃が王太子の婚約者など決められるわけがないではないの。あなたは黙って私の言うことを聞いていればいいの。この側妃宮の主は私なのですから」
「お、お父様を呼んで! こんな恐ろしいところにはいられません!」
マリエッタ様が恐慌をきたし、叫んだ。
「伯爵家には、マリエッタ嬢は亡くなったと通知されている。伯爵家の助けは来ない」
ヴォルフラム殿下が事務的に伝えた。
「マリエッタ様。正直なところ、私はあなたには同情できません。あなたの代わりに、ミーナが殺されたことが許せません……」
私は開け放しのままの部屋の扉のほうに歩いた。
そして、塗り直された外側の扉を見た。
見る角度を変えて光の加減を調整すると、傷の跡がうっすらと見えた。
やっぱり……。
私は再びマリエッタ様のほうを向いた。
「この扉の内側の傷はマリエッタ様がつけたものですね? ですが、外側の傷は、おそらくミーナさんがつけたもので、この部屋を怪しまれないように、扉の外側が青で塗り直されたのではないでしょうか。なぜかミーナさんはあなたを救おうとしていたのです。あれだけあなたにつらく当たられたのに……」
「……そういえば私が閉じ込められたあの日、私が助けを求めたら、誰かが扉を開けようとしてくれていたみたいだけれど……すぐにその声も聞こえなくなって……。あれがミーナだったと言うの?」
私は今度は、ヘルミーネ様のほうを向いた。
「そうですよね? ヘルミーネ様、テレーゼ様」
※
その後、ヴォルフラム殿下がヘルミーネ様とテレーゼ様を拘束し、詳細な調査の結果、私の指摘したことがほぼ立証された。ヘルミーネ様は自分に子どもができないことで、後宮を追い出されるのではないかという恐れが日に日に募っていたようで、今回の事件を引き起こしたのだった。
ヘルミーネ様の指示を受けたテレーゼ様が、ミーナさんを回廊まで連れて行き、突き落として殺したことを自白したそうだ。
二人がこの側妃宮に戻って来ることは二度とない。
マリエッタ様は子どもを伯爵家で産むことを決めたそうだ。その子を産めば、王太子妃になれるのだとまだ主張していたが、王太子妃どころか、望むような縁談を手に入れることはもうないだろう。
それから、ミーナさんから私への手紙が届いた。
それは、後宮を発つ前に私に宛てて書いた手紙で、テレーゼ侍女長が殺害を隠蔽するために隠していたものが見つかったのだ。
親愛なるノエラ
知ってのとおり、私は後宮を去ります。
長く勤めることができなかったのは悔しいけれど、これ以上、ここにいることはできそうもありません。
あまり良い思い出はないけれど、あなただけは私に優しくしてくれたことは忘れません。私も、困った人がいれば助けたいと思うようになりました。
本当にありがとう。
辺境に帰ったら、またお手紙を書きます。
ミーナより
荷物をまとめて出て行こうとするときに、裏回廊でマリエッタ様が助けを求める声を聞いて、きっとミーナさんはそれを無視することができなかったのだろう。
けれど、助けに行ったところをヘルミーネ様とテレーゼ様に見つかり、その陰謀の犠牲になってしまったのだ。
それから、辺境からのミーナさんの手紙が届くことはなかった。
「私にはもともと帰る場所などないですけれど、帰る場所があったミーナさんも、そこには帰れなかったのですね」
私は後宮に手紙を届けてくださったヴォルフラム殿下にそんな感想を述べた。
「ここはおまえの帰るべき場所にならないのか?」
殿下がそんなことを言うので、私は吹き出してしまった。
「帰る場所は、逃げ場所なんです。安全で、安心できる場所でないと……。私みたいな後宮の下級侍女は、いつどうなってもおかしくないですから」
「おまえがここにいる限り、私がおまえを守ってやる」
ヴォルフラム殿下が真顔で言った。
ときどき、殿下は冗談なのか本気なのかわからないことを言う。
「ありがとうございます。それなら、殿下が私の帰る場所ですね」
私も少しだけ冗談めかしてそう答えた。
ミーナさんは辺境に帰ることはできなかったけれど、あの子が私に残してくれたものは、きっと大切にしていこうと思った。
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