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5章

 一


 春先の、暖かい日のことだった。ここ数日、冷たい風が猛烈な勢いで吹き荒れて、まるで冬の空気と春の空気が戦争でもしているような有り様だった。それがほとんど前触れなしに止み、嘘のように穏やかな日が訪れたのがこの週末のことだった。

 日曜日の午前遅く、十時を過ぎてから、自室にて澄花は目を覚ました。まだ覚醒しているとも言い切れないような状態のまま、そうしようという確かな意図さえ持たずに、澄花は携帯電話を手探りでつかまえては顔の前へと持って来た、(寝過ぎたな。)そう心の中でつぶやいたものの、彼女にとって今日のこの起床時間は何ら驚くべきものではなく、休日にこのぐらいの時間まで寝ているのはいつものことであった。

 時間のほかに、携帯電話で確認したい特別の事柄があるわけでもなく、澄花はそれをほぼ無意味に操作しては、布団に横になったまま、光る画面を無感動に眺めた。最後に受信したメッセージは伊藤からのものだった。それは昨晩、別れた後で伊藤から送られたものだった。内容は「今日はありがとうございました。おやすみなさい。」とか、そんな簡単なものだった。昨日は土曜日で、休日を、澄花と伊藤はほぼ一日、一緒に過ごしたのだった。伊藤は澄花の交際相手だった。

 澄花はベッドから起き上がるのを極力先延ばしにしようとして、かなり長い時間をかけた上で、最後には布団から這い出して来た。起床の際の、完全に習慣化している行動の一つとして、澄花はテレビの電源を入れた。流れたのは何らかの情報番組で、彼女が行ったことのない町の、聞いたこともない路線名の電車が画面には映っていた。

 それ以上テレビに意識を止めることはなく、澄花は窓際へ近付いてカーテンを開けた。外にあったのはもやがかかったような空だったが、にもかかわらず、強烈な明るさが澄花の網膜に圧力をかけた。そのまぶしさに、澄花はしばらくの間目を細めていた。そして、ガラス戸を開けると彼女はベランダへと出たのだった。さっき見たテレビの映像が刺激となって、澄花の頭の中には、彼女が別の時に見た、全然別のニュースの記憶が思い起こされた。それはどこか、やはり澄花がよく知らない町の駅で起きた、人身事故のニュースだった。

(やっぱり、電車は間違いがない。)

 マンションの7階の、ベランダの柵にもたれながら、澄花はそう考えた。


 あれから十年近く経過していた。澄花は大学生となり、社会人となり、実家を出て一人暮らしをしていた。仕事は忙しく、負っている責任も軽くはなかったが、それは順調だということでもあった。自立した生活を送り、仕事は上手く行っていて、かつ交際相手までもがいる。これだけのことが実現している。それは澄花自身にとっても、どこか十分な実感を伴わないことであった。

(普通に働いて、一人暮らしして、付き合ってる人がいる。高校生の私に教えてあげても、信じてくれないだろうな。)

 だが高校生の今出澄花の想像し得なかったような事柄には続きがあった。そしてそれは現在の澄花にとってもそうなのであった。それは、万事が上手く行っていると思えるこれだけの状況にあってもなお、それを生きる澄花にとってこれが苦しいものであることには依然変わりがないという、そのことであった。


 二


 勇一郎が死んだあの日以来、澄花が送ってきた人生は、はたから見れば順調そのものだった。高校の残りの期間そして大学に通う間、周囲は常に、澄花を勉強熱心で真面目な学生と見た。実際、澄花は勤勉な学生だった。成績は良かったし、相当の努力の上で大学受験にも合格した。その後も同じ勤勉さで授業にまた就職活動に取り組み、そうして入社した職場で現在、彼女は仕事に打ち込んでいるのだった。

 澄花は仕事を、特に苦労もなく覚えることが出来た。与えられた仕事は間違えることなくこなした。すると、それが出来る澄花には段々と、より多くの仕事が任されるようになった。それをも澄花はこなした。上司も同僚も澄花を評価したが、彼女が物量をこなせるのには理由があった。一つ一つの仕事をこなす能力を澄花は確かに持っていたが、加えて彼女は仕事を家に持ち帰るということをやっていて、帰宅後や休日にもいくらかの時間を仕事のために割いていた。

 そんな働き方を、澄花は苦にはしていなかった。それを澄花はすすんでしているのだった。それは気晴らしに似ていたが、それをすると気が晴れるということよりもそれをせずにいることの恐ろしさの方が動機となっている点が、本当の気晴らしとは違っていた。好き好んでしていることなのか、せずにいることが出来ないために仕方なしにしていることなのか、澄花自身、この問いに対する答えを持っていなかった。それを考える余裕も、考えるためにまずそれを直視する勇気も、同じく澄花にはないものだった。

 学生の頃、特に勇一郎の死後、澄花の勉強熱心は周囲の目にも明らかだった。確かに澄花は、自由にすることの出来る時間があればいつでも、それを勉強にあてていた。そして多くの時間を割いただけの結果が、試験の点や成績に現れた。しかし澄花はそうして得られた良い成績を得意がることがなかった。また彼女は勉強時間をほかの何かに優先させるということを決してしなかった。休み時間にはたいてい机の上で教科書やノートを広げている彼女だが、誰かに話しかけられればためらわずにそれを中断する。元々、澄花は人当たりのいい人間だった。そこへこうした特徴が付け加わり、勉強ばかりしていてそのおかげで良い成績を得ていても、彼女が周囲からうとまれるということはなかった。

 うとまれることはなく、そしてまたそれ以上の関係性が生まれることもなかった。澄花が成績を得意がらないのは最初から結果には興味がないからで、勉強に熱心なのはそうせずにいることが出来ないからだということを、周囲の人間は誰も知らなかった。何もせず無為に過ごすのは不安で、気が触れそうなほど耐えがたいことで、ただそれから逃れたい一心で勉強に打ち込んでいる。自分のそうした動機を知る人間を、ついに一人も持たないまま澄花は学生時代を終えた。

 澄花が恐れているものは一つだった。それは彼女の現実で、彼女は、自分の現実と目を合わせてしまい、それが「俺は無為だ。」と言うのを聞いてしまうような機会を、何とかして避けようと努めているのだった。そのためにはとにかく忙しく、何かにかかり切りになっている必要があったが、かかり切りになる対象は何でもいいのではなかった。楽しみごと、特に金銭と引き換えにして得る種類の楽しみごとには、澄花はこれに夢中になるということがどうしても出来なかった。そうした楽しみごとは皆、それによって目をそらしたいはずの当のものを、かえって思い出させるように彼女には感じられた。何か、もっと生産性を感じられるものを澄花は欲した。それに打ち込むことで自分がどこかを目指して進んでいる、少なくとも停止することなく動いている、そう思える何か。そういうものが澄花にはどうしても必要だった。勉強も就職活動もその役には立った。そして今は仕事が、彼女の中、その位置を占めるものとなっていた。

 自分で自分に鞭打つようなこんな生活を、澄花は初めのうちこそ自己において完結させることが出来ていたものの、途中から事情が変わった。澄花の両親、特に母親が、これまでとは違う態度をとるようになったのだ。娘が二度の自殺未遂の後で急に勉強に励むようになった時、澄花の両親は内心では心配をしていたが、あえて何も気付いていないように振る舞うことにした。それは、そうすることが現在の澄花には必要なのだと考えたからであり、また何にせよ、勉強であればそれ自体悪いことではないと考えたからであった。

 それから数年経つうちに、澄花のこの変化は家庭内の新たな『通常』となった。澄花の両親は自分たちがかつて娘に対し、何か爆発性の危険物を取り扱うような接し方をしていたことを段々と忘れていった。親子の関係性は気安いものへと戻って行ったが、澄花の内部にあるものが変わっていないということを両親は知ることがなかった。そうして澄花が社会人となった時、家でまで仕事をしている彼女を見て、澄花の母親は度々懸念を口にした。これをわずらわしく思った澄花はほとんど飛び出すような形で実家を後にし、一人暮らしを始めた。

 こうして始めた暮らしを、現在も彼女は送っているのだった。年を追うごとに仕事の給与は増え、責任は増し、担わなければいけない役割は難しさを増した。この最後のものが重要だった。取り組んでいる事柄が難しいものであればあるほど、それから注意をそらすことが許されるような機会は奪われていくからだ。


 三


 ベランダに出た澄花はしばらくの間、呆然とただ景色を眺めていたが、やがて考えごとを始めた。彼女が最初に考えたのは、昨日一緒に過ごした交際相手の伊藤のことだった。

 伊藤は、澄花の職場の同僚だった。澄花の一年後に入社してきた伊藤は、しかし大学受験に二度失敗していたために、かえって澄花よりも年上だった。澄花はこの後輩を教え、一緒に仕事をしていたのだが、そうして一年余り経った頃、伊藤から交際を申し込まれた。そうした場合にどうしたらいいのか、澄花が知っていることは何もなく、断るという選択肢もまたそこに含まれた。

(伊藤君のことは嫌いじゃないし、話してても楽しい。)それが澄花の素直な気持ちだった。二人は一緒に食事したり休日に出かけたりするようになったが、そうして過ごす時間は澄花にとっても悪いものではなかった。やがて澄花も伊藤を好きになった。だが伊藤との関係性をただ快いものとして楽しむということが、澄花には出来なかった。

 澄花の印象に残るある出来事があった。それは冬の間のある休日のことだった。その日は特別に寒かった。待ち合わせ場所に現れた澄花に、伊藤が「寒いね。」と声をかけた。伊藤の顔立ちには普通にしていても微笑んでいるようなところがあったが、この時の伊藤は帽子とマフラーの間に半ばうずもれたその顔に、困ったような笑みを浮かべていた。それが寒さのためだと分かった澄花は、彼女もまた苦笑しながら「そうだね。」と返した。

「今出さんは、寒いのは平気?」伊藤が聞いた。

「寒いのは嫌だけど、でも冬は好きかな。冬は天気があまり変わらないでしょ。雨も降らないし。」

「そっか。僕は暑いのも寒いのも嫌だけど、でも夏は冷たいものがおいしいし、冬は温かいものがおいしいから、そのために我慢しているよ。」

 この発言が本心か冗談かにかかわらず、伊藤に食べることと何かを引き換えにするような発想のあることが、澄花には意外だった。それで彼女は、「意外と、本能的なところがあるね。」と言ってにやりと笑った。すると伊藤は恥ずかしそうにしながら笑った。この伊藤の様子が澄花の印象に残った。

 澄花はその後も時々、この出来事を思い出してはその意味を考えた。彼女が気になったのは伊藤のあの恥じているような様子だったが、それはこの一度きりのものではなく、澄花は以後数度、伊藤が同じ笑い方をするのを見ることになった。そしてそれぞれの場合を比較してみて、澄花には二つのことが分かった。一つ、この恥じるような笑みを見せるのは伊藤が、自分のまだ澄花に見せたことのない一面を開示した時であること。そしてもう一つ、伊藤のそうした開示には必ず、澄花による何らかの自己開示が先立って行われていること。それがたとえどんなに小さなものだったとしても。

(私が話すのを待ってるんだ。)澄花は思った。(踏み込もうとして急ぐわけでもなく、自分を出そうとして急ぐわけでもなく、ただ私が自分の何かを見せた時にだけ、それに応えるみたいに、私のまだ知らない一面を見せてくる。歩調を合わせるようにして。きっと、伊藤君はそれぐらいのことはやる。優しいもん。)

 伊藤があの表情を見せるとき、その表情が恥ずかしそうなものであることからいって、そこに開示されているのは何らかの恥部であるに違いない。しかも、それを恥じている一方で伊藤はいつも、どこか安心したような様子をも見せている。しかも彼はこの恥部を、決して開示せず秘めたままにしておくことも可能だったはずなのだ。そう澄花は考えた。

(言わなかったら分からないこと。言って得になるわけでもなく、言わなきゃいけないことでもない。だけど、それを知ってることが、多分、その人を知っていることになるような、そういうこと。私たちはお互いのそういうことに、まだ全然触れてない。そういうことに触れてなくても、誰とでもするような話しかしていなくても、他愛ない会話だけで、言葉が腑に落ちて、会話が噛み合って、何かをやり取りしている気持ちがする、それだけで楽しい。それだけでも、伊藤君を特別に思うことは出来たような気がする。だけど、二人の人間が特別な関係であるためには、これだけじゃ足りないんだろうな。)

 自分たち二人の関係をこの先で待っているもの。それを思う時、澄花はいつも胃の辺りが苦しくなる感じがした。避けることの出来ない何ものかが、前方にそびえている。自分はそれに向かって絶えず前進している。前進しているのだから近付いているに違いない。しかし彼女には彼我の距離が後どれだけであるのかを知ることが出来ない。この隔たりは空間でなく時間の隔たりであり目には見えない。それに到達するのがいつのことなのかは分からない。ただ、現実に時間の経っている以上、それは接近し続けている。それだけが分かる。それだけで、澄花は十分、苦しかった。

「伊藤君が現れて、私にとっては、これまでにないくらい大きな、耐えなきゃいけない苦しいことが新たに一つ増えたんだって言ったら、伊藤君、どんな気持ちがするだろう。」

 澄花はこれを、声に出して言った。本物の音声によってこの世界の空気を共振させる、それを実際にすることが、言葉をただ頭の中でのみ思い浮かべるのとは次元の違う禁忌を犯す行為であるように思われて、そうした悪行を犯すことで自分は何かの一線を越え、自分の中で何かが変わる、そんな期待を澄花は抱いていた。期待は実現しなかった。彼女の内部は凪いだまま、何ものも変化することはなかった。


 四


 ベランダの柵にもたれている澄花の頬を、どこかから生暖かい風が吹いてきてなでた。冬は終わったのだと澄花は思った。地上にある全てのものを差別なくいじめ抜いてきた冬のあの厳しさが、ここにはもうない。今あるのは人を害することのない季節で、これから続く喜ばしい時期がその全ての幕を演じ終えるまで、冬は静かに身をひそめていなければならない。冬が終わる時、澄花はいつも、冬の去って行くのがさみしいという感じがした。ところが彼女はそう感じると同時に、いずれ次の冬と再会しなければいけないのを思って、早くもいとわしい気持ちがするのだった。

 季節の、この交代の期間が、澄花は落ち着かなかった。時間が流れているのを思い出してしまうからだった。変化の乏しい季節には自然と、流れ続けている時間の中に生きている事実を忘れがちになることを思えば、春の到来によって世界中が眠りから覚めるようなこの時期は、澄花にとっては必ずしも快いものではないのだった。

 柵から身を乗り出して、澄花は眼下の道路を見下ろした。そこはあまり広くない路地で、すぐ向かいにも住宅がひしめいているために、日中でも何となく薄暗い道だった。こうしてアスファルトの路面を垂直に見下ろす時、澄花はいつも不思議な空間的印象を受けた。(微妙な高さだな。)そう澄花は思った。

 この部屋に住むようになって以来、澄花は何度もこのベランダから真下にある路地を見下ろしては、ここから落ちたらどうなるだろうかと考えた。落下すれば絶対に無事では済まない高さ。かといって、命を落とすことが確実であるとも言い切れない高さ。澄花にはこの高さがそんな風に感じられた。

 この危うい考えと親しみながらも、しかし澄花はそれを実行するには至っていなかった。それだけではなく、勇一郎の死んだあの日から今日までの間に、澄花はただ一度の自殺をも試みてはいなかった。

(何も変わってない。何も良くなってなんかいない。何かを楽しいと思えるようになったり、何かが辛くなくなったり、そんなことは一つも起こってない。)

 何度も考えたこと、今までに何度もはまり込んだことのある思索に、澄花は今また足を踏み入れようとしていた。これを考える時、澄花の頭にはいつも勇一郎の姿が思い起こされた。それは、線路上で最後に澄花を見つめていた勇一郎の姿ではなく、むしろそれをかき消した地下鉄の車両の、それによって一気に遮られた視界の記憶だった。

(苦しいのは相変わらずで、この苦しさを終わらせる魔法が、死ぬことだったのに。私にはもうそれしかなかった、私はその魔法を実際に使うところまで行ったのに。どうしてあれから、それが出来なくなったんだろう。死にたいと思った理由は、今もなくなってないのに。苦しいと思う気持ちは同じなのに。どうして。死のうと思うことだけが出来なくなった。どうやったの?儀部君。)

 澄花はここで、一度歩みを止めた。ここを抜けるとこの次に来るものが何であるかを分かっている彼女は、出来ればいつまでもここに留まっていたかった。それは出来ないことだった。澄花はことさらに深いため息をついた。そうすることで吐き気をもよおして、本当に吐いてしまえたらいいのに、そう彼女は思ったが、決してそんなことにはならないのだった。

 澄花の苦痛はなくなっておらず、変わらずにある。それから逃れたいという澄花の気持ちにも変わりはない。未来を見通すことは誰にも出来ない。将来に何が待っているのかを知ることは出来ない、それは澄花にとっても同じはずだった。しかしそれは、澄花の考えたくないことだった。自分の将来にどんな可能性があり得るのだとしても、澄花にとってはそのどれもが、一切価値を持っていなかった。ただ一つのことが重要で、そのことがあまりに重要なために、他の全てのことが価値を失ってしまっていた。問題なのは一つだけで、一つのことだけが重要だった。生きていく。それだけだった。(終)

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