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魔法生物飼育員は今日もかわいいに忙しい ~大学教授に紹介された最初の担当は、手のひらサイズの小竜でした~  作者: パラレル・ゲーマー


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第9話 手のひら小竜におもちゃを三つ用意したら、ただのコルク片が勝ったらしい

 水曜日の夜。時刻は午後九時を少し回ったところだ。

 水野拓海は自室の机に向かい、大学の講義で出された動物行動学の課題レポートに取り組んでいた。

 机の上には分厚い専門書やプリントの束が広げられている。部屋のメイン照明は少し落とし、手元のデスクライトだけが、ルーズリーフの上を走る黒いボールペンと拓海の手を明るく照らし出していた。

 カリカリ、とペン先が紙を擦る小さな音だけが、静かな部屋に響いている。


 ふと、背後からじっと見つめられているような、特有の視線を感じた。

 振り返らなくてもわかる。ケージの中からだ。

 拓海は顔を上げず、ペンを動かしながら、視線だけを横にスライドさせた。


 ルリは、定位置となっている手作りの高所休息棚の屋根ではなく、ケージの中央を横断する太い枝の真ん中あたりにちょこんと座っていた。

 そして、その深い瑠璃色の瞳は、拓海の右手――正確には、拓海が握っているボールペンの先を、瞬きもせずにじっと見つめている。


 拓海がレポートの文章を書き進め、ペン先を右へとシュッと走らせる。

 ルリの小さな頭が、右へピクッと動いた。


 拓海が一行を書き終え、ペン先を左端へと大きく戻す。

 ルリの頭も、滑らかに左へ追従した。


 拓海が重要な箇所にアンダーラインを引くため、ペンを一定の速度で横に動かす。

 ルリの頭が、それに合わせて横へとスライドする。


「…………」


 拓海の手が止まった。

 同時に、ルリの頭もピタリと止まる。

 静寂。


 拓海は、ルーズリーフからペンを少しだけ持ち上げ、宙に浮かせた状態にした。

 そして、手首だけを使って、ペン先をゆっくりと、すっ、と右へ移動させる。

 ルリは枝の上に四脚を揃えて座ったまま、その動きに吸い寄せられるように頭部を右へと向けた。


 今度は左へ。

 ルリの頭部も左へ。

 上へ。下へ。

 ペン先の軌道と、ルリの視線が見事にリンクしている。


「……見てる?」

「きゅ」

 ルリは短く鳴き、パチリと一つ瞬きをした。


 拓海は面白くなり、もう一度ペンを大きく振ってルリの反応を見ようとしかけて――すぐさまその動きを思い留まり、ペンを机に置いた。

「いや、これでやるのは駄目だな」


 今使っているボールペンは、硬い樹脂製の軸に、金属製のクリップ、そして内部には化学物質であるインクがたっぷりと詰まっている。

 もしルリをケージの外に出してこのペンに接触させた場合、誤ってインクの出ている先端を舐めたり、金属の鋭い角で目や口を怪我したり、あるいはプラスチックの破片を齧り取って飲み込んでしまう危険性がある。

 人間が普段何気なく使っている文房具は、小さな魔法生物のおもちゃとしてはあまりにも不適格だ。


 拓海はすぐに飼育記録用の専用バインダーを引き寄せた。

『21時06分、担当者が机上で筆記中、個体がペン先の水平・垂直方向の移動に伴って、頭部方向を複数回変更する行動を確認』

『ペンの動きを停止すると、個体の頭部運動も即座に停止』

『動く物体に対する追視の可能性あり。対象への直接的な接触行動は未確認』


 拓海はペンを止め、自分の書いた記録を見直した。

 ここで「ペンで遊びたがっている」「動くおもちゃが好きらしい」と書きたい強い衝動に駆られるが、ぐっと堪えて喉の奥に飲み込む。

 観察された事実だけを冷徹に記す。推測と事実は明確に分けて管理する。それが、榊原教授から叩き込まれた飼育者としての基本姿勢だ。


 拓海の視界の端に、机の隅に大切に置かれた黒い塊――昨日支給されたばかりの、八咫烏認可の専用撮影端末が映った。

「動画に残したいけど……そのためにもう一回、わざとペンを振ってさっきの反応を再現させるっていうのも、違うよな」


 写真や動画が欲しいからといって、必要もないのに動物の行動を誘導してはいけない。昨日のカメラ撮影の際に拓海自身が痛感し、反省したばかりの教訓だ。記録とは、自発的に起きた行動を残すものであって、人間の都合で行動を作らせるためのものではない。

 拓海はスマートフォンを取り出し、指定の暗号化通信アプリを開いた。

 宛先は榊原教授。


『夜分にすみません。質問です。先ほど、ルリが筆記中のペン先を複数回にわたって追視しているように見える行動を確認しました』

『安全な可動物を環境エンリッチメント(飼育環境の充実化)の道具として提示し、接触行動を見る実験をしても問題ないでしょうか?』


 しばらくして、榊原から返信が来た。

『いいよ。許可する』

 しかし、すぐに釘を刺すような一文が続く。

『ただし、最初から「おもちゃで遊ぶかどうか試そう」と考えすぎないこと』

『またですか』

 拓海は苦笑しながら返信した。

『またです』


 榊原からのメッセージには、動物行動学における環境エンリッチメントの基本が端的にまとめられていた。

『環境エンリッチメントの本来の目的は、飼育下の安全だが単調になりがちな環境において、個体が自発的に選べる行動や、探索対象の選択肢を増やすことにある。人間が「これはおもちゃだ」「これで遊ぶと面白いぞ」と期待して用意したからといって、動物がその通りの反応を示すとは限らない』

『触って転がすかもしれないし、完全に無視するかもしれない。あるいは、踏み台にするかもしれないし、その上で丸くなって寝るかもしれない』

『先生、最後の二つ、この一週間で嫌な記憶があるんですけど』

 拓海は、手作りの高所休息棚の『中』ではなく屋根の上を寝床にしてしまったルリの姿を思い出しながら返信した。


 榊原からの指示はさらに細かく続いた。


【提示物の厳密な安全条件】

 ・塗料や化学接着剤を使用していない、または飼育用途として安全性が確認されている素材であること。

 ・齧られても破片が容易に脱落しない、適度な硬さであること。

 ・個体が誤って丸呑みできない大きさであること。

 ・爪、角、翼膜などが引っ掛かるような小さな穴や隙間が構造上にないこと。

 ・細い紐、チェーン、輪状のものは首や四肢に絡まる事故の元になるため絶対不可。

 ・身体を傷つけるような鋭角な部分がないこと。

 ・重すぎて、下敷きになったり四肢を挟んだりするものは避ける。

 ・逆に軽すぎて、少しの力でケージ外の落下危険区域へ勢いよく飛び出すようなものも避ける。

 ・初回は必ず担当者の完全な監視下で行うこと。

 ・一度に大量のものを提示して、個体をパニックにさせないこと。


「厳しいな……でも、未知の魔法生物を相手にするなら当然か」

 拓海は提示条件をノートに書き写しながら、さらに質問を投げた。

『何種類か用意して反応を比較するなら、提示時間は何分ずつにすればいいですか?』

『そこまで厳密な選好試験(どれを好むかの実験)にしなくていいよ。まだ家庭飼育の初期段階なんだから』


 榊原の指示はこうだった。

 一つの対象につき、五分程度。その間に一度も触らなければ、「提示時間内に接触なし」という結果が残る。それも失敗ではない。提示する位置は極端に変えず、一定の条件を保つ。前の物を撤去した後、環境をリセットするために少し間隔を空けてから次の物を出すこと。

 そして。

『提示する順番によっても反応は大きく変わる。最初に出た新奇刺激に一番強く反応するなどね。だから、一日一回やっただけで「これが一番好きなおもちゃだ!」と優劣を決めつけないこと』

『じゃあ、「ルリの一番好きなおもちゃ決定戦」ではない、と』

『違います』

『ですよね』


 拓海はスマホを机に置き、明日の放鳥……いや、ケージ外探索の時間に向けた準備について、頭の中で図面を引き始めた。


 ***


 翌日。木曜日。

 大学での講義と実習を終えた拓海は、学内の工作実習室で担当教員に確認し、未塗装・未接着・未処理と分かる無垢材の端材をいくつか譲り受けて帰宅した。

 今回は、以前のようにホームセンターで大量の資材を買い込み、ケージ内の設備を作り直すような大掛かりなDIYはしない。提示物の安全条件に合うものを、手に入れた無塗装の木材と、既存の安全な飼育用品の余りから見繕って自作する。


 拓海は念入りにヤスリがけを終え、机の上に三つの『おもちゃ候補』を並べた。


【おもちゃ候補A:無塗装の木球】

 直径約三センチ。ルリの頭よりも明らかに大きく、丸呑みはできないサイズ。硬すぎず柔らかすぎない天然木で、角は一切ない完全な球体。ルリの小さな力でも、前脚で押せば力のかかった方向へ素直に転がるはずだ。


【おもちゃ候補B:短い木製ローラー】

 長さ約四センチ、直径約二・五センチの円柱状の木材。両端の角は丁寧にヤスリで丸く処理してある。球体とは違い、横から押すと一定の方向へ真っ直ぐに転がるため、動きが予測しやすく、追いかけやすいのではないかという拓海の予測によるものだ。


【おもちゃ候補C:厚めのコルク円盤】

 直径四センチ前後、厚さ一センチ程度の円盤状のコルク。立てれば少しの力でパタンと倒れるし、寝かせればマットの上を滑るように押せる。表面が柔らかく摩擦があるため、ルリが爪を引っ掛けても怪我をせず、かつ簡単には削れて崩れない硬さのものを選んだ。


 そして。

 拓海の机の隅には、もう一つ小さな塊が置かれていた。

 コルク円盤を大きめのコルク板から切り出した際、周囲に残った板材を片付ける途中で机の隅に残っていた『ただのコルク片』だ。

 いびつな長方形に近い形で、大きさは三~四センチ程度。同じ安全確認済みのコルク板から出た端材ではあるが、提示するつもりはなく、ルリ用に形を整えたりヤスリをかけたりはしていない。

 これは拓海にとっては単なる廃材だ。提示対象としてリストアップすらしておらず、片付けが終われば捨てるつもりの端材である。


「よし、準備完了」


 拓海は認可撮影端末の電源を入れた。

 今日は昨日のような失敗はしない。拓海自身がカメラを持ってルリの顔を執拗に追い回したり、「こっち向いて」と声をかけて誘導したりはしない。

 カメラは机の端、ルリが探索を行うための無地の観察用マット全体がしっかりとフレームに収まる位置に、小型の三脚でガッチリと固定する。

 動画撮影モードをオンにし、録画を開始する。


「今日こそ、まともな行動記録の動画が撮れそうだな」

 拓海は少しだけ胸を張って言った。それが後になって、自分自身に向けた壮大なフラグになるとも知らずに。


 ***


 午後五時半。

 予定していたケージ外探索の時間だ。

 拓海は窓の補助ロックをきつく締め、キッチンのパーティションを閉じ、床の危険な隙間をクッションで塞いだ。準備は万端。

 ケージのスライド窓のロックを外し、机上の観察マットへと繋がる短い固定足場をカチャリと設置する。


 ルリは、今回も拓海が掌を差し出すのを待つことなく、自力で固定足場をトテトテと歩き、机の上のマットへと降り立った。

 初めて外に出た時の帰路や、昨日の往復と同じように、固定足場を移動経路として自発的に使う行動は、これで複数回確認されている。もちろん、拓海はまだ記録に『完全に経路を覚えた』などという早計な断定は書かない。


「じゃあ、いくぞ」


【第一対象:木球】

 拓海は観察マットの中央付近に、無塗装の木球をそっと置いた。

 ルリの目の前に突きつけるようなことはしない。通常探索の歩行ルートで自然に到達可能な位置だ。

 置いた後は、拓海は一切干渉しない。音を出して誘導もしない。ただじっと見守る。


 ルリがマットの上を歩き、木球の存在に気づいた。

 頭部をそちらに向け、ゆっくりと近づいていく。

 鼻先を近づけ、すん、と匂いを嗅ぐ。

 そして。

 右の前脚を少し上げ、木球の表面を一度だけ、ちょん、と触った。


 木球が、ころっ、と数センチ転がる。


 ルリはビクッとして身体を少し引き、転がった木球をじっと見た。

(おっ、遊ぶか?)

 拓海は期待で身を乗り出しかけた。


 しかし。

 ルリはそれ以上木球には触れず、そのまま木球の横を素通りして、机の別の安全な方向へと歩き去ってしまった。

 その後、規定の五分間じっと待ったが、ルリが木球に再び接触することはなかった。


 拓海はバインダーに記録する。

『木球:提示時間五分。鼻先接近一回、前肢接触一回。接触により対象物が約四センチ移動。その後、再接触なし』

「興味が薄いようだ」とは書かない。事実は「触らなかった」という行動だけだ。


【第二対象:木製ローラー】

 拓海は木球を回収し、数分間の休憩を挟んだ。新奇の刺激を立て続けに与えすぎないためだ。ルリはその間、固定足場付近で前脚を舐めたり、鱗の表面へ鼻先を寄せたりしていた。

 環境がリセットされたと判断し、同じ位置に木製ローラーを提示する。


 ルリが近づいてきた。

 鼻先を近づけ、今度は少し強めに前脚で押す。

 ころころころ。

 ローラーは一定方向へ真っ直ぐに転がった。木球よりも動きがスムーズだ。


 ルリは、転がっていくローラーの方向へ、とて、とて、と二、三歩だけ歩みを進めた。

(追った?)

 拓海は思ったが、ルリはそこで立ち止まり、その直後に小さくあくびをした。

 五分の間にもう一度だけ、ルリがローラーのすぐ横を歩き抜けた際、胴体が偶発的にローラーに当たり、ころっ、と転がった。ルリは頭を向けたが、それ以上の積極的な接触はなかった。


 記録。

『木製ローラー:提示時間五分。自発的前肢接触一回。接触後、対象の移動方向へ歩行二~三歩。その後、偶発的身体接触一回のみ』


【第三対象:コルク円盤】

 拓海としての本命はこれだった。

 軽い。爪が滑りにくい。押せば滑るし、立てればパタンと倒せる。

「これが一番変化があって使いやすそうなんだけどな……」

 と小声で呟きながら、マットの中央にコルク円盤を平置きする。


 ルリが近づく。

 すん、と匂いを嗅ぐ。

 そして。

 右前脚を乗せ、左前脚を乗せ。

 よじっ、と後脚も乗せて。


 ルリは、コルク円盤の上に、四脚全てを乗せて完全に立ち止まった。


「…………」

 拓海は絶句した。

「いや、それ乗り物じゃないんだけど。座布団でもないし」


 またしても、人間の想定した用途が見事に裏切られた瞬間だった。

 ルリは円盤の上に十数秒間滞在した後、自分から降りた。その後、提示時間内に再接触することはなかった。


 記録。

『コルク円盤:提示時間五分。鼻先を対象へ近づける行動あり。その後、全四肢を対象上へ乗せる行動を一回確認。円盤上での継続滞在時間約十二秒。その後再接触なし』


 少なくとも、この時点で拓海が「おもちゃとして遊んだ」と断定できるような行動は一つもなかった。


 ***


 三つの対象の提示が終了した。

 木球、前肢接触一回。

 ローラー、接触一回と、わずかな追従。

 コルク円盤、乗っただけ。


「…………どれが好きなんだ? これ」

 拓海は頭を掻いた。

「いや、好きかどうかも分からん。単に自分のテリトリーに現れた未知の物体を、安全かどうか確認しただけかもしれないし」

 すぐに自分で推測を打ち消す。


 机の端のカメラを見る。

 録画の赤いランプは点灯し続けている。

 動画は確実に撮れている。今回はフレームアウトもブレもしていない、記録としてまともな映像だ。

 ただし、その内容は『小さなドラゴンが、木の塊をそれぞれ一回ずつ触っただけ』という、とてつもなく地味で退屈な環境映像である。


「地味だな……俺の二時間の準備が」


 拓海は深いため息をつき、片付けを開始した。

 ルリはまだ机上の安全範囲内をうろうろしている。探索の予定時間にはまだ数分の余裕がある。

 拓海は木球、ローラー、円盤を一つずつ回収し、保管用の箱にしまった。


 その時。

 拓海のパーカーの袖口が、机の隅に避けてあった『余ったコルク片』に軽く触れた。


 こてん。


 不格好な長方形のコルク片が、観察マットの端へと転がり落ちた。

「あ」

 拓海はすぐに手を伸ばして回収しようとした。

 しかし。


 ルリが、ピタッと動きを止め、落ちたコルク片に頭を向けたのだ。


 拓海の伸ばしかけた手が空中で止まる。

 拓海は一瞬で端材を見直した。同じ安全確認済みのコルク板で、大きさは丸呑みできない。目視できる範囲に危険な尖りや大きな欠損もない。今すぐ撤去しなければならない理由はなかった。


「……見るか?」


 もちろん、答えはない。

 ルリは、とて、とて、と不格好なコルク片へと近づいていった。

 鼻先を近づけ、すん。

 右の前脚を少し上げ。


 ちょい。


 軽く、本当に軽く、コルク片の端を叩いた。

 球やローラーとは違い、重心がいびつなコルク片は、こてっ、と不規則に倒れ込んだ。


 ルリは頭部を少し動かし、倒れたコルク片をじっと見た。

 一歩、近づく。

 そして、また。


 ちょい。


 今度は、斜めの角度で押されたコルク片が、くるん、とマットの上で半回転した。

 ルリの瑠璃色の瞳が、その不規則な動きを追う。


「…………」

 拓海は無言のまま、その場に釘付けになった。


 三回目。

 ルリの前脚が、ちょい、とコルク片を下からすくい上げるように叩く。

 コルク片がひっくり返る。

 ルリはそれを追いかけるように、二歩前進する。


 四回目。

 今度は反対側に回り込み、左の前脚で、ちょい。


「待って」

 拓海の声が漏れた。もちろん、ルリを静止させるためではない。自分の理解が追いつかないことへの戸惑いだ。

「お前、それがいいの?」

 言ってから、すぐに(いや、“いい”かは分からないけど)と心の中で打ち消す。


 ルリの反復行動が始まった。

 ちょい。こて。

 とてとて、と追いかける。

 ちょい。くるん。

 とてとて。


 ルリはコルク片を押し、不規則に転がるそれを追いかけ、向きを変え、また前脚で押す。

 時折、鼻先を寄せて匂いを嗅ぐが、決して齧ったりはしない。もし口を大きく開けたり咥え込もうとしたりすれば、拓海は即座に安全のために停止させる準備をしていたが、その必要はなかった。

 翼は背中にきっちりと畳まれたままだ。飛翔はない。行動は四脚での移動と、前脚による対象への接触だけで続いていた。


 机の端の固定カメラは、その一部始終を完璧なアングルで記録し続けている。

(撮れてる……!)

 拓海は内心でガッツポーズをしたが、カメラの確認のためにルリの行動を中断させるような無粋な真似はしない。ただ、ひたすらに肉眼で観察を続ける。


 時間にして、約二分四十秒。

 ルリは、ただのコルクの切れ端に対して、断続的に何度も何度も接触を繰り返した。

 単純な接触回数だけを比べるなら、拓海が用意した三つの『正式なおもちゃ』を大きく上回っていた。


 最後。

 ルリがコルク片を少し強めに押した。

 コルク片がくるくると転がり、ケージと机を繋ぐ固定足場のすぐ近くで止まる。

 ルリはそのままコルクを追って足場の手前まで来たが。

 ふと、コルク片をそこに置いたまま、固定足場に前脚をかけた。

 そして、自力でケージの窓をくぐり、いつもの高い定位置の屋根の上へと帰っていったのだ。


 コルク片を足場の手前に残したまま、自力で固定足場を使ってケージへ戻った。対象への接触が帰還行動を妨げる様子は、少なくとも今回は確認されなかった。


 拓海は、机の上に取り残された不格好なコルク片を見た。

 次に、箱にしまった三つの美しい正式なおもちゃを見た。

 もう一度、コルク片を見る。


「…………俺が三つ作った意味」


 木球。木製ローラー。コルク円盤。

 サイズ、材質、動きの予測、安全性。どれも拓海が二時間かけて、頭を悩ませて用意したものだ。

 しかし、最多接触回数を叩き出したのは。


「ただのコルクの切れ端が勝った……」

 拓海は机に突っ伏した。

 もちろん、科学的な実験において「勝敗」という概念はない。

「いや、勝ったとか負けたとかじゃないんだけど」

 すぐにセルフ訂正する。

 ケージの中から、ルリが「きゅ」と鳴いた。

「でも、今日だけのことなら、圧勝だろこれ……」

 飼育記録には絶対に書けないが、拓海は一人で笑うしかなかった。


 ***


 探索時間が終了し、スライド窓を確実にロックする。安全確認を終えてから、拓海はカメラの録画を停止し、動画のプレビューを再生した。


 完璧だった。

 画面の中央。観察マットの上で。

 ルリの右前脚が、ちょい。

 コルク片が、こてん。

 ルリが追いかける。


 拓海は再生ボタンを押し、もう一度見た。

 今度はスロー再生にする。


「…………」

 三回目を見る。

「……かわいいな、これ」


 ようやく、ルリが物体へ繰り返し接触し、その移動に伴って自らも移動する一連の行動を、きちんと動画として記録することができた。

 カメラを構えて追い回さず、固定していたからこそ撮れた映像だ。昨日の学習が、ここで見事に活きたのだ。


「これ、壁紙じゃなくて動画だから設定できないんだよな……」

 いや、そもそも認可端末のデータは私物のスマホに持ち出せない。壁紙以前の問題だった。


 拓海は気を取り直し、バインダーに向かった。

 今回の記録も、どこまでも真面目である。


『木球:提示時間五分。鼻先接近一回、前肢による接触一回。対象物約四センチ移動。再接触なし』

『木製ローラー:提示時間五分。前肢接触一回。対象移動後、同方向への歩行あり。偶発的身体接触一回』

『コルク円盤:提示時間五分。全四肢を対象上へ置く行動を一回確認。約十二秒滞在。その後再接触なし』

『無加工コルク片:片付け時、担当者の袖が接触し観察区画内へ落下。個体、自発的に接近。前肢による反復接触複数回。接触に伴う対象の不規則な移動後、対象方向への移動・追従を複数回確認。継続時間:約二分四十秒。咬合・摂食行動は確認されず』


 拓海はペンを握ったまま、『遊――』と書きそうになった。

 ペン先を止め、二重線で消す。

「まだ分からん。遊んでるのか、狩りの真似事なのか、ただの探索なのか」

 推測は書かない。


 ***


 拓海は認可端末から動画データを記録システムへ直接安全転送し、スマホの専用アプリから榊原へテキストを送った。


『本日の環境エンリッチメント提示記録および動画データを送信しました』


 少しして、榊原から返信が来た。

『動画見たよ』

『ずいぶん、コルク片に触ってるね』


 拓海はスマホの画面をタップした。

『俺、三つ用意したんですよ。二時間くらい考えて』

『うん』

『で、一番触ったの、ただの切れ端です』


 榊原からの返信は、極めて冷静だった。

『そういうものだよ』

『そんな達観した返し、あります?』


 榊原の解説が続く。

『なぜコルク片によく反応したのか? 現時点ではまだ分からない。候補の理由はいくらでもある。軽さ、表面の感触、不規則な動き、いびつな形、匂い。あるいは、たまたまその時のルリの活動状態が高かっただけかもしれないし、提示した順番のせいかもしれない。最後に出た新奇刺激だったから、という可能性もある』

『だから、「ルリはコルクが好きだ」と即断してはいけない。ましてや「この種の小型竜はコルクで遊ぶ」なんていう主語のデカい結論はもってのほかだ』

『明日もう一度同じことをやったら、今度は木球しか触らないかもしれないよ』

『あり得ますか?』

『普通にあり得る』


 拓海は納得した。

 今日、コルク片は最後に偶発的に出たものだ。三種類を提示した後であり、ルリの活動状態も最初とは違っていた。厳密な選好比較試験としては、条件が統一されていない。


『じゃあ、「コルク片の圧勝」って記録できないんですね』

『絶対に書かないでね。八咫烏の担当者に突っ込まれるから』

『了解しました』


 次にやるなら、正式にコルク片を安全な提示物として登録し、同じ形状のものを、同じ位置で、提示する順序を変えながら観察を続けることになる。

 しかし。

『水野君。俺たちは論文を書いているわけじゃない。家庭飼育の初期段階では、厳密な実験よりもまず「こういう行動もした」という事実を一つずつ積み上げていけばいい。十分すぎる成果だよ』


 榊原のその言葉に、拓海は救われたような気がした。


 ***


 翌朝。金曜日。

 拓海が目を覚ますと、ルリはケージの中で普段通りに過ごしていた。

 昨日のコルク片は、洗浄して欠損などの状態確認を行った後、箱の中にしまってある。ケージの中や机の上に常設したりはしない。


 拓海はケージに近づき、水皿の水を交換した。

「今日はコルク、出さないからな」

「きゅ?」

「昨日よく触ったからって、毎日出せばいいって決まったわけじゃないからな」


 ルリはコルク片を探すような行動は見せず、水皿の水をぺろりと舐め、いつもの太い枝へと戻っていった。

 拓海は机の隅にある箱をちらりと見た。

「……次、いつ出そうかな」


 結局のところ、コルク片との再会を一番楽しみにしているのは、ルリではなく拓海の方だったのかもしれない。


 三つ用意したおもちゃのうち、どれをルリが気に入ったのかは、まだ分からない。

 ただ、その日の接触回数だけを数えるなら、二時間かけて用意した三つのおもちゃ全部が、工作で余ったただのコルク片に見事に負けていた。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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