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秋の文芸2025

絶望ブレイバー

掲載日:2025/10/12

医者と患者との会話と、患者が自分と対話するときの話

この世に落とされてからおかしいことの連続だった。

今もなお現在進行系で続いているそれは呪詛のようなもので、遺伝子レベルで込められた失敗の要素を設計図に従ってアウトプットされているだけなんだ。

コントロールできたらどんなに良いだろうか。


私は普通の人間になりたかったわけではない。

ただ常に高いハードルを越え続けている感覚は拭えない。


丘の上の診療所に今日も歩みを進める。



ーーー



ミント、セージ、タイムの植え込みにさっと手を近づけると、爽やかな風が手のひらにまとわりつく。


にぎりっペの要領で、鼻腔に芳しい。圧倒的清涼感。突き抜けるエクスタシー。


小金を巻き上げる巷のクリニックとは違い、丘の上の診療所はマスクの着用は義務付けられていない。

同調圧力には屈することのない世界がまだ残っていてホッとする。


自動ドアが開きスリッパをはいて、リノリウム製の床をぺたぺた歩く。

人口皮のソファにこんにゃく人間たちがへばりついていた。

こんにゃく人間は元々は人間だったけれど、つぶつぶになっている。


診察券を出すと、怖い顔をした受付の女が無言で受け取る。



ーーー



診察室と待合室の間には、本や写真が置いてある。

院長のパトさんが撮影した日蝕の写真はうんざりするほど見た。

本は得体のしれない作家のハードカバーがずらりと並べられている。

患者のただ一人も読んだことがないだろうに、ホコリはいっさい被っていない。


「どうぞ」


スライドドアを開けると、白衣を着たパトさんがいた。

パトさんは心療内科の先生であり、海外で学位を取得した自慢なのかサーティフィケートが机に飾られている。


「どうですか、最近変わったことは」


眼鏡をかけたパトさんは咳払いをして私の答えを待っている。

ラバランプが床に置かれてコポコポと対流している。


「洗濯籠に小指をぶつけました」


「ほう、手足左右いずれの?」


「右足です」


「それは痛かったでしょう」


私は靴下をおろして右の小指を差し出す。

パトさんはそれをまじまじと見つめる。


「ちょっと腫れてますね」


とだけ述べて私が再び靴下をはくまで黙っている。


丘の上の診療所はパトさんと私以外にも患者がいるのに、何の物音もしない。

衣擦れの音すら鳴らない。

あくまで二人の会話だけが鼓膜を震わせる。


「アルファくんはどうです?」


「今日は家におります」


「新しい環境にも慣れましたか?」


「ええ。今のところは」


「アルファくんは好きなものがありますか」


「アルファは絵を描くのが好きですね。でも余り上手ではないです。美術館に連れて行っても全然興味ないみたい」


私は画家の能書きをじっくり読む。

インスタレーションも視界がぼやけるくらい凝視する。


「じっとしているのは苦手なのかな」


「どうなんでしょう。列に並ぶのは平気ですけどね」


「アルファくんに対して不安はありますか?」


「さあ、分かりません。ただアルファはこだわりが強い割には何も上達しない。人並みなんです。計算が速いわけでも、スポーツが得意なわけでもない。語学は少しかじりましたが、すぐに飽きてテキストはすぐに使われなくなりました」


「テレビでもてはやされるような存在は希有です。そことアルファくんを比較するのは難しいと思いますよ」


パトさんはパソコンにメモを取っている。


「アルファは今後どうなっていくんでしょうね」


「ひとまず通信制での様子を見守りましょう」



ーーー



鉛筆をトンカチのように握るアルファが描く絵は線が荒い。


強い筆圧で、細部はお構い無しに、輪郭だけザーッと塗りたくって終わり。


絵画教室に持っていったけど、先生は首を傾げて愛想笑いを浮かべただけだった。


「晩ごはんはラーメンでいい?」


アルファはラーメンは醤油と決まっている。

麺を真っ先に平らげて、スープを飲み干し、最後に具を頬張る。

お気に入りのルーティーンだ。


醤油がなければ塩。

塩もなければ豚骨かなにか。

それで豚骨が存外に気に入れば、醤油は降板することもある。

そうするとそれ以降はずっと豚骨になる。


誕生日ケーキは必ずチョコレート。

自分ではロウソクをたてない。


「アルファ、国語好き?」


アルファは黙っている。


「算数は?社会は?」


アルファは黙り続ける。


私の問いかけには興味がないのだ。

それで構わない。

アルファが生きていさえすれば。


「来週はパトさんのとこ行くけど来る?」


「いく」


「分かった、じゃあ来週の水曜日ね」


スープの干上がったラーメンの具を口に運びながらアルファは小さく頷いた。



ーーー



丘の上の診療所にはこんにゃく人間がいる。

ぐでっとソファに伸びている。アルファは気にならないようだ。


アルファとパトさんが会うのは約ひと月ぶりくらい。


「お久しぶりですアルファくん」


名前を呼ばれているのに、アルファはまるで自分が呼ばれていると気づいていない。

それでもパトさんは朗らかに目を細める。


「元気そうですね」


私はアルファのやや斜め後ろに腰かけて会話に傾聴する。


「アルファくんは絵を描くのが好きなのですか?ボクは写真を撮るのが好きなんですよ」


机の引き出しからパトさんは何枚か写真を取り出してみせた。


アルファがそれを受け取って、一枚ずつめくっていく。


「カエルとか、鳥とか、生き物が多いね。なんでだろうね、植物もあるかな、アハハ」


楽しそうに写真の説明をするパトさん。

白いヘビのところでアルファの手が止まる。


「ああそれ、珍しいよね。白いヘビがたまたま用水路から出てきたの。近くの山だよ、行ってみたら?」


アルファは白いヘビにそっと触れる。


複雑に折り重なった長いからだは、一見乱雑に思えるけれども、背骨の形状、筋肉の動きに従った結果、なるべくしてそこにあった。


模様ひとつ取っても、鱗がどうして三角形ではいけなかったのか、目の位置がそこでなくてはいけない理由はなんなのか。

白いヘビが白いヘビたらしめるものは、私には全く手の及ばない領域で決定するのだろう。


「アルファ、その山行ってみる?」


アルファは答えない。

でも行きたそうにしている。

写真のヘビを何度も指先でこすっているだけで十分に伝わる。



ーーー



その夜アルファは夢を見る。


用水路から鎌首をもたげる白いヘビの夢を。


「やあアルファ」


「こんにちはヘビさん」


「お前はどうして白くないの?」


「さあ、ニンゲンだからかな」


ヘビは濡れたからだを地面にこすりつけるようにして腹這いで近づいてくる。


「ニンゲンはいいものか?」


「分からない、他の動物になれないし」


「少なくともアルファ、お前自身はどうだ」


「どうだろう。このからだも初めてだから」


つま先から肘までアルファのからだを伝ってヘビは登ってくる。

長いからだがとぐろを巻いてアルファの下半身を埋めていく。


「もうお前は半分ヘビだ」


アルファはその場に倒れ込む。

もがこうともせずに、地面と口づけを交わす。


「土の味がする」


「普通に生きてたら土は食べんだろう」


「食べるニンゲンもいると思うよ」


ざらついた不完全な土はアルファの唾液と混じって泥になる。

泥は胃に落ちて酸化する。塩酸の海に溶かされるものと、溶かされないものに分かれていく。


「どんな味だ?」


「渋くて丸い感じ」


「ヘビは砂を食べられないから貴重な意見だありがとよ」


腰のあたりまで巻きついていた白いヘビはするすると音もなく滑り落ちる。


ほどけたあとにはアザがアルファに残った。

アザを指でなぞると、夢ではないような気がする。


アルファはそろそろ眠りから目覚める。

まずは山の頂上へ行く予定だ。


それから景色を見て、斜面を下りながら用水路に気を配ろう。

白いヘビは相当に珍しい。

まずはアオダイショウくらいで丁度いい。




(了)

ヘビは昔から好きだった。それで変と言われた。好きは変なんだと知った

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