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4章

 一


眠ることが出来ないまま夜明けを迎え、それから後へはいつも通りの朝の行動が続いた。いつもの起床の時間になると勇一郎は、着替えたり顔を洗ったり朝食をとったり、いつもしていることをいつもと同じ順番でしてから家を出た。自転車に乗り、駅に着き、駐輪場から直接地下鉄の駅の構内へ出ると、すでにそこをたっぷりと満たしている、製造ラインを流れる何かの原料のような人ごみのうねりの中に、勇一郎は上手く自分の体を割り込ませて改札をくぐった。

 さらに階段を下って勇一郎はホームへ出る。そこはやって来る電車のほぼ最後尾付近の位置だった。彼はいつも最後尾の車両に乗る。どの乗車位置にもすでに人が並んでいた。彼はその中の適当な列に並んだ。

 全てここに来るまでの間、勇一郎はいつもしているのと同じことだけをして、いつも目にしているもののほかには何も目にしなかった。電車を待つ間、あえて目を向けたいと思うような対象は何もなかった。自分の前に並んでいる誰かの後ろ姿、その向こうにあるホームドア、その向こうの壁に掲示されている広告。どこへ目を向けたとしても、注意を引かないもの、いつもそこにあるのと同じものだけを認めることが予期された。勇一郎にはわざわざ目を向けなければいけないものが何もなかったし、同じく、見ないようにしなければいけないものも、やはり彼には何もなかった。

 ホームに音声が流れて、次の電車の到着を知らせた。音声が消えた時にはもう、ぼやけた轟音が遠くの方で響いて、電車の接近を伝えていた。ここから、電車が実際に姿を現すまでの時間は短い。毎朝このホームに立って電車の到着を何十回何百回と経験してきた人間ならだれでもそれを知っていたし、勇一郎もそれを知っていた。

 彼は顔を上げた。そうしたことに理由はなかった。ただ、そうすることによって見ることの出来たものが彼にはあった。隣の乗車位置に並んでいる列の前の方で、人が動いた。その人物はホームドアによじ登ってあっさりそれを乗り越えると、向こう側へ姿を消した。

 ホームドアを乗り越える際にその人物の姿は人垣よりも高い位置に来たので、勇一郎は一瞬ではあるがそれをよく見ることが出来た。それは制服を着た女生徒だった。制服は勇一郎の高校のものに似ていた。だがそれが自分の高校の制服だったかどうかと問われても、勇一郎にはきっと答えられなかった。彼はそれを判別していなかった。彼が判別したのは、その人物が今出澄花であるということだった。一瞬のことではあっても、一度知ってしまった人物の姿は、彼にそれを見落とすことを許さなかった。


 二


 その姿がホームドアの向こうへ消えたことで、勇一郎には澄花が線路へ下りたのだということが分かった。その意味は、考える必要がなかった。(今出さん!)勇一郎は思った。それが今出澄花であることが分かっていればそれで十分で、それだけが重要だった。

 勇一郎はすぐに動いた。しかし彼の体は、なぜか彼が思ったようには動かなかった。勇一郎は最初、自分の体が全然動かないように感じた。しかしそうではなかった。決してそうではなく、確かに彼の体は動いていて、ただその動きがあまりにも遅いために、彼には自分が止まっているように思えたのだった。それは異常な遅さで、その速度は、人間が意図して行うことの出来る遅い動作の限界をはるかに下回っていた。勇一郎は混乱した。急がなければいけないのに、早く澄花のところへ駆け付けなければならないのに、どんなにそう思っても彼の体は這うような速度でしか動かなかった。

 勇一郎の立っていた位置から澄花のところまでは、本来なら数秒で到達出来るはずの距離だった。電車を待つ人ごみの隙間を駆け抜け、ホームドアを飛び越える。ただそれだけの、距離とも言えないような距離。そんなわずかの距離をまたぐために勇一郎は、自身がそういう風にしか動くことの出来ない異常な遅さによって、考えられないような長い時間を要した。焦りと混乱を極め、夢の中にいるような身体の不自由に度を失いながら、やがて勇一郎はあることに気付いた。彼の動きは遅過ぎて、澄花の元へ着くまでには時間がかかり過ぎていたが、同時に、とっくに着いていていいはずの電車がいつまでもやって来ない。それに、女生徒が線路に飛び込んだというのに、この場にいる人間のだれにもあわてる様子がない。ばかりか、周囲の人間は誰も、身動き一つしていない。あり得ないことだと勇一郎は思ったが、彼がそう思った後も、周囲の様子は変わらないままだった。

 どうしてなのかは分からないが、どうやら、彼だけが遅いのではなく、ほかの人間を含む周囲の何もかもが、彼と同じこの異様な遅さに縛り付けられているらしかった。状況の異常さを考えているうちに、勇一郎にはそれが分かった。何もかもがゆっくりとしている。彼はそれを遅く感じているが、全てが一様に遅くなっているのなら、それは客観的には通常の速度で動いているということなのかも知れなかった。全てのものが遅いのか、それを遅いと感じている彼が速いのかはわからない。とにかく、何が遅く何が通常であるにせよ、彼の頭の中に限って勇一郎は、彼が遅いと感じている全てのもの、彼自身の肉体を含めた全てのものと比べて、ずっと速く動くことが出来る。ただこれだけが勇一郎の頭には浮かび、後は何も考えられなかった。


 三


 不思議なことに、これを思い付いた後、勇一郎はこの異常な速度感覚に対する一切の興味を失った。

 次に彼の中には、自分が澄花と出会ってから現在までの記憶が順々によみがえって来た。それはせいぜい過去一週間の出来事に過ぎず、しかも勇一郎が実際に澄花と接触していたのは、その時間全体のうちのほんの一部でしかなかった。しかし、勇一郎はそれを実際の時間の流れの中にいるようにして、追体験したのだった。

 記憶を再生しようと意図しているわけでもなく、かといってそれを中断しようともせず、ただ流されるようにして勇一郎は、よみがえって来る光景を体験した。

(今出さん。そうしなきゃいけないのか、どうしても。)解を教えられた後でその解を導き出した式を解説されているような執拗さを、勇一郎は感じた。(どうやってもこうなる。必ず、最後にはこうなる、そういうことなのか。)それは自明のことと、勇一郎には思われた。澄花が引き起こそうとしている結果は、それを澄花が引き起こそうとしている限り不可避のものであるというのは、すでに昨晩、勇一郎が結論していたことだった。それは彼にはもう分かっているはずの無力だった。

 この無力は既知のものであったために、勇一郎はそれをいつまでも考えてはいなかった。彼には考える時間がたくさんあった。体の動きは遅く、澄花のいる線路まではなかなかたどり着かないのだった。

(それで、そこへ行ってどうする。)勇一郎は自問していた。(どうしようもないと分かっているものに割り込んで行って、行った先で何をしようというんだ。)彼は空中で、通常ならあり得ないことだが、走っている途中の姿勢で、いつまでも宙に浮いている自分のことを思った。(分からない。それが分からないのに、それを考えないうちから、俺の体はこうして駆け出していた。そうさせたものがあったんだ。それが知りたい。考えるよりも前に何かが俺を動かした。それが何かを考えるんだ。)

 そんな考え事をする時間さえ、現在の彼には許されているのだった。彼が追体験している澄花との記憶は終盤にさしかかっていて、今、彼の脳裏には昨日の、死の告白をしている時の澄花の姿があった。しかし勇一郎の中では記憶が複次的に重なり合っていて、様々な記憶がいくつも同時に、よみがえっては消えていた。そんな無数の断片の中のあるものが、どこかでいつまでも点滅している気配があって、勇一郎はそれが気になった。(何だ?確か、何ででもない、とか。理由がいる、とか。)勇一郎は引っかかっているものが何なのか、思い出そうと努めた。(何にでも理由はいる…何ででもない…本能…自由…本能…)こう彼は心の中で唱えた。

 そうして最後には、勇一郎の中に一つの考えが生まれた。それは何もないところに新たに生まれたのではなく、もやもやとした形で存在していた考えが、今になって何かの姿を帯びたのだった。その姿を見て、勇一郎は自分のしようとしていることに対する疑問を忘れることが出来た。それをするということ。彼に残っているものはこれだけになった。今や、ホームドアは彼の目の前にあった。彼はそれに手をかけた。


 四


 いつの間にか、勇一郎が陥っていたあの異常な遅さは、わずかにではあるが、元の速度へと回復しつつあった。勇一郎には止まっているとすら思えた自分の体が、今では動いているのがはっきりと感じられた。と同時に彼には周囲の人間のざわめきもまた、彼方から届いて来る気配のようなものとして伝わっていた。勇一郎はホームドアに手をかけ、それを乗り越えた。体の動きは未だ、通常の速度を思えばひどく遅いものだった。逆に言えば勇一郎は今、体の何倍もの速さで頭を働かすことが出来た。動作の最中にも彼はそこへ随時修正を加えることが出来、そのおかげで失敗することなくホームドアを越え、最後には線路まで下りることが出来たのだった。

 電車はもうすぐにでも、ここへやって来るはずだった。少しずつ回復していく速度を感じながら、勇一郎はそのことを思った。ここは、この最後尾付近の乗車位置は、澄花が電車に乗る本来の位置ではない。彼女はいつも先頭の方に乗る。停止しようとしているとはいえ、10両編成の地下鉄がホームのこの位置に現れる最初の瞬間にはまだ、人体を破壊するに十分過ぎる速度が出ているはずだった。

(本気だな、今出さん!)

 ホームドアを越える時にはもう、線路上にいる澄花の姿が見えた。彼女はそこに突っ立って、目の前の壁にある広告を見上げていた。(あの位置から見上げるとどんな感じだろう。)頭の片隅で勇一郎は思った。未だ遅延したままの速度感覚のために、勇一郎の体がホームドアの向こうへ移るまでには長いことかかり、その間ずっと、彼は澄花の姿を見つめていられた。

(あの日あの場所で、ああして今出さんと会っていなかったら。)

 勇一郎は思った。澄花と初めて出会ったあの日、勇一郎があの場面に出くわさなかった可能性はいくらでもあった。古本を物色して、店を出るのが少し遅かったら、あるいは早かったら。「今日はもう帰ろう」と思ったその瞬間に、何か一冊でも気になる背表紙が彼の目に入っていたら、勇一郎はああして澄花と出会ってはいなかった。

(同じ学年にいる今出澄花という人物を、俺が知ることもなかった。そして今出さんは死ぬ。誰かが死んだというそのことさえ、俺は知ることがなかったかも知れないんだ。それにあの日だけじゃない、あれからずっと、今出さんが死ぬなんてあり得ないなんて言える日は、一日もなかったんだ。)

 死が澄花の中にはいつもあったのであり、その死が彼女に強く呼びかけたことは現に何度かあったのだから、それがほかの瞬間ではあり得なかったなどと言うことは出来るはずがなかった。

(今出澄花なんて人とは出会わなかったかも知れなかった。出会ってから今日までの間で、俺には何も出来ないところで、今出さんが一人首尾良く死んでしまっていたかも知れない、そんな瞬間は数え切れないほどあったんだ。その無数にあった機会の全てが、そうはならずに過ぎて行った。それで今、ここで、俺の見ている目の前でそれが起きてる。俺にも手出しが出来る、目の前で。どうしてだ。俺には知ることすら出来ない場所で、無数の可能性のどれか一つが結果を出してしまうことの方が、よっぽどあり得たはずなのに。どうして俺の前に転がって来た?しかも今になってだ。もしもこんな機会が巡って来たらその時はどうするか、俺がさんざんそのことを考えて考えたその後で、今になって!)


 五


 電車に人が飛び込む。それは勇一郎にとって、そのこと自体、決して馴染みのないものではなかった。この地元の駅にまだホームドアが設置されていなかった頃のことを彼は覚えている。ホームドアが必要となることは、それが防ごうとしている事態がどれだけありふれたもであるかを物語ってもいた。自分が線路上にいて、そこへ電車が来るとはどんな感じがするのだろう。電車はここへどんな速さでやって来るのだろう。何十トンとも何百トンとも知れない鉄塊にはねられる衝撃とはどんなものだろう。しかもその重量のうちやはり何十トン何百トンかは、中に乗っている人間の体重なのだ。それが凄い勢いで人をはねて、ばらばらにして吹き飛ばしてしまうのだ。こんな壮絶な死に方があるだろうか。勇一郎はそんなことを考えた。

 今や彼は線路に降り立った。澄花が、目の前にいた。澄花は気付いて勇一郎の方を向く。ゆっくりとしたその動作を、勇一郎は見る。全てのものはもう大分、元の速さへと戻りかけていた。

 勇一郎は澄花を見たが、強い逆光のためにその表情は見えなかった。逆行は電車の前照灯によるものだった。もうすぐそこに来ている。時間はなかった。

 勇一郎は飛びかかるようにして、澄花の体に手を伸ばし、そして彼女をホーム下の退避スペース目がけて突き飛ばした。彼自身も、澄花も、なおわざとらしいスローモーションのような動きを見せた。それでも、さっきまで勇一郎がはまり込んでいた沼のような遅さからすれば、それはあっという間のことだった。ホームの下の空間で尻もちをついている澄花を、今だ線路上にいる勇一郎は見た。油だか何だか分からないもので真っ黒に汚れている場所で転げている彼女を見て、勇一郎は何か悪いことをしたような気がした。澄花が顔を上げると、今度はその表情がよく見えた。彼女は驚いていた。不可解さがやって来る前の、純粋な驚きの表情だった。

(何で、って思うかい、今出さん。)勇一郎は澄花を見て、心の中で言った。(何でかなんて、俺は考えていないよ。これをすることが、今、自分には出来る。ほかの瞬間だったら出来なかったんだ。これが今、ここじゃなかったら、俺に出来ることはなかったんだ。それを今なら選べるんだ。)

 澄花の姿は今や猛烈な光に包まれていた。勇一郎はさらに(理由があるように見えるだろう。そう見える以上にそう見ようとするんだ。『何で』を求めるのが人間なんだ。)などと考えた。彼は自分が光や音や振動によって、衝突に先立つ前兆を感じ取ることが出来ると思っていた。ところがそんなものは何も感じられなかった。気付かないうちに電車が来て、彼をはねた。衝撃を受けてから衝撃を受けたということを感じるまでに要する、ほんのわずかの時間よりももっと早く、一瞬よりもずっと短い刹那のうちに、勇一郎の脳は壊れて単なる液状の物質へと変わった。同じその瞬間、肉体のほかの部分も皆同様に、生きていた時の全ての機能と役割とをいっぺんに失った。

 もしも生きていれば、勇一郎の頭にはなお次のような言葉が浮かぶはずだった。(手に入るはずのなかったものが、手に入れられる形で現れたんだ。出来過ぎてる!)しかし彼の全存在がばらばらに吹き飛んでしまう方が先だったために、そうした考えが言語の姿をまとうことは、ついになかった。


 六


 尋常でないやり方でブレーキをかけながら電車が滑り込んで来ると、そのけたたましい金属音のために、ホームにいた人間のほとんどが何か異変の起きたことを感じ取った。それはまた、この電車に乗っていた乗客にとっても同じであった。

 澄花が、ホームの最後尾付近のこの位置を選んだのは確実性を期すためであったが、この確実性は実際に機能をして、勇一郎の生命はやって来た電車によってどこか遠い場所へと連れ去られてしまった。その瞬間をすぐそばで過ごした澄花であったが、突如として視界を遮られ、轟音と振動とに身を包まれたこと、彼女が五感を通して知覚出来たのはそれだけだった。

 やがて、ホーム下にいた澄花は助け出された。車両の前面を汚していた飛沫も拭き取られた。そして最後には、止まっていた電車も運行を再開した。

 実際、こうした事態に対応するための手順は、鉄道会社の中では体系化されていた。そうしてそれが手はずに従って処理されている限り、出来事に対して、この場に居合わせた無数の人間が感じるものとは、足止めを食ったことへのいら立ち、ただそれだけであった。出来事が特別なものでありうるのは当事者にとってのみで、他の全ての人間からすれば、これは今までにたびたび起こってきた、今もしばしば起きている、数ある出来事の一つに過ぎなかった。


 こうして、澄花を助けたのち勇一郎は死に、死のうとしていたはずの澄花は生き延びたのだった。電車に飛び込もうとした少女を少年が助け、かえってその少年が電車にひかれてしまった。地下鉄の職員も、警察も、勇一郎の両親も、出来事に対する認識は一致していた。

 澄花はいくつかの質問を受けそれに答えなければならなかったが、彼女は客観的にそうと言えることのほかは口にしなかった。自殺するつもりで、自分は線路へと立ち入った。そこへ、同じ高校へ通う勇一郎が現れて、自分をホーム下の退避スペースへ突き飛ばし、これを阻止した。そこへ電車が来た。その時、勇一郎はまだ線路の上にいた。そう答える一方で澄花には別の、もっと主観的な見解があった。彼女はその見解を口にはせず、そうした見解を自分が持っているということさえ、決して誰にも気付かせなかった。

 あの時、澄花を突き飛ばした後で自身もまたホームの下へ退避するだけの時間的余裕が、勇一郎には確かにあった。彼にその時間があったのを澄花は見ていたし、彼がそうしようとはしなかったのを、澄花はまた確かに見ていた。勇一郎は何も言わなかったし、澄花は何も聞かなかった。ただ彼の目と表情とを見ていた澄花には、その意図は明白な、取り違えようのないものと思われた。

 勇一郎はわざと死んだ。儀部勇一郎は澄花を助け、そして自殺した。ただ一人澄花だけが、そのことを分かっているのだった。

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