第22話 手のひら小竜が木の球を転がしてきたら、俺が遊び相手になったらしい
月曜日の夜、午後七時を少し回った頃。
大学から帰ってきて簡単な夕食と皿洗いを終えた水野拓海は、自室の学習机の前に立って、散らばっていたプリント類を片付けていた。
ふと手が止まり、自分の右肩へと視線が向く。
昨日、日曜日の夜。この机に座っていた時、ルリが自分で袖を歩いてここまで登ってきたのだ。耳のすぐ横で響いた「きゅ?」という小さな鳴き声と、パーカーの布地越しに伝わってきた約三十二グラムの微かな重み。
「……昨日は、本当に心臓止まるかと思ったな」
拓海は自分の右肩を左手で軽くぽんぽんと叩き、小さく笑った。
もちろん、今日もまた肩に乗ってほしいかと聞かれれば、全力で頷く自信がある。だが、昨日はたまたまルリがそこを通りたくなっただけかもしれない。今日も同じことを期待して、わざと腕を差し出し続けたりするような真似はしないつもりだった。
その代わり、今夜は少しだけ別のことを試してみようと考えていたのだ。
拓海は机の下の引き出しを開け、奥にしまってあった樹脂製の保管箱を取り出した。
蓋を開けると、中には以前、環境エンリッチメントの提示用として自分でヤスリをかけて作った三つの木工品が並んでいる。
無塗装の木球、円柱形の木製ローラー、そして丸く切り出したコルク円盤。
拓海はその中から、ころりとした丸い木の球をつまみ上げた。
「……懐かしいな、これ」
直径は約三センチ。ルリが間違っても丸呑みできないサイズで、かつ小さな前脚で押せば軽く転がるようにと、時間をかけて表面を滑らかに仕上げた天然木のボールだ。
しかし、初めてこれを机の上に出したあの日、ルリがこの木球に触れたのはたったの一回だけだった。ちょんと前脚で突いて、四センチほど転がしたきり、あとは見向きもせずに素通りしてしまったのである。
「お前、あの時はこれ、四センチくらいしか動かさなかったんだよな」
拓海は指先で木球をくるりと回しながら、ケージの方を振り返った。
ケージの中、高所休息棚のすぐ横に増設した浅型の宝物箱。その中には今、白い丸石とどんぐりの帽子、そしてあの時、工作の端材として机の隅に転がっていた『ただのコルク片』が大事そうに収まっている。
「……あの切れ端が今や宝物箱の一等地に入ってて、二時間かけて削ったこっちが引き出しの肥やしっていうのも、なかなかの扱いだよな」
高所休息棚の屋根の上からこちらを見ていたルリに、拓海は木球を少しだけ持ち上げて見せた。
「ほら、お前の宝物の先輩になるはずだった木球ですよ」
「きゅ?」
ルリが不思議そうに首をこてんと傾げる。当然、拓海の恨み言めいた冗談など一ミリも通じていない。
「いや、別にコルクにリベンジしたいわけじゃないんだけどさ。あれから六週間半ほど経ったし、今出したらどうするかなと思って」
あの時は初めておもちゃを三つ順番に出した日で、ルリもまだ机の上の環境に慣れきっていなかった。
生活空間として机の上がすっかり馴染んだ今なら、また違った反応が見られるかもしれないし、やっぱり一回触って終わるかもしれない。どちらにしても、久しぶりに選択肢として置いてみるにはちょうどいい頃合いだった。
***
提示する前に、まずは入念な安全点検から始める。
拓海はデスクライトの光の下で木球をくるくると回し、保管している間に乾燥でひび割れが起きていないか、爪や翼膜が引っ掛かるような微細なトゲやささくれが浮いてきていないかを指の腹で確かめた。
表面は以前と変わらずすべすべしており、変な匂いや汚れの付着もない。
「よし、状態は問題なし」
次に、机の上の環境を整える。
中央にはいつも通り、幅四十センチ、奥行き二十センチの滑りにくい観察マットを敷く。その周囲に置いてあった講義ノートやペンケース、消しゴムなどの文房具はすべて机の奥の棚へと避難させた。万が一、木球が勢いよく転がっても机の縁から落下しないよう、手前と左右にも十分な余白を確保する。
机の右脇にある十八センチ×十四センチのルリ専用席だけは、いつものまま残しておいた。
拓海は観察マットのほぼ中央に、木球をそっと置いた。
手を離すと、球は少しだけ揺れてピタリと止まる。
「今日は、これをここに置いとくからな」
最初から拓海が指で弾いて転がし、ルリの目の前で動かして気を引くようなことはしない。まずは静止した物体としてそこにある状態で、ルリが自分で近づくかどうかを見る。もし見向きもしなければ、そのまま回収して終わればいい。
机の左端に固定した認可撮影端末の角度を微調整し、観察マット全体と専用席、そしてケージの入口が綺麗に収まるのを確認してから録画を開始した。
窓のロックやキッチン側のパーティションなど、室内の安全確認をもう一度だけ目で追ってから、拓海はケージのスライド窓を開け、短い固定足場を設置した。
***
屋根の上から降りてきたルリは、固定足場をトテ、トテと歩いて机の上へと出てきた。
観察マットの端をかすめ、最初に向かった先は、中央の木球ではない。
そのままトテトテと机の右脇へ直行し、いつもの小さな専用席のマットへと四脚を乗せた。くるりと向きを変え、前脚を折りたたんで身体を低くする。
「……最初はやっぱり、まず自分の席に着くんだな」
拓海は椅子に座り、少し離れた位置からその様子を微笑ましく見守った。
ルリは専用席の上で落ち着いており、十数センチ先にある木球の方へは特に視線を向けていない。
一分が過ぎ、二分が過ぎた。
木球は観察マットの真ん中にぽつんと置かれたままだ。
拓海はボールに手を伸ばして動かしたくなる気持ちをぐっと抑え、自分の右手を机の手前側に軽く置いた状態で静かに待ち続けた。
「……今日は、あんまり動く気分じゃないかな」
このまま専用席でくつろいで終わるなら、それはそれでいつもの平和な夜だ。
そう思い始めた、三分過ぎのことだった。
ルリが不意に顔を上げ、四脚を立ててすっと立ち上がった。
背中の翼を一度だけぴくっと動かしてから、専用席のマットを降りる。
トテ、トテ。
机の上をゆっくりと歩き出したルリが、観察マットの中央――丸い木球のすぐ横で、ぴたりと足を止めた。
「……お?」
拓海は声を潜めた。
ルリは木球の方へ頭を向け、小さな鼻先をぐっと近づける。
すん、すん。
木の匂いを確かめるように鼻を動かしながら、球の周りを半周ほどトテトテと歩いた。
そして一度立ち止まると、右の前脚をすっと持ち上げ――。
ちょい。
小さな爪先が、木球の側面を軽く突いた。
ころ、ころっ。
球がマットの上を数センチ転がる。
「……触った」
拓海は小さく呟いた。
以前見せた時も、こうやって一回だけ前脚で触って転がしたのだ。ここまではあの日の再現だった。
だが、今日は一つだけ条件が違っていた。
ルリが立ち止まって突いた角度の先に、たまたま拓海が机の上に置いていた右手があったのである。
ころころころ……。
わずかな勢いをもらった木球は、無地のマットの上を真っ直ぐに転がり、そのまま拓海の右手の人差し指のすぐ手前までやってきて、勢いを失いかけた。
「おっと」
拓海は反射的に指をほんの少しだけ伸ばし、転がってきた木球を指の腹でそっと受け止めた。
こつん、と軽い木の感触が指先に伝わり、球が止まる。
観察マットの向こうでは、ルリが立ち止まったまま、拓海の指先で止まった木球をじっと見つめていた。
深い瑠璃色の瞳が、丸い球と拓海の手元を捉えている。
「…………」
拓海もまた、自分の指先にある木球と、ルリの顔を交互に見た。
以前なら、転がった球が止まれば、ルリはそのまま興味を失って別の場所へ歩いていってしまった。
だが今は、まだこちらを見ている。
そこで、拓海の頭にふと一つの考えが浮かんだ。
「……これ、もう一回そっちへ返してみたら、どうなるんだ?」
***
拓海はルリを驚かせないよう、手の甲を机につけたまま、人差し指の先だけで木球を軽く前へと押し出した。
パチンと強く弾くようなことはしない。ルリが自分の前脚で転がした時と同じくらいの、ごくゆっくりとした速度だ。
ころ、ころ、ころ……。
木球が観察マットの上を十センチほど穏やかに転がり、ルリの鼻先から数センチ手前のところで、ゆらりと揺れて止まった。
「…………」
転がっていく間、ルリの小さな頭が球の動きに合わせてわずかに動いていた。
球が完全に止まると、ルリの頭の動きも止まる。
「……どうする?」
拓海が息を潜めて見守っていると、ルリが一歩、とて、と前へ踏み出した。
止まっている木球に鼻先を寄せ、今度は左の前脚をひょいと持ち上げる。
ちょい。
小さな前脚が、木球の真ん中あたりを押した。
「……お?」
ころころころっ。
木球が再びマットの上を転がり出す。
しかもその軌道は、偶然か、それとも押した向きの関係か、またしても拓海の右手がある方向へと真っ直ぐ向かっていた。
先ほどよりも少しだけ距離が伸び、転がってきた木球が、待っていた拓海の指先に直接、こつん、と当たって止まった。
「…………」
拓海は、自分の指先に当たっている木球を見下ろした。
それから視線を上げ、マットの向こうにいるルリを見た。
ルリは逃げるでもなく、その場に四脚で立ったまま、拓海の手元にある木球へ顔を向けている。
「……今、返ってきたよな?」
もちろん、丸い球を真正面から押せば、向かい側にいる拓海の方へ転がってくる確率は高い。
「いや、たまたまだよな。前に押したらこっちに転がるもんな」
自分にそう言い聞かせながらも、拓海の胸の奥で、小さな期待がふつふつと湧き上がってきた。
拓海はもう一度、指先で木球をそっと押し返した。
ころ、ころ、ころ。
マットの中央を横切り、ルリの近くへ。
球が止まるのを待たず、ルリが一歩前へ出て、今度は右の前脚を伸ばした。
ちょい。
ころころころ。
木球が、真っ直ぐに拓海の指先へと戻ってくる。
「…………」
拓海の目が、ゆっくりと大きく見開かれた。
「…………え?」
同じ手元へまた球が戻ってきた。それだけなのに、拓海は次に木球を返したらどうなるのか、もう確かめずにはいられなかった。
ルリが伸ばす小さな前脚と、球の行方から目を離せない。
***
拓海はごくりと唾を飲み込み、指先に触れている木球をもう一度だけ、同じくらいの力加減でルリの方へと転がした。
ころころ。
ルリの瑠璃色の瞳が球を追う。
球が止まると、ルリはトテ、と半歩近づき、右前脚をそっと伸ばした。
ちょい。木球が小さく回転しながら、拓海の手元へ向かう。
拓海が指の腹で受け止める。
「…………」
拓海は思わず笑いそうになるのを堪えた。
拓海がゆっくり返す。ころころ。
今度はルリがすぐには触らない。止まった球を二秒ほど眺め、鼻先を近づけて左前脚を上げた。
ちょい。木球が少し弧を描きながら、またこちらへ向かう。
指先に、こつん。
「…………待ってくれ」
拓海は、戻ってきた木球を指先で押さえたまま、思わず動きを止めた。
「……お前、今、俺とキャッチボールしてないか?」
マットの向こうで、ルリがこてんと首を傾げる。
「きゅ?」
「いや、空中に投げてるわけじゃないし、捕ってもいないから、正確にはキャッチボールじゃないんだけどさ!」
言い訳のようなツッコミを入れながらも、拓海の頬が勝手に緩んでいくのを止められなかった。
試しに、もう一回だけ指先で木球を押し出してみる。
ころころ。
ルリが転がる球を追いかけて、とて、とてと三歩ほど前に出てから、前脚で、ちょい。
ころころ。
少し斜めに逸れかけた球を、拓海が手を数センチ横にずらして受け止める。
「…………やっぱりそうだ!」
拓海の顔に、隠しようのない満面の笑みが広がった。
「お前、これ、めちゃくちゃ楽しくないか!?」
ルリは何も答えない。ただ、自分の前から転がっていった木球と、それを受け止めた拓海の手をじっと見ているだけだ。
だが、今の拓海はもう完全に夢中になっていた。
拓海は人差し指の先で、木球を少し右寄りへ転がした。
ルリがそちらへ近づき、右前脚で、ちょい。
ころころ。少し斜めに転がった球を、拓海が手を寄せて受け止める。
「お、来た来た! ナイス返球!」
今度は反対側へ転がしてみる。
ルリは一拍置いてから木球に歩み寄り、左前脚を伸ばした。
ちょい。球は拓海の指先を外れ、マットの中央寄りで止まった。
「おっと、今度は外れた! でも左の前脚でもちゃんと動かすんだな」
同じ「球に触る」という動作なのに、ルリの動きは毎回少しずつ違っていた。
右の前脚で軽く突く時もあれば、左の前脚で押し出すように触る時もある。球が止まる前に追いすがって触ることもあれば、完全に止まってから周囲の匂いをすんと嗅ぎ、一拍置いてからちょいと動かすこともある。
決して機械的な反復ではない。その一回ごとの微妙な間の違いや、前脚を上げる小さな仕草が、たまらなく生き物らしくて可愛かった。
そして何より、拓海はあることに気づいて胸を熱くしていた。
これまで、ルリが何かのおもちゃに触れる時――あのコルク片を転がして追いかけていた時も、屋外で風に舞う枯れ葉を追っていた時も、拓海は基本的に「離れた場所から邪魔をしないように見守る観察者」だった。
それはそれで幸せな時間だったけれど、今日この瞬間は違う。
木球に添えた指先が、一瞬だけ止まった。
ルリが一人で転がしているのを眺めているだけじゃない。
自分が指先で木球を返すから、ルリがまた前脚を伸ばす。ルリが球を転がしてくれるから、自分もまた受け止めて返すことができる。
小さな木の球を一つ挟んで、ルリの行動と自分の行動が、交互にピタリと噛み合って繋がっているのだ。
(見守ってるだけじゃなくて、俺がルリの遊び相手になってる……!)
そう実感した瞬間、昨日肩に乗られた時とはまた違う、胸の奥から湧き上がるような嬉しさが拓海を満たしていった。
***
そんなふうに五回、六回と夢中で往復を繰り返していた時だった。
拓海が少し興奮してしまい、木球を押し出す指先の角度がほんのわずかだけズレた。
ころころころ……。
木球はルリの真正面ではなく、少し右斜め前の方向へと逸れて転がっていく。
「あ、ちょっとズレた。ごめん」
しかしルリは気にする様子もなく、頭をそちらへ向けると、トテ、トテと小走りに近い足取りで斜めに転がる球を追いかけた。
そして、止まりかけた木球の横から、右前脚で、ちょい。
ころころっ。
横から突かれた木球は、当然ながら拓海の方へは戻ってこず、そのまま机の右奥――専用席のマットがある方角へと真っ直ぐ転がっていってしまった。
「…………」
拓海は、自分の手元ではない場所へ転がっていった木球を見た。
それから、その球の行方を追ってトテトテと横へ歩いていくルリを見た。
「……あれ?」
ルリは右奥で止まった木球に追いつくと、そこからさらに前脚で、ちょい、と突いた。
ころころ。
球は拓海からさらに遠ざかる方向へ数センチ転がり、観察マットの端で止まる。
「…………」
「……うん。まあ、そりゃそうだよな」
受け止める準備をして開いていた自分の右手を見下ろし、拓海は思わず苦笑いを漏らした。
「『必ず俺の手元へ打ち返すこと』なんてルール、お前に一言も教えてないもんな」
拓海は、受け止めるつもりで開いていた右手をそっと机に下ろした。
木球を追って歩くルリの動きは、さっきまでの往復と同じくらい生き生きして見える。拓海の方が、いつの間にか「自分の手元へ返ってくるはず」という期待を勝手に持っていただけだった。
だが、そうやって冷静に考えてみても、拓海の中には不思議と落胆はなかった。
(……別に、決まったルールなんてなくてもいいか)
人間が決めたルール通りに球を返してくれなくても、何も問題はない。
あっちへ転がっていったら、ルリがまた触りやすい場所へ自分がそっと戻してやればいいだけの話だ。
「よし。じゃあ、こっちからパス出すぞー」
ルリが木球から一歩離れて立ち止まったのを確認してから、拓海は少し手を伸ばし、観察マットの端にあった木球を指先で軽く引き寄せ、再びルリの少し手前へとゆっくり転がした。
***
ころころと戻ってきた木球を見て、ルリが再び足を止めた。
二、三度往復したあと、今度は木球が観察マットのちょうど真ん中あたりで静止する。
拓海はすぐに手を伸ばして球を回収しようとしかけて、ふと動きを止めた。
「……ちょっと、このまま待ってみるか」
これまでは、ルリが突いた球が拓海の手元まで来るか、拓海がすぐに手を伸ばして転がし返すことでやり取りが続いていた。
もし、真ん中で止まった球に拓海が触れずにいたら、ルリはどうするだろう。そのまま興味を失うのか、それとも自分からまた働きかけるのか。
拓海は右手を机の手前に置いたまま、静かに観察に入った。
一秒。二秒。三秒。
ルリは少し離れた場所から、マットの中央にある木球をじっと見つめている。
五秒が過ぎても動かない。
(やっぱり、動いてる時しか触らないかな……)
そう思った瞬間だった。
ルリが、とて、とてと静かに歩き出した。
真っ直ぐ木球へ向かうのかと思いきや、ルリは球のすぐ左脇をそのまま通り過ぎる。
「……ん? 素通りか?」
いや、違った。
ルリは木球を通り越して、その向こう側――拓海から見て、ちょうど木球の真後ろにあたる位置までぐるりと回り込んだのだ。
そこでくるりと身体の向きを変え、木球の背後に立つ。
結果として、ルリ、木球、そして拓海の右手が、一直線上に並ぶ形になった。
ルリが鼻先を木球へ近づけ、すん、と匂いを嗅ぐ。
そして、右の前脚をゆっくりと持ち上げると――。
ちょい。
今までよりも少しだけしっかりとした動きで、木球の後ろ側を真っ直ぐ前に押し出した。
ころ、ころ、ころ……。
木球がマットの上を転がり始める。
五センチ。十センチ。
迷いのない直線を描いて転がってきた木の球は、最後の数センチをゆっくりと進み、机の上で開かれていた拓海の右手の指先に、こつん、と優しく当たって止まった。
「…………」
拓海は、自分の指先に触れている木球を見つめた。
それから顔を上げ、マットの向こうから真っ直ぐこちらを見ているルリの、大きな瑠璃色の瞳を見た。
「…………来た」
一拍遅れて、喉の奥から震えるような声が漏れた。
「……お前、今、わざわざ後ろに回り込んで、俺のところに転がしてきたよな?」
ルリは前脚を下ろし、ただ静かに拓海の手元を見つめている。
「きゅ?」
その一声で、拓海の理性の堤防はあっけなく決壊した。
顔中の筋肉がだらしなく緩み、どうしようもないほどの笑顔になってしまう。
「……よし! 分かった、じゃあ次は俺の番だな!」
拓海は指先で、宝物でも扱うみたいにそっと木球を押し返した。
ころころ。
球がルリの前まで転がる。
ルリが一歩踏み出し、迷わず左前脚を出して、ちょい。
ころころ。
またしても真っ直ぐ、拓海の掌の中へと球が転がり込んでくる。
「…………っ!」
拓海は転がり込んできた木球を両手で包み込みそうになるのを必死で堪え、指先で受け止めた。
「……うわあ。すごいぞこれ。本当に、俺に返してくれてるみたいじゃないか……!」
拓海はすぐに次の球を返せなかった。木球を受け止めた指先に、さっきの小さな衝撃がまだ残っている気がする。
球の向こうでこちらを見ているルリから、どうしても目を離せなかった。
目の前で起きたことは、それだけで十分だった。
ルリが球の後ろに回り込んで転がし、それを拓海が受け止め、拓海が返した球をルリがまた転がす。
先日、宝物の白い石を掌の真ん中にぽつんと置いていかれた時も、胸がいっぱいになるほど嬉しかった。けれど、あの時はルリが一方的に運んできて、そのまま去っていった出来事だった。
今は違う。自分とルリの間で、行ったり来たりのやり取りが何度も続いているのだ。
「……これ、毎日やりたくなるな」
拓海はもう一度球を転がし返しながら、弾んだ声で呟いた。
「まあ、お前が気が向いて付き合ってくれればの話だけどな!」
***
それからさらに三回ほど、ころころ、ちょい、ころころ、と幸せな往復が続いた。
やがて、ルリが右前脚で突いた木球が、少し緩やかな速度で拓海の手元へと転がってくる。
こつん。
拓海はそれを人差し指と中指でしっかりと受け止めた。
「よし、ナイスボール。じゃあ、もう一回いくぞ――」
拓海がすっかりノリノリで、指先の角度を定め、次の返球を押し出そうとした、まさにその時だった。
観察マットの向こうにいたルリが、ふいにくるりと身体の向きを変えたのだ。
「……ん?」
拓海の指が止まる。
ルリは木球の方を振り返りもせず、とて、とて、といつものマイペースな足取りで観察マットの中央から歩いて離れていく。
そのまま机の右脇へと向かい、十八センチ×十四センチの専用席のマットに四脚を乗せた。
くるりと半回転して定位置に収まると、四脚を折りたたんで、ぺたんと身体を低く沈める。背中の翼をきっちりと寄せ、短い尻尾を丸めて、完全に「休憩モード」の姿勢に入ってしまった。
「…………」
拓海は、机の上で木球に指を添えたままのポーズで、ぽつんと取り残された。
一秒。二秒。
「……あれ?」
専用席の上のルリを見る。
ルリは顎を低くして落ち着いており、観察マットの方へ戻ってくる気配は微塵もない。
「……もしかして、もう終わり?」
「きゅ」
「…………」
短い返事のような鳴き声は返ってきたが、身体はピクリとも動かない。
拓海は自分の指先にある木球を見た。それから、右脇で丸くなっているルリを見た。そしてもう一度、木球を見る。
「…………いや、俺、まだ全然遊びたいんだけど」
思わず本音が漏れたが、もちろんルリには何の関係もない話だ。
あれだけ綺麗に球を返し合っていたのに、切り上げる時のなんとあっさりしていることか。余韻も何もあったものではない。
拓海は力なく肩を落とし、それからふっと吹き出した。
「……散々付き合わせといて、お前の方が先に飽きるのかよ」
もちろん「飽きた」というのは拓海の勝手な表現で、単に適度な運動を終えて休息に移っただけなのだろう。
ルリが自分から離れて休む場所へ行った以上、ここで木球を専用席の近くまで転がして「ほら、もっと遊ぼうぜ」と誘うような無粋な真似はしない。それをやったら、ただの人間の押し付けになってしまう。
「はいはい、終了だな。付き合ってくれてありがとよ」
拓海は少しだけ名残惜しそうに木球を指先で一回転させてから、そっと持ち上げて引き出しの保管箱へと戻した。
そして、専用席で静かにくつろいでいるルリの姿を見ながら、ふと苦笑する。
「……なんだよ。蓋を開けてみれば、俺の方がよっぽど夢中になってたじゃん」
小竜を遊ばせてやっているつもりが、いつの間にか人間の方がすっかりいい遊び相手にされていたらしい。
***
やがて夜の探索時間が終了し、ルリは専用席から立ち上がると、固定足場をトテトテと歩いて自発的にケージの中へと帰っていった。
スライド窓を閉めて確実にロックをかけ、固定足場を外す。運動後のルリの呼吸や脚の運び、爪先などに異常がないかを確認し、すべて問題ないことを見届けてから、拓海は机に向かい直して紙のバインダーを開いた。
まずは、いつものように主観を排した正式な観察記録から書き始める。
『提示対象:無塗装天然木球(直径約3cm、過去に一度提示歴あり)』
『個体、机上探索中に自発的に木球へ接近。鼻先接近後、右前肢にて接触』
『接触により木球が担当者方向へ転動。担当者が手指にて停止させた後、個体方向へ低速で転動させて再提示』
『再提示された木球に対し、個体が接近し前肢で再接触する行動を確認』
『以降、担当者による低速転動と、個体による前肢接触が複数回にわたり交互に発生』
『転動方向は一定せず、側方へ転動した際は個体が移動して追従・再接触する例、および静止した木球の後方へ個体が回り込んでから前肢接触を行う例を確認』
『数分間の反復後、個体は自発的に対象から離脱し、机上右側の小型マットへ移動し休息姿勢へ移行』
『全過程において食物提示なし。担当者による身体接触・誘導なし』
備考欄には、『担当者による対象物の再移動が、個体の接触行動の継続に関与した可能性あり。ただし当該行動の機能および目的は未確定』と記した。
書き終えた拓海は、バインダーの少し前のページ――初めてこの木球を提示した日の記録をパラパラとめくって見返した。
あの日、木球の欄に書かれていたのは『鼻先接近一回、前肢による接触一回。対象物約四センチ移動。再接触なし』という、たった二行の寂しい記録だった。
「……同じ木球でも、タイミングとやり方でこんなに変わるもんなんだな」
最初は見向きもされなかったからといって、「このおもちゃは嫌いなんだ」と決めつけて捨ててしまわなくて本当によかった。
拓海はページを今日の日付に戻すと、枠外の個人用メモ欄にペンを走らせた。
『ルリと木球を交互に転がし合った。まるでキャッチボールをしているみたいで、ものすごく楽しかった。終盤、ルリが球の後ろに回り込んでこっちへ転がしてきた時は本当に驚いた。また気が向いた時に一緒にやってくれたら嬉しい』
それから認可撮影端末を手に取り、録画データを再生して確認する。
画面の中では、丸い木の球がマットの上をころころと行き来し、そのたびにルリが小さな前脚をちょい、と伸ばしている。そして画角の手前側では、拓海の右手が甲斐甲斐しく球を受け止めては転がし返していた。
特に、ルリが最後にくるりと背を向けて専用席へ帰ってしまったあと、拓海の右手だけが数秒間、木球を持ったまま虚空で一時停止している場面は、自分で見ても笑ってしまうほど未練がましかった。
「……俺の手、めちゃくちゃ寂しそうだなこれ」
一人でツッコミを入れながら、拓海は動画データを指定システムへと転送した。
***
転送を終え、スマートフォンで八咫烏指定の暗号化アプリを開く。
時刻はまだ午後八時過ぎ。拓海は迷わず榊原教授への報告メッセージを打ち込んだ。
『先生』
すぐに既読がつき、返信が返ってくる。
『今度は何?』
『ルリとキャッチボールしました』
送信してから、しばらく返事は来なかった。
やがて返ってきたのは、たっぷり間を置いた短い一言だった。
『…………キャッチボール?』
『はい! 机の上で、木の球をころころ転がして何回も返し合ったんです!』
『ああ、前に作った三つのうちの、木球?』
『そうです。あの時、四センチしか動かされなくてコルクの切れ端に負けたやつです』
『ははは。あの時の木球か。記録番号は?』
最新データの番号を伝えると、榊原が動画を確認する数分の間が空いた。
拓海は昨日の夜と同じように、少しそわそわしながらスマホの画面を見つめて待つ。
やがて通知が鳴った。
『…………見たよ。これはまた、すごく面白い映像が撮れたね』
『でしょう!?』
『水野君が軽く転がした球に対して、ルリ君が繰り返し前脚で接触している。しかも後半は、止まっている球の向こう側へ自分で回り込んでから、君の方へ押し出しているね』
『そうなんです! 途中から完全にキャッチボールになってました!』
興奮気味に打ち返す拓海に、榊原からはまず専門家としての丁寧な整理が返ってきた。
『ただ、記録にも書いてくれた通り、これだけで「人間とボール遊びのルールを共有した」とまでは言えないよ。転がってくる球の動く刺激に反応して前脚を出していた結果かもしれないし、水野君の方へ転がすとまた球が動いて返ってくる、という連鎖が面白くて繰り返していただけかもしれない』
『はい、そこは分かってます。記録には「交互に接触が発生」とだけ書きました』
『うん、それでいい。でもね、初回は一回触っただけで終わった同じ対象物でも、環境に慣れて、そこに人間からの「球を返す」という反応が加わったことで、これだけ長く自発的な行動が続いた。これは飼育環境における関わり方として、すごく価値のある記録だよ』
教授からのその言葉に、拓海は胸を張りたいような誇らしい気持ちになった。
すると、榊原のメッセージがふっと柔らかい調子に変わる。
『ところで、動画の最後を見たけど』
『……はい』
『どっちが先にやめたの?』
『……ルリです』
『そうだよねえ』
『俺はまだ次を転がす気満々で構えてたのに、急にくるっと後ろ向いて、自分の席へ帰っちゃいました』
数秒後、スマホの画面に返信が表示された。
『…………はははは』
『先生、今めちゃくちゃ笑ってますよね!?』
『いやあ、最後の水野君の右手が、あまりにも名残惜しそうに固まってたから。昨日は肩に乗られて動けなくなって、今日はボール遊びを切り上げられて手が固まるなんて、本当に毎日いい遊び相手になってるじゃないか』
『俺が遊んであげてる側のはずなんですけどね……』
『どう見ても、ルリ君に遊んでもらってるのは水野君の方だよ』
まったくだ、と拓海自身も思っていたので反論のしようがなかった。
『まあ、同じ木球を明日出しても、また今日みたいに転がしてくれるとは限らないからね。次はまた一回触って終わるかもしれないし、完全無視かもしれない。その時は無理に転がして誘ったりせず、また気が向いた日に付き合ってあげればいいよ』
『はい。俺もそうします。ありがとうございました』
***
通信を終え、夜の静かな時間が戻ってきた。
拓海は机の前に座り直し、先ほど避難させていた講義ノートを再び中央へと広げた。
ケージの中では、すでに高所休息棚の屋根の上で、ルリが丸くなって静かに休んでいる。
その隣の宝物箱には、いびつなコルク片と白い丸石、どんぐりの帽子。
机の右脇には、十八センチ×十四センチの専用席。
そして今日大活躍した木の球は、もう引き出しの中の保管箱へとしまってある。
拓海はノートを開いたまま、ふと机の上に置いた自分の右手を見つめた。
ほんの三十分ほど前まで、この人差し指の先で、ルリが転がしてよこした小さな木の球をこつんと受け止め、そしてそっと押し返していたのだ。
「……面白かったなあ」
机の上には、もう球はない。
それなのに拓海は、無意識のうちに右手の人差し指を、すっ、と前へ軽く動かす仕草をしてしまっていた。まるで、目の前にまだあの木球があって、ルリの方へ転がし返しているかのように。
「…………」
自分の指先の動きに気づき、拓海はピタリと手を止めた。
「……俺、一人でまだエア返球やってんのか?」
あまりの自分の浮かれっぷりに、思わず声を出して笑ってしまう。
すると、その笑い声に反応したのか、ケージの屋根の上で丸くなっていたルリが、ほんの少しだけ頭を持ち上げてこちらを見た。
「きゅ?」
「あ、ごめんごめん。なんでもない。お前はもう休んでていいからな」
拓海は声を落として手を振り、それから少しだけ間を置いて、優しい声で付け加えた。
「……でも、また気が向いたら、いつでも付き合ってくれると嬉しいな」
ルリは何も答えず、一度だけぱちりと瞬きをすると、再び顎を低くして丸い姿勢へと戻っていった。
拓海はその小さな背中を見届けてから、もう一度だけ小さく笑い、今度こそノートへと向かい直した。
初めてあの木の球を見せた日、ルリは前脚で一度だけ触れて、四センチ転がしただけで興味を示さなくなった。
けれど今夜は、同じ木の球を何度も前脚で突き、最後には後ろへ回り込んでまでこちらへと転がしてきた。
自分が返した球にルリが触れ、ルリが転がした球を自分が受け止める。その単純な繰り返しが、拓海にはたまらなく楽しかった。
ルリの方も同じように楽しんでいたのかどうかは、やはりまだ分からない。
ただ、満足してさっさと専用席へ戻っていったのはルリの方で、空になった机の上でいつまでも指先を動かしていたのは拓海の方だった。
どうやら、手のひらサイズの小竜とボール遊びを始めると、先に夢中になって抜け出せなくなるのは飼育員の方らしい。
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