表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

2章

 一


次の日の朝、勇一郎はいつものように学校へ向かっていた。いつものように地下鉄を降り、地上へ出て歩く。彼の前にも後ろにも、道路の反対側にも、同じ制服を着た大勢の生徒が、勇一郎と同じ方向を目指して歩いていた。駅の出口は、電車の先頭寄りと後ろ寄りとに設けられていて、この高校の生徒はその両方から出て来る。加えて、別の場所にあるほかの路線の駅を利用している生徒もいる。ばらばらのところから現れたその全てが、最後には一つになって校門をくぐって行く。こうして校内へ流れ込んで行く、その流れを構成している粒子の一つが、勇一郎だった。

 勇一郎が校門の前まで来た時だった。校門が面している道路はそうも大きくはなく、歩道も、白線と、恐らくは後になって設置されたのであろうガードレールで区切られているだけだった。この道路を挟んだ向かい側には二つ目の運動場があって、この高校の敷地の狭さを不十分ながらも補っていた。

 こうした周辺環境のためもあって、この校門前の道路では、特に登校の時間帯、歩いているものはほぼ全てがこの高校の生徒なのだった。全員同じ制服を着ていて年の頃も同じなのだから、その風貌は皆同じだった。あるのは男子生徒と女子生徒という二種の区別だけだった。しかも勇一郎は、周囲をうごめいている同輩の顔触れに注意を払う、という習慣を持っていなかった。

 道路の、勇一郎が歩いて来たのとは反対の方から来た生徒の一人が、校門の直前で立ち止まった。視界の端で行われた不自然な停止に、勇一郎は無意識に顔を上げてそちらを見ていた。それは澄花だった。澄花は顔だけをこちらへ向けていたが、勇一郎が気付いたのを見ると、にやりと笑った。そしてそのまま行ってしまった。困惑の勇一郎は、生徒が次々と登校して来る門前で立ち止まることも出来ず、先を行く澄花の背を見ながら後を歩いて行った。そして彼とは違う棟の校舎へ向かう澄花の姿をただ目だけで見送り、自分の校舎へと、勇一郎は向かったのだった。

 その日の全ての授業が終わった。帰りのホームルームで担任の講師が何か連絡事項を伝えていたが、勇一郎はほとんど注意をしていなかった。

 ホームルームが済んで速やかに教室を出る時にも、勇一郎は近くの席の級友と、最小限の「じゃ」という挨拶を交わしていた。そして教室を出ると、もう人と話す用事は勇一郎にはないのだった。だから、階段を下りて昇降口を出、校門へ向かう勇一郎の背中に声がかかった時、それは彼にとっては全く不意のことだった。


 二


「儀部君?やあやあ、奇遇だね。」

 澄花だった。勇一郎が立ち止まって振り向くと、澄花が、勇一郎の方へ歩いて来るところだった。どうやら彼女も今しがた校舎から出て来て、別の棟の昇降口を出た彼女は、自分の前を横切る勇一郎にそこで気が付いたらしかった。

 勇一郎は自分の立ち止まる動作が、意図せず急激なものになってしまったのでそれが恥ずかしかった。そしてすでにこの時点で、自分に声をかけた相手と、自分はいくらかの世間話をしなければならないのではないかという考えに、彼はおののいていた。返すことの出来る精一杯の反応として、彼はぎこちない、というよりもむしろ不自然な動きで、会釈をした。

「ホームルームで何か連絡があってね、うちの先生、要領が悪くて、そういう時は必ず長くなるんだよね。絶対もっと短く出来るはずなんだけどな。儀部君のところも連絡、あった?」

「あ、あった。あった。」

「儀部君のとこの先生はそんなに長く話さないでしょ?」

「うん、多分。」

「その差だね。同じ時間に終わったら、北棟の人の方が校門に近い分、先に出て行くはずなんだから。今日はこっちの終わりが遅かったから、前を歩いている儀部君を発見出来たよ。」

 澄花はわざとらしい、きりっとした表情でこれを言った。何か難しい仕事をやり切ったことの功績を誇っているかのようだった。そして言い終えると、今朝、勇一郎を見た時と同じあの顔で、にやりと笑った。

 澄花のこの笑顔は、含みのあるものではなく一種の癖なのかも知れない、勇一郎はそんな気がした。彼は早くも疲労感を覚えてはいたが、反対に緊張感は減じていた。「なるほど。」と言って彼は歩き出した。

 ところが校門を出ると、澄花はまた勇一郎を驚かせた。勇一郎は校門を出て右へ行くつもりだったが、彼には澄花の帰路が左だということが分かっていた。今朝、彼女が現れたのはそちらからだったからだ。

 しかし澄花は勇一郎と一緒に右へ曲がり、彼について来た。勇一郎には意味が分からなかった。困惑の中、必死の思いで彼は声を出した。

「あの、今出さん。」

「はい何でしょう。」

 澄花の声は何でも快く答えよう、という調子だった。一方で、人の疑問を買うような行動を自分が取っているという自覚は、彼女の様子のどこにも見られなかった。

「今出さん、朝は反対の道から来ていたよね。」

「そうだよ。」

 これだけだった。澄花がこれだけしか言わないので、勇一郎にはそれ以上を追求することが出来なかった。しかし少しの沈黙の後、澄花は自分で続きの説明をした。


 三


「儀部君はこっちの道なんだね。」澄花は言った。「私はずっと、向こうからしか来たことないや。電車の先頭の方に乗るからね。乗る時にね、先頭が一番、改札から近いんだよ。そこの改札の出口が家から一番近いしね。だから当たり前だよね、ずっと同じなのは。だから、貴重です。知っている人とたまたま帰りが一緒になって、その人がこっちの道だから、それで初めて、いつもと違う方から帰る理由が出来た。貴重です。これが理由。何にでも、理由は必要だもんね。」

 意見するつもりも反論する気も、勇一郎にはなかった。だが澄花の「何にでも」という言葉が彼には引っかかって、そのことを彼自身意識しないまま、相づちを打つくらいの気持ちで、勇一郎はこう言った。

「理由がいらないことも、あるんじゃないかな。」

「そうかな。そうだよね、きっと。でも理由って、何にでも、なくちゃいけないってことになってるよね。そうじゃない?人は何にでも、それにはどんな理由があるのかを聞くでしょ。理由があるのかとは聞かずに。あって当然と思ってるからじゃない?」

「まあ、確かに、『何で』って質問は何よりもありふれてる。」

 道路を渡るために、二人は立ち止まって信号を待った。その間、澄花は黙っていたが、信号が変わって二人が歩き出すと、彼女はまたしゃべり始めた。

「『何で何で期』ってあるでしょ。小さい子供が、何にでも『何で?何で?』って聞くの。大人が答えると、その答えに対しても、また『何で?』って、いつまででも聞いてくる。」

「ああ。」そういう話には、勇一郎も聞き覚えがあった。

「でも、何で?何で?って聞いていくと、最後には必ず、何ででもない、理由なんかない、ってことになる。でも大人はそれを答えにするのを嫌がる。何で人は生きてるの?って聞かれて大人は、何ででもないよ、とは答えない。違う風に答えようとして、呼吸とか脳とか遺伝子とかの話をするんだけど、でもそれは『何で?』に対する答えにはならないよね。で、最後には答えるのをやめて、会話を終わらせる。何ででもない、って答えるよりも、何で?って質問することの方を、子供にやめさせる。何がそんなにいけないんだろう。なんでそんなにかたくななんだろう。」

 独り言のようにこの最後の部分をつぶやきながら、澄花は「あ、これも『何で』だね。」と言って笑った。


 四


 二人は駅に着いた。地上の出口から、地面の下へと続いている階段を下りて、そして改札を通ってホームへ出るまでの間、二人は無言だった。「それが、」それが君が死のうとしていた理由なのか、という質問が、さっきから勇一郎の頭にはあった。それをそのままでは口に出せないので、代わりになる質問を、彼はこの無言の時間に考えていたのだった。そして今、彼は口を開いた。

「それが分かったら、今出さんの『何で』が一つ、解決することになるね。」

 澄花は振り向いて勇一郎を見た。無表情だった。そして無言でもあったが、すぐに、彼女はまたあのにやりとした笑みを作り、こう言った。

「解決、するのかなあ。『何で』に答えたら、その後には次の『何で』が続くんだからね。でも儀部君にはせっかくこの話をしたんだから、協力してくれるのは歓迎です。じゃあ私、あっちに行くね。」

 そう言うと澄花は本来の彼女の乗車位置、ホームの反対の端を目指して歩いて行った。

 勇一郎は目の前にあるホームドアの根元の、床との境目の部分を見つめながら電車の来るのを待った。ホームドアの真新しい色味が、少しくすんだような床のそれと、奇妙な対比をなしていた。その機能から言って、二つのものはそうして一緒にあるのが当然のように思えたし、同時に同じ強さで、その取り合わせを不自然だと指摘することが出来るようにも、勇一郎には思われた。彼の頭の中にはいくつかの、それぞれ無関係に見える事柄が次々と浮かんで来て、それらに対する何らかの考察が行われていた。勇一郎にはそれがひとりでに行われているように思えた。考察という行為自身が主体となって、勇一郎の内部に間借りしては一心に自分の仕事をこなしている。勇一郎はその全てを目撃していながらも何が行われているのかを知らなかった。考察の仕事が終わりに近づく頃になって彼はその意味を理解し、完成した成果を受け取ると、彼はもうそれを自分のものとして扱うことが出来るのだった。


 五


 翌日の登校時、前日の朝の時と同じようにして、勇一郎は澄花と遭遇した。考えてみれば当然のことだった。同じ時間に同じ電車から降りて来るのだ。今までにも、互いを認識していないだけで、二人は何度もこうして同時に校門をくぐっていたのかも知れなかった。

 校門のそばまで来た時に勇一郎は顔を上げた。そこに澄花はいた。探すより先に見つかり、見つけるよりも見つけた後でそれが彼女だと確認することの方が遅いという、不思議な状態を勇一郎は体験した。澄花の方でも同時に勇一郎を認めたようだった。勇一郎は声をかけた。

「今出さん、昨日の答えが分かったよ。」

 澄花はこれを聞くと、言葉では返事をせずに、ただまたにやりと笑った。

「おはよう。儀部君。」

 勇一郎も「ああ、おはよう。」と言い、二人はそれぞれの校舎へ向かった。

 この朝の時もそうだったが、この日の下校の時にも、澄花と上手く落ち合えるのかという心配を、勇一郎は全然していなかった。それは自信があるのでなく短慮のためで、それを心配するということを、それに失敗して自分たちが行き違いになる可能性があるということを、勇一郎は全く知らないのだった。

 放課後となり、昇降口から外へと出た勇一郎は、校門の少し手前にいる澄花の姿を認めた。周囲には、下校して行く生徒がほかにもいた。勇一郎の目にはそれは、一人一人の誰かではなく、あくまで『下校していく生徒』という集合体だった。人の姿形は一つ一つが特殊で、その顔にはほかと見分けが付かないものは一つもない。しかし一人一人を見ようとするその時までは、百人の人間はあくまで百人という集団であり、百通りの異なる一人一人とはならないのだった。個々を見てはおらず、見ていないために見分けも付かないという点で、勇一郎の無関心は百輪のたんぽぽを見ているのと一緒だった。

 しかし一度見分けた特殊性を忘れることは、勇一郎の自由にはならなかった。それをもう一度見失うのは不可能なことだった。今出澄花という特殊性を得た対象が、勇一郎の目に、もう一度『下校して行く生徒』という集団に回帰することは、仮に勇一郎がそうしようと努めたとしても、決して出来ないはずだった。

 澄花は接近して来る勇一郎に気付くと、「やあ儀部君。」と言った。「ああ、今出さん。」と勇一郎も言い、二人は校門を出て行った。


 六


「前に何かの本で読んだんだけどね。」そう前置きして、勇一郎は話し始めた。「現代において人間は、歴史上かつてないくらいに生きることの意味を見失いがちになっていて、それには二つの理由がある。一つには生物として従うべき本能がその強制力を失ったこと。本能に従うだけの動物的な生活から抜け出すことによって人間は、それに従う以外の生き方などあり得ないような、それに従っている限りその生き方は正しくて疑いの余地がないような、そういう強い命令を聞くことがなくなった。人間の耳にはそれが聞こえなくなったんだ。そしてもう一つには伝統が強制力を失ったこと。伝統という、人間によって人間に制約を課すこの人造のおきてが、もはや人間を強く縛るものではなくなったということ。そしてこの二つのものがなくなった後でこれと置き換わるものが、自由なんだ。この自由、これこそが、何をすべきかを知ることのなくなった人間に、何をしてもいいのだという無制約を許すことによって、自身、人間にとってありがたい以上に重荷であるような、そういうものになっているんだ。」

「聞いているだけでも、重荷を背負っている気分になってくるね。」

「この自由が重荷であるということは、これが許されている状況、つまり人間が生きているのは『何ででもない』という、この状況自体もやはり重荷であるということだよ。人間が生きているのは『何ででもない』という結論を人が嫌がるのは、これが理由なんだ。つまりは単純な現実逃避だよ。忌まわしくも明白な事実を、触れずにおくことでなしにしようとする、心の働きなんだ。」

「それが、私の『何で?』に儀部君が見つけてくれた答えなんだね。」

 疲れたような笑みを浮かべ、澄花が言った。

「うん。ここからは俺の考えなんだけど、重荷が重荷であるためには、それに与えられている価値が大きいことが大事なんじゃないかな。どうでもいいものは重荷にはならないだろ。この場合の重荷とは自由のことで、自由が人の重荷になるのは人がそれに大きな価値を認めているせいなんだ。」

「自由は尊いものでしょう?」澄花がぽかんとしながら言った。

「でもこの場合の自由は何も制約がない、何でもいいってことだよ。だけどそれって違う見方をすれば『何もない』ってことじゃないか。ところで『何もないもの』なんかに、一体どんな価値があるんだ?」

 勇一郎と澄花は駅に着くと階段を下り、改札を抜け、ホームに立って電車を待った。そうして待つ間も二人は話していた。やがて電車が来て目の前でドアが開くと、二人はそれに乗った。会話は続いていた。


 七


 「自由の尊さを真剣に受け止めるのもいいけど、あえてそれと不誠実に向き合うことだって、自由には含まれているんじゃないか。さっき話した本にはね、人間一人一人が、自分で自分の生きる意味を考えていくことの大切さがくり返し書かれているんだ。だけどそんな風に一人一人が好き勝手に考え出した『生きる意味』なんて、本人にとってそれがどんなに大切なものだとしても、ほかの誰かにまで通用するような価値をそれが持つとは期待出来ないよ。だったら逆に、ある人の『生きる意味とは何か』という問いに対する答えが、『意味なんかない』というものだったとしても、ほかの人間には誰にも、その答えの価値を否定することは出来ないはずなんだ。」

「自己満足の世界だね。」

「そうさ。生きる意味なんて大げさに言うけど、そんなの誰にだって考え出すことが出来るんだ。一秒で作れて、材料費は0円だ。出来上がった作品を大事にするのは作者の自由だけどね、何も作らないことだって、同じ自由じゃないか。意味なんかない、何もないところから始まったんなら、意味を自分でこしらえるのも、何もないままにしておくのも、どちらも同じ自由じゃないか。」

 勇一郎がかくも力強く『生きる意味を見出さずにいることの正当化』を主張していると、いつの間にか、これを聞いている澄花はクスクスと笑っていた。勇一郎はなぜ彼女が笑うのかが分からなかったが、不思議と馬鹿にされているとは思えなかった。それで彼は話し続け、その間澄花は笑い続けた。

「どうして人はみんな、生きることに意味を持たせたがるんだろう。」笑い止んだ澄花が言った。「生きることには意味がある。意味もなく生きてちゃいけないみたい。生きることは素晴らしい。そう思えない人が、いたらいけないみたい。」

 勇一郎は澄花の表情を知りたいと思った。しかし実際に顔をそちらへ向けることは出来なかった。彼は相づちも打たずにいたが、澄花はそれを待っている様子もなく続けた。

「意味なんかない、素晴らしくもない。それが誰にとっても当たり前だったらいいのに。だって嫌じゃない?自分が生きてるのは何ででもないと思ってて、しかも何ででもなく生きていることを後ろめたく思ってるのって。」

 電車は走り、駅に停車するそのたびに、甲高い金属的な騒音を発した。そして走り出して速度が出るとそのたびに、トンネル内に響く轟音が、聴覚に訴える毛布のようになって車内を満たした。

 二人の降りる駅に近付いて電車が減速し始めた時、澄花が「ねえ、あの橋にまた行ってみようよ。」と言った。駅に着くと二人は電車を降り、改札へ向かった。


 八


 自転車を押した勇一郎と澄花は、駐輪場の地上出口から出て来ると、河川敷を目指して歩いた。勇一郎がいつも通っているのとは違う道だった。「この先で、電車が地下から地上に出て来るでしょ。それで高架になって川を渡るでしょ。だからこうやって線路沿いを歩いて、川へ出ようと思ったの。」澄花は、二人が出会った日の、自分が河川敷へ出るまでのことを言っているらしかった。

 しばらく行くと堤防にぶつかった。土手の上の歩道へ上がり、開けた景色の中を二人は歩いた。あの橋は遠くに見えていて、歩くほどに近くなった。反対に、背後にあった、電車が川を渡るための鉄橋はどんどん小さくなっていった。

 橋が目の前に横たわっているような近さまで来ると、澄花が立ち止まった。勇一郎は澄花がどうするのかを、何も問わずに待った。澄花は橋を見つめていたがそれ以上近付いては行かなかった。代わりに、しばらくすると彼女は土手を下って行って、その中腹の水平になっているところに座った。勇一郎も、ついて行ってそばに腰を下ろした。そして、二人はここへ来るまでにしていた何かの話の、続きを話し始めた。

 ずいぶん長いこと二人はそうしていて、最後には太陽が低くなってきた。澄花が言った。

「帰らなきゃ。何だかいつまででも明るいから、時間が分からなくなっちゃうよ。」

 二人は立ち上がって、来た道を戻って行った。会話はいつか途切れ、二人はしばし無言になった。そうして歩きながら前方の空を眺めるうち、勇一郎の頭には、澄花と交わした言葉のいずれとも関係のない、全然別の考えが浮かんで来た。

 河川敷のずっと向こうでは太陽が沈みかけていた。建物の影のすぐ頭上に、日中には見ることの出来ない真ん丸な姿の太陽があった。あかね色に燃えて液体のようにうるんでいる太陽からは、今にも、灼熱のしずくがしたたり落ちて来そうだった。凄まじい色合いに染まっている空が、勇一郎には美しいというよりも、むしろ気味の悪いものに感じられた。

 この世の終わりのような空だと、勇一郎は思った。否、世界はとっくの昔に終わっていて、自分たちの生きている日々も、そこにある昼とか夜とかいったものも、全ては幻の、この世界自身が見ている夢のようなものなのではないか。あの恐ろしい色をした空は、もう何百世紀も前からそうあるような、世界の現在の姿なのではないか。生命を失った肉体が朽ちるように、どんな物質も変化せずにいるということが出来ないように、世界にとっては永遠こそが終わりなのではないか。こんなことが勇一郎の頭の中を通過して行った。勇一郎はそれを自分で考えた気がしなかった。誰かが耳元でしゃべるのを聞くようにして、通過していく思考を彼は見送った。


 九


「儀部君は話すのが上手だね。面白いことがたくさん言えるから。さぞやクラスで人気者でしょう。」

 澄花がこう言って、不意に勇一郎の意識は現実の会話へと引き戻された。あまり考えずに、思い付いた最初の言葉を勇一郎は口にした。

「俺は学校で、ほとんど誰ともしゃべらない。」

「そうなの?それは意外だね。むしろ解せないね。だって儀部君はさ、自分の言葉を持っているじゃない。自分の言葉で話すのって、難しいこともあるし、出来ない人もたくさんいるよ。だからみんな、それが出来る人の言葉は聞きたいんじゃないかな。」

 そんなことはない、と勇一郎は思った。人にとって大切なのは自身の意見で、他人の口から出る意見に何の用があるだろう。自分の言葉など持っていたところで、そんなものを誰もが口にするようになったら何事も収拾がつかなくなる、そう彼には思えた。それに勇一郎は彼自身、自分の言葉を口にすることも、他者のそれを聞き取ろうとすることも、早くに放棄してしまっているのだ。

「そんなこと、ないよ。」

「そうかな。」

「うん。」

「じゃあ、おしゃべりな儀部君と物静かな儀部君がいるんだね。」

「人格が入れ替わるみたいに言わないで欲しい。学校にいるのも、ここにいるのも、同じ俺だよ。」

 これを聞くと澄花は「そっか。」と言ってクスクスと笑った。勇一郎は今度こそ本当に、恥ずかしかった。彼は自分が笑われていると感じていたし、恥ずかしくもあった。しかしそれにもかかわらず、彼はこの時間が嫌ではなかった。教室で黙っている自分とここで澄花を相手によくしゃべる自分とは同じ人物なのだという先の発言に、勇一郎は、何か非常な勇気がなければ付与できないような意味合いを込めたつもりだった。澄花の様子を見る限り、その伝達は失敗したらしかった。決定的なものばかりがいくつも欠けていたが、彼は自分が今いる状況の、不完全で不安定な感触を、それが何だか分からないまま楽しんでいた。


 駅まで戻って二人は別れた。急いでもいないのに、勇一郎は自転車を飛ばして帰った。そのせいで家にはあっという間に着いてしまい、その時彼の息は上がっていた。

 翌日は土曜日で、週明けの月曜日が祝日だったため、勇一郎が次に学校へ行ったのは火曜日のことだった。その日、勇一郎は澄花の姿を見ることはなく、そしてその次の日も、勇一郎が澄花と会うことはなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ