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3章

 一


 連休明けの火曜日、朝、勇一郎は登校する時、当然その日も自分が校門のところで澄花と顔を合わせるものと思っていた。実際にはそうはならなかった。自分の前にも後ろにも同じ学校の生徒が歩いている中、彼は自分の教室に着くまでに面識のある誰とも接触しなかった。冷静に考えるなら、同じ電車を降りたからといって全く同時に校門に到達するとは限らないのは、それが偶然に一致することが時にはあり得るのと同じくらい、当然のことであるはずだった。しかし勇一郎はこれを当然と思うよりも何かがおかしいように感じ、納得するよりも不可解さを覚えたまま、一日を過ごした。

 授業が終わって教室を出る時、彼は自分でも気付かないうちに早足になっていた。昇降口を出ると外にはすでにたくさんの生徒が歩いていて、一人また一人と校門から出て行った。澄花の姿はその中になかった。

 次の日の朝も勇一郎は澄花に出会わなかった。それは非常にありうることで、全くおかしなことではないというのに、そのように考えることが勇一郎にはどうしても出来なかった。彼にはまるで、異常な事態の始まりの、その発端のささやかな兆候を、自分が正確に感じ取っているように思われた。

 人知れずそんな緊張状態で一日を過ごした勇一郎は、その放課後、彼らしからぬ大胆な行動を取った。それは普段の彼なら決してしないようなことで、普段通りの冷静さを欠いている今の彼には、それが出来たのだった。

 ホームルームが終わると勇一郎はすぐさま教室を飛び出した。数人の同級生がその様子をいぶかしんだが、それは勇一郎の認識の外側の出来事だった。大急ぎで昇降口を出てみると、やはり少なくない生徒がすでに下校している。それはおそらく澄花のクラスがある北棟の生徒たちだった。澄花の姿は見当たらなかった。勇一郎にはこの後どうするのかの考えはなかったが、とっさの思い付きで、彼はまた急いで校舎へと戻った。

 自分が出て来た昇降口ではなく、北棟の昇降口から勇一郎は校舎へ入った。彼は二年八組の教室へ向かった。それは澄花のクラスだった。彼が着いた時、二年八組の教室にはまだ残っているものがあった。二人の女生徒が、一つの机を挟むように向かい合わせに座って、何か楽しそうにしゃべっていた。勇一郎は躊躇した。しかし教室の扉は開いていて、その戸口に突っ立っている勇一郎の不審な姿に、女生徒たちはすぐに気付いてしまった。自分に向けられている二人分の、不審なものを見る視線のために、勇一郎は躊躇し続けることをあきらめなければならなかった。

「あの、今出澄花さん、は、このクラスですよね。」

 つっかえながら勇一郎は言った。女生徒たちはぽかんとしている。勇一郎はさらに言った。

「今日は、もう、帰ったのかな。」

 すると女生徒の一人が答えた。

「今出さん、休んでるよ。昨日も今日も。」

 これだけのことだった。簡単過ぎる言葉の意味を飲み込むために、勇一郎が要した時間は数秒に及んだ。そしてばかに丁寧に「そうですか。ありがとうございました。」と言って、勇一郎はその場を離れ、帰路についた。


 二


 明くる日は木曜日だった。朝、やはり澄花には会わず、しかし勇一郎の内部は、前日と比べると落ち着いていた。もやもやとした感じは依然として残っていたが、もやもやとしたものが湧くのと同時に「澄花は学校を休んでいる」ということが頭に浮かんで、一時的にこれを鎮圧していた。

 ある授業と授業の間で教室の移動があった。廊下は大勢の生徒であふれていた。どうやら教室移動があるのは勇一郎のクラスだけではないようだった。行き交う生徒たちのほとんどが勇一郎の知らない顔だったが、彼はそもそもそれを判別するような注意を払っていなかった。

 二棟の校舎を連絡する渡り廊下があって、そこへ一番近い階段の前の広い踊り場を、勇一郎が通った時だった。

「あ、ねえねえ、ちょっと。」

 こんな風に呼び止められる心当たりは、どう考えても何もないはずだったが、それでも彼は立ち止まって声の主を探した。それは彼が自分で考えて取った行動というよりは、彼の体が勝手に起こした反応だった。その声は、勇一郎が初めて聞く声ではなかった。

「ねえ、今出さん、今日は来てるよ。」

 声の主は勇一郎を捉えるとそう言った。彼女は昨日、二年八組の教室にいたあの女生徒だった。勇一郎はまた一瞬、停止しかけていたが、そうしなければと思って急いで「ありがとう。」と言った。

(今日は来ているんだ。帰りに、下校する時に、何とかして捕まえよう。)そう勇一郎は考えた。捕まえて、それで自分はどうしたいのか、彼は知らなかった。なぜ自分が澄花に会おうとしているのかを彼は考えず、ただ会わなければということだけを考えていた。

 放課後、近くの席の級友に「じゃ」とあいさつをして、勇一郎は教室を出た。そして廊下に出たとたん、彼は弾かれたような勢いで走り出した。昇降口を出る。北棟の生徒がもう外を歩いている。澄花はいない。勇一郎は走り、校門を抜けると左を見た。まばらにではあるが、同じ制服の後ろ姿が、ずっと先の方まで続いていた。間を置かず、勇一郎はそちらへ向かって走って行った。それは彼の通学路ではなかった。同じ駅の、別の出口を利用している生徒の通る道だった。勇一郎はその道を知らなかったが、点々と続いている制服の後姿を追って、それらを順に追い越して行きさえすれば良かった。

 後ろ姿は勇一郎の目にはどれも同じで、同じ服を着た同一の記号だった。そうした記号の中から既知の特殊性を見分けるのは簡単なことで、彼にはそうしようと意識する必要すらなかった。一度覚えてしまった特定の個人の姿に、気付かないでいるというのは出来ないことだった。それはもはや判別するということですらなかった。目で見ることとそれを認識することが行われるのは同時だった。それが澄花だと勇一郎が認識したのは、その姿が彼の目に入った時だった。見ることと気付くことの間には時差がなく、そういう時差を、勇一郎はもう失っているのだった。


 三


「今出さん。」

 澄花の後ろ姿が見えて、それへ走って追いつき、追いつく直前のところで勇一郎は声をかけた。

 澄花は立ち止まり、振り返った。勇一郎は速度を落とし、澄花のところまで来ると止まった。息が少し、上がっていた。そんな彼を見ると澄花は、にやりと、例のあの笑みを浮かべたのだった。

 この、澄花の笑みを見て、勇一郎は当惑した。勇一郎にはそれが、これまでに何度か見てきたのと同じあの笑みだということが分かった。ところが、それなのに勇一郎にはこの笑みが、澄花が今までに見せたのとは全くの別物であるように思われた。何かがおかしい。表現を促している感情に対して、その表現に用いられている表情が正しくない、何かが間違っている。そんな印象が勇一郎を打った。

 澄花の様子に面食らった勇一郎が何も言えずにいると、澄花はまた前を向いて歩き出してしまった。勇一郎もそれについて行った。二人は無言のまま駅に着き、電車に乗った。勇一郎が澄花と一緒の改札をくぐり、同じ車両に乗るのは、不自然なことに違いなかった。ただ彼は何かをしなければ、と感じていて、しかし何をすることも出来ないまま彼女と一緒に電車に乗ってしまった、というだけだった。澄花の方にはそんな勇一郎を気にしている様子がなかった。

(どうして休んでいたのか、そう聞くだけだ。)無言で吊り革につかまって、走る電車の揺れを体に受けながら勇一郎は考えた。(ただ一言、聞くだけだ。それで、風邪を引いていたとか、そんな答えが返って来る。それで済む。それだけのことだ。)

 このように勇一郎は、その一言を言うことがいかに簡単であるかを、何度も心の中でくり返した。しかし実際には、いつまで経っても彼はそれを言うことが出来ず、それを言う瞬間を逃せば逃すほど、言えないまま時間が経てば経つほど、その一言を口にする困難は増していくように思われるのだった。

 そうしてついに電車は彼らの降りる駅に着いてしまい、困り果てた勇一郎は、澄花と一緒の改札から地上へ出てしまった。これ以上は無理だった。澄花は勇一郎が見えていないかのように歩いていたが、出口を離れ、少し行ったところで立ち止まると、言った。

「どうしたの?儀部君。」

 勇一郎は自分が咎められているような感じがした。澄花がこれまでずっと、勇一郎を不審がる様子を見せずにいたのが、まるでこの一言で一気に清算されているようだった。もう勇一郎には、これ以上黙っていることは許されなかった。


 四


「今出さん、学校、休んでただろ。」

 勇一郎は言った。返事はなく、澄花は黙って勇一郎の目を見つめているだけだった。

「風邪でも引いていたのかい。」

「そんなのわざとらしいよ。もう知ってるんでしょ。」

 澄花はほとんどにらむような目で勇一郎を見ていた。そんな目で見られることにも、澄花の言った言葉にも、勇一郎には心当たりがなかった。

「今出さんが何を言っているのか分からない。昨日、クラスの人に聞いたら休みだと言われた。今日、その人から、今日は来てるって教えられたんだ。俺が知ってるのはこれだけだよ。」

 やはり恨めしそうな顔で自分を見ている澄花を見て、勇一郎はなおきまりが悪かった。しかし何も知らないのは本当で、それを正直に言った以上、後は澄花が何か言ってくれるのをただ待つのみだった。

 かなり長い沈黙があった。それがかなり長いものに、勇一郎には感じられた。

「死のうとしたの。」

 世界が無音になって、その言葉だけを自分は耳にしたのではないか、そう勇一郎は思った。なのに彼は、自分がそれを聞き落としたのではないかとも同時に感じていた。

「私、死のうとしたの。火曜日に、睡眠薬をたくさん飲んで。でも死ねなかった。病院で目が覚めて、家に帰って、昨日も一日家にいた。」

 澄花の話す態度には毅然としたものがあった。勇一郎は存在しない何かによって周囲の空間が埋まってしまっているような、そのせいで身動きが取れないような窮屈さを感じた。

「それで今日は、もう大丈夫だからって言って、出て来たの。」

 こう言った後、澄花は目を伏せていたが、しばらくするとまた顔を上げて言った。

「何があったのか、聞きたい?」

 勇一郎は返事をしようと思ったものの、声が出なかった。口を開くことさえ出来なかった。それで彼は、ただうなずいただけだった。澄花の視線を受け止めるために瞳を前方に固定したまま、頭だけを動かす、ぎこちない動作だった。

 澄花は最初「急に思い付いたわけじゃないんだよ、別に。」と言った。勇一郎はそれが自分に向けて言われたものと思えなかった。かといってそれは独り言のようでもなく、まるでこの場にいるもう一人の不可視の存在に対して、何かを断っているようだった。続いて以下のことを語る時には、澄花の声はもっとはっきりしたものになっていた。

「朝起きた時に、ああこれは駄目だ、って思ったの。もう無理、本当にもう無理、っていう感じがした。」


 五


「いつもより早く目が覚めて、いつもの起きる時間まではあと一時間くらいあった。一時間、私には考える時間があった。私は今日死のうと思って、そのための方法を頭の中でくり返した。普段ならまだ眠っている時間に、私はそれをしたの。そうしてその方法を頭の中で確認しているうちに、目覚ましが鳴った。私はお母さんに、風邪を引いたみたいだから学校を休むって言った。寝ていれば大丈夫だから、そう言って私は部屋にこもった。そのうちにお父さんは仕事に行く。お母さんも、家のことを済ませると午前のうちに一度、買い物に行く。私はそれを知ってた。私は自分の部屋で、お母さんが出かけるのを待った。」

 勇一郎には話が決定的な瞬間へ差しかかっていることが分かった。澄花の話し方が、まるで彼女ではない別の誰かを被害者とする罪の自白をしているように聞こえて、勇一郎にはそれが恐ろしかった。

「お母さんが出かけるのが分かると私はすぐに動いた。私は前にお医者さんで睡眠薬を出してもらったことがあって、その薬がまだたくさん残っていることも分かってた。私はそれを一度に飲んで死のうと思ったの。薬の場所は分かっていたから、私は頭の中で練習しておいたことを、その通りに実行した。それで気が付いた時には病院にいた。お母さんは出かけた後すぐに、何か忘れ物を思い出して家へ戻ったんだって。それで倒れている私と、転がっている薬の瓶を見つけた。おかげで私は助かった。病院で説明を受けている時、こんなにも聞かされていて退屈な話ってないな、と思ったよ。」

 そう言って澄花は笑った。それはごく自然な笑みで、自嘲や皮肉っぽいところがどこにもなかった。この場合にはかえって不自然でさえあるその笑みに、勇一郎は注意を引かれたものの、それを深く考えるには彼の頭はあまりに忙しく、余裕がなかった。

「お母さん、泣いてた。」笑みを収め、澄花が言った。声には冷たさがあった。「でも昨日、お母さんは一日家にいたけど、悲しそうにしたり私を気遣うような素振りは一つも見せなかった。それを見せないようにって努力していた。私にはお母さんが無理に笑ってるのが分かった。それで、私、気が付いたんだ。お母さんは今、無理にでも笑顔を作って、これがいつか本物になればいいって思ってる。お母さんがしているのは、今、不幸な出来事を耐えて、この不幸に終わりが来るのを待ってる、そういうことなんだ。それに気付いて、目の前で一生懸命それをやろうとしているお母さんを見ていて、私は、これが怖いことだと思ったの。」


 六


「何か、周りの人には分からないけど、何かとても苦しい思いをして生きている人がいて、その人はもう自分の苦しみを耐えることに疲れてしまっている。周りの人たちはその人に、苦しいことが終わるまで待つようにって言う。でも終わりがあるのかどうか、あるとしたらそれはいつなのか、誰もそれを答えられない。答えられないのに、待てって言う。だけどその人は自分の苦しみを終わらせる方法を、少なくとも一つ、すでに知っているの。この方法は、きっとこの人にとっては唯一の、希望と呼べるものなんじゃないかな。ねえ、気が付いた?私が怖いと思ったのはね、この希望を自分の中に抱いているその人にとって、周りの人たちのかける待てっていう言葉は、ありもしない終わりを信じさせようとしている、そんな風にしか感じられないんじゃないかなってこと。何でみんな、そんなことばかり言うんだろう。自分たちはその終わりを信じてるからなんだよ。そうあって欲しい、終わって欲しいと思っているからなんだ。この災難にはどこかに始まりがあって、今はその最中で、そしていつかは終わりが来る。その終わりが早く来てほしい。考えてるのはそんなことなんだよ。これって凄いことだよね。全然、噛み合ってないよ。お母さんも、お父さんも、私のことを、何か病気にかかったような一時的な状態だと思ってる。今以上悪くならないように、早く治るように、そういう仕方で心配をしている。私の病気は、生きることなのに。」

 路地の向こう、大通りとの交差点をトラックが通過して、そこを通る間だけ、勇一郎たちのいるところにもエンジンの音が響き渡った。澄花は言葉を切って音のした方を見た。機械的な反応を思わせる仕草だった。彼女はまたすぐに勇一郎の方へ向き直ると、言った。

「このまま生きて、何もないって分かってるのに。みんな、生きていて何があるかは分からない、でも何かはある。そんなこと言うけど、本当に何かがあるってどうして分かるの?何もないかも知れない、きっと何もないんだって、本当はみんな、思ってるんじゃないの?そのことを忘れたり、見ないようにする、その方法が一人一人違うっていうそれだけのことなんだよ。でも、目をそらしているそのことは話題にしちゃいけないことになってる。だからまるで、そのためじゃない別の目的のためにそうしているように見える。みんなそうして生きているだけじゃない?で、私がしたようなやり方をすると、身近な誰かが泣くことになる。それってちょっと辛いよ。」

 いら立ったように、澄花は大きく息を吐いた。

「ここから脱出しようとして、手が届く、後少しのところまで行って、だけど連れ戻されてしまった。でもね、不思議なのは、一度遠ざかってから帰って来ると、そこがとても自分がこれまでずっと過ごしてきた場所には思えないの。何も変わってないはずなのに、どこにも、自分がいていいような空いているところを見つけられないの。一体今まで自分はどうやって暮らしていたんだろう。だから、もしかしたらこの窮屈さがそうなのかも知れない。私はこれが苦しかったのかもしれない。この世界の外に出る一歩手前のところまで行って、生きている時にいたところから目一杯遠ざかってみて、初めてそれが分かったのかな。それで、少し、少しだけ安心出来た。ああ、間違ってないなって。」

 澄花の声にはもう、一時のいら立ったようなところはなくなっていた。彼女の声は落ち着いていて、調子は強くはなかった。先を急ぐような様子もなく、予定されていた作業をこなすように、淡々と澄花は話を結んだ。

「私がこれを話すのは、ただ、死ぬっていうことの手前のぎりぎりのところまで行って、お母さんのそういう反応もあって、こういうのはみんな新鮮なことだったから、少し、自分の頭の中を整理したいの。そのために話すの。何かを打ち明けたいとか分かって欲しいとかそういうのじゃない。分かって欲しいなんて、そんなのおかしいと思う。分かるわけないってことぐらい、誰にだって分かるのに。もしそんなに簡単に分かってもらえるなら、死にたいって気持ちだって誰にでも理解出来るものってことになって、それならみんな、ためらわずに普段からもっと死んでいくよ。実際には人が死んだら大騒ぎなんだから、答えはもう分ってるんだよ。」


 七


 その日、夜中に勇一郎は目を覚ました。自分の部屋のベッドの上、急に現実に引き戻されて、彼が最初に感じたのは「暑い」ということだった。

 何か、不快な夢を見ていたのだという感覚があった。しかし勇一郎は、それがどんな悪夢だったのかをもはや思い出すことが出来なかった。ただその内容が、夢特に悪夢にはありがちな、非常に混乱したものだったという記憶のみが、辛うじて勇一郎の中には残されていた。

 横になったまま、勇一郎は先の澄花の様子を思い返した。電車を降りてからのあの告白を終えた後、澄花はしばらく勇一郎の反応をうかがっていたが、勇一郎が言葉を見つけられずにいるのを見て取ると「じゃあね。」と言って去って行った。その時に澄花がまたにやりと笑ったかどうかを、なぜか勇一郎ははっきりと思い出せなかった。

 澄花の語った言葉は確かに少なくはなかったが、勇一郎にはその情報の量が果てしなく膨大なものに思われた。勇一郎は彼女の言葉を思い返してそれらの解釈を試みたが、その作業には終わりが見えず、まるで無理数の計算をしているようだった。それもそのはずで、彼は澄花が実際に言った言葉のほかに、彼女が言ったかも知れない別の言葉や考えていたかも知れないことなどを、一緒くたに並べて検討してしまっていた。こうして対象の規模を無闇に膨らませているので、彼がこれを解釈し終える見込みがないのは当然のことだった。もはや眠気を感じないのに、かといってまともに覚醒しているとは言いがたい頭の状態で、長いこと、勇一郎はこの脳内の不毛な作業に打ち込んだ。

 死が、勇一郎をぐらつかせたのかというと、必ずしもそうではなかった。というのも勇一郎にとってそれは、全く不意のものではなかったからだ。勇一郎からすれば、死は、初めて会った時から今出澄花という人物に付随しているものだった。それは勇一郎が、今回初めて知らされた事柄ではなかった。

 しかし勇一郎はそれを、実際失念しかけていたのだった。休日に入る前の日、澄花と交わした会話のさなかにも、死生に触れるような言葉は実際いくつも挙がっていた。しかしそうしてそれを話題として扱っていながらも、勇一郎はそれが、澄花を当事者とする喫緊の危機であるとは感じていなかった。この認識が、澄花の告白によって破られたのだった。死は、澄花の元を去ってはいなかった。勇一郎が認めなければならないのはそのことだった。

(最初っからそうだったじゃないか。ずっとそうだったんだ。それで、今も。そう、今もだ。)

 勇一郎の思考は今、少し前へと進んだ。死が澄花の元を去っていないということは、それが今も彼女と共にあるということだった。そして先の澄花の告白は、彼女が今も失っていない方向性を、それがどこへ向いているのかを、勇一郎に強く感じさせていた。

(今にだって出来ることなんだ。失敗したなら今度はそうならないよう気を付ければいい。そしたら今度は成功してしまう。止められない。本人にその気がある限り、誰にも止められないんだ。心配したって、本人がそのつもりで、それを気取られないようにしていたら、誰にも気付かれずにやれてしまう。いつでも出来る。今にも、今頃、もう終わっているかも知れない。)


 八


(止められない。止め様がないんだ、究極的には。出来ることはない。何も出来ないんだ。)

 何かをしようとしている人間がいて、そうしようという意図を隠すことが出来る場合、周囲の人間にはそれを止めることが出来ない。これが勇一郎の内部に出現した強固な結論だった。まさにこの結論そのままの実例が、今この瞬間、澄花によって提出されているのかも知れない。それが今この時であるかも知れないという考えは、勇一郎を強い無力感の中に固定した。(出来ることはない。出来ることはない。)勇一郎はくり返した。壁にぶつかって、しかし自分の進みたいのは壁のあるまさにその方向であって、そちらへ向かうのをあきらめられないために何度も同じ衝突をくり返すような無様を、勇一郎は頭の中でやっているのだった。(出来ることはない。出来ることはない。)

 どれだけの間そうしていたのか、ついには空が白み始めた。どこかでカラスの鳴く声が聞こえて、その声はしかも一羽だけでなく複数あって、明らかに何かの連絡事項をやり取りするようなあわただしさでわめき合っているその声に、勇一郎の意識は今初めて外へと向いたのだった。カーテンの生地を貫くにはまだ光の強さが足りていなかったが、朝が、外の世界にはそれがすでに来ているのだということが、窓越しの気配によって勇一郎には分かった。

 今日が、さっきまで自分のいた場所が、すでに昨日へと成り下がっていた。勇一郎はそのことに少し面食らった。自分がここでこうして一歩も動かずにいて、終わりのない問題に考えを巡らせている間に、夜と昼との間では、一日と次の一日との間では、すでに交代が行われつつあるのだ。世界全体から置いてけぼりを食っているような気分を、彼は味わった。カラスたちの声も、カーテンの向こうにあるであろう光も、彼ののろまをあざ笑っているように感じられた。

 彼は立ち上がって窓辺へと近づいた。夜明けの空を見て、その美しさを感じて、そうすることによって彼自身、置いてけぼりの自分に対する嘲笑に参加しようという意図が彼にはあった。彼は自嘲の笑みを、窓辺へ近付きながらすでにその顔に用意していた。外の景色が突如として自分の目に入って来るよう、彼は特別素早い動作でカーテンを引いた。

 しかしカーテンを開け、外を見た時、勇一郎の顔から自作の嘲笑は消えてしまった。闇と光との間で空を支配する権利の移譲が行われるさなかにのみ見られる、まるでこの世界を可視のものにしているはずの不透明度が下がってしまい、その向こうにあるここではない別の世界が、間違ってその姿をのぞかせてしまったかのような異常な色合いが、そこにはあった。そして勇一郎の見ている前でその色合いはあっさりと姿を消し、後に現れた明けたばかりの白い空は、自分がそこをくぐり抜けてきたに違いないあの燃えるような異様な世界のことを、一切におわせてはいないのだった。

 夜明けの時、人はどんなに注意をしていても、昇って来る太陽を「動いている」と感じることが出来ない。あまりにもゆっくりと動く太陽の、動作そのものを、人の目は見ることが出来ないのだ。しかし動きとしては感じることの出来ない太陽の、その運動の結果を、人は随時目にすることになる。そしてしばしば、そこから劇的な印象を受け取る。あまりにも遅く、動きとして見ることが出来ない変化の、そのあまりの大きさに感動する。動いているということが、どれだけのものをもたらすことになるのか。勇一郎は思った。

(考えても、動いているものに追いつけない。行動する人間は、どんどん先へ行ってしまう。)

 勇一郎はまた、「今自分は何もしてはいないのだ。何もしないでいる間に、世界がどれほど変化することか。」という発見、目下何事に役立つのか定かではないこの発見を、何とかして忘れることがないようにと何度も何度も、心の中でくり返した。

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