1章
前々から温めていたアイディアを、今回こうして形にすることが出来ました。扱っているテーマは死生に関するもので軽い内容ではありませんが、現在の自分の力が及ぶ限りで、書きたいものが書けたと思います。書き終えた今、この作品が誰かに読まれ、何らかの印象を持って受け取られる、それを思うことが楽しみとなっています。どうぞ、よろしくお願いします。水原
一
その日の朝、勇一郎はいつもの通りに駅のホームで電車の来るのを待っていた。通学のために乗る、毎朝同じ時間の電車。地下鉄の駅は学校や会社へ向かう大勢の人で混雑していた。
電車を待つ人の列に並びながら勇一郎は、前方にある人混みの奥の、ホームドアのさらに向こうの、壁に貼られた広告に視線を向けていた。それは広告である以上、伝えるべき何らかの内容を持っているはずだったが、それを毎日目にしている勇一郎には、もはやそこに何も描かれていなかった場合と同じくらいの情報しか受け取ることが出来なかった。
いつもと変わらないこの視界の中で、何かが動いた。それは人だった。それは、学生服を着た女生徒だった。その女生徒は軽やかな動作でホームドアを乗り越えると、その向こうへと消えた。ほとんど一瞬のことではあったが、勇一郎はこの女生徒の姿をはっきりと見た。そしてそれが誰であるかを見分けるには、この一瞬で十分だった。
突然、時が止まったように、世界の全てが静止した。静止した世界で、しかし勇一郎は、なお自由に思考することが出来た。急がなくては。彼は考えた。急がなければ間に合わなくなる。そして、勇一郎はあの女生徒の元へと動き出した。彼の頭の中では考えが激しく巡り、この数日間の出来事が次々と思い起こされていた。
二
それは彼の高校生活が二度目の春を迎えた五月半ばのことだった。勇一郎は地下鉄を使って通学していた。家から駅までは歩けない距離ではなかったものの、彼はその間を自転車で移動していた。学校へ行き、授業が終わればすぐに下校する。地下鉄に乗り、最寄りの駅で降り、自転車に乗る。過去一年の間くり返され、今また二年目を迎えている、これが彼の日常だった。
部活動には参加しておらず、放課後に一緒に遊ぶような友人も、勇一郎にはいなかった。学校ではクラスメートと会話もするが、その関係性は教室の中に限られていた。クラスメートと接する勇一郎の態度は特に悪いものではなかったし、クラスメートの中のあるものが、放課後の遊びに勇一郎を誘おうとしたことも、一応はあった。しかし授業が終わると脇目も振らずに教室を出て行ってしまう勇一郎を捕まえることは出来ず、やがて早い段階で彼らは、そうした誘いを勇一郎は未然に避けているのだと考えるようになった。
自分の態度が無愛想と取られるかも知れないということを、決して、勇一郎は考えないわけではなかった。しかし、だからといって、他人と深く関わりたいという希望を彼は持ってはおらず、欲しくもないものを欲しているかのように振る舞うことは、勇一郎には出来ない芸当だった。自然、彼の態度はきっぱりとしたものとなり、彼が踏み越えたくないと思っている一線は、周囲からは、彼が踏み込まれたくないと思っているであろう一線として、無理なく理解されるようになった。
こうして彼の学校生活は最後には、今あるような姿へと落ち着いていった。この危な気ない、平坦な毎日は、勇一郎にとっても好ましいものに違いなかったし、それを生み出した要因の一つに自分自身の振る舞いが含まれることを、彼は自覚してもいた。
三
駅から家への帰路、勇一郎はよく寄り道をした。行く先は決まっていて、図書館か、図書館でなければ古本屋か、二つのうちのどちらかであった。この二つのいずれもが、勇一郎の住む地域から川を渡った先にある、隣町に位置していた。そこは勇一郎が降りる地下鉄の駅の一駅先にあたり、都心からは一駅分遠ざかるのだが、街としては勇一郎の住む地域よりも栄えていた。
自分の地域にももちろん図書館ならあるのだが、勇一郎は心の中でいつも「お化けが出そうな建物」と評している地元の図書館よりも、隣町の真新しい図書館の方を好んだ。古本屋は勇一郎の町には一軒しかなく、小さな店舗にぎゅうぎゅうに詰め込まれている大量のマンガ本を見てすぐに、勇一郎にはここでは用が足せないということが分かった。隣町の大きな古本屋は、自分の町では満たすことの出来なかった勇一郎の需要に応えてくれた。
彼は本が好きには違いなかったが、それは『暇を潰す手段の中では読書が一番気に入っている』ということでしかなかった。ほかに特別したいことがあるわけでもなく、読書自体も、強いてしたいことではなかった。彼は試験勉強や食事や寝る時間の都合に、読書を優先させたことは一度もなかった。勇一郎が本を読む動機は、何をしていてもいい時間を何かにあてるため、そのことに限られていた。
電車から降りると勇一郎は、地下で駅とつながっている駐輪場へと向かう。地上の、駐輪場の出口から自転車と一緒に出て来ると、その足で勇一郎は隣町を目指すのだった。
路地を抜けて川と並走する道路へ出ると、一方の側には住宅が立ち並び、もう一方には堤防が高くそびえてどこまでも続いている、その道を勇一郎は走った。ここを通る間に彼が覚える閉塞感は、橋へ上がって堤防を越えた時に開ける視界によって償われる。こんなにも、空が無遠慮に人間の生活をのぞき込んでくる場所を、勇一郎はほかに知らなかった。ほかのどんな場所でも、大なり小なりの人工の建造物が、大胆な閲覧者の視線を遮るために手を伸ばして、地上の人間の私生活をかばってくれていた。ここにはそうした庇護がなかった。この橋を渡る間、勇一郎はいつも少しだけ姿勢を正し、少しだけ顔を上げた。自転車を漕いで橋を渡るという行為を、自分が適切に遂行していることを誰かに対して示すかのようなこの姿は、しかし無意識のもので、勇一郎は自分がそんな風にしているとは気付いていなかった。
川の幅は広く、自転車でこの橋を渡るのには五分ほどかかった。その日、勇一郎が彼女と出会ったのは、いつものようにこの橋を渡っている時のことだった。
四
古本屋を物色した帰り、勇一郎は隣町の側からこの橋へ上がり、自分の家へ向けて自転車を漕いでいた。
橋の真ん中辺りに一人の女生徒が立っていた。学生鞄を足元に置き、欄干に手をかけて、その女生徒は川の方を向いていた。制服は勇一郎の高校のものに似ていなくもなかったが、それはありふれた形のもので、彼には判断がつきかねた。
風の強い日だった。橋の上では特にそうだった。しきりに吹きつける強い風が、女生徒の髪を好き放題はね上げておもちゃにしていた。女生徒にはそれを気にする様子もなく、彼女はただ遠くを、そこに何か見るべき特定の対象があるかのように、見つめ続けていた。
(寒くないからいいな。)と勇一郎は思った。(これが冬の風だったら、あんな風に立ってなんかいられない。)彼は寒さが嫌いだった。冬の間に幾たびか風の強い日があって、冷たい風が恐ろしい強さで吹きつけるのに閉口したことを、彼は思った。しかしその時の、鋭利な刃物のような風の感触を、思い出そうとしてももう出来ないのだった。思い出は言葉の形でしかよみがえって来ず、皮膚感覚は現在感じている以外のもののことを語らなかった。五月。風は、今まさに彼の肌に当たっているような無害な、ただかまって欲しさにうるさくしているだけの存在に過ぎなかった。それでも辛かった冬の日のあったのは勇一郎にとって確かなことで、もしあの苛烈さが今ここにあったなら、あの女生徒がああも風に対して無関心でいることはきっと出来ず、その圧倒的な厳しさの前に、すぐさま屈服するであろうと思われるのだった。
自転車のペダルを漕ぐ勇一郎と立っている女生徒との間にある距離は、段々と近付いて来た。歩道の幅はそう狭くはなかった。しかしこちらに気付く気配のない女生徒の背後を通り抜けることに、勇一郎は抵抗を覚えた。黙って何も気にせず通ってしまうことが出来れば良かったが、ぎりぎりまで近付いて初めて相手がこちらに気付き、驚いて身をかわすところを想像すると、彼はどうしても落ち着かなかった。その距離が近くなってみると、女生徒の姿には周囲の世界のことを忘れているような呆然としたところがあって、勇一郎には自分の想像が、いかにも現実に起こり得そうなものに思えた。
(ベルを鳴らすべきだろうか。それじゃ「どけ」と言っているみたいだ。それに結局驚かせることになるんじゃないか。もっと当たり障りなく、こちらの存在を知らせられたらいいのに。むしろ全く気付かれずに通り過ぎることが出来たらいい。だけど、そんな方法はない。)
勇一郎が考えているうちに、女生徒に動きがあった。それは奇妙な動きだった。彼女は靴を脱いだのだ。そして身を屈めるとその靴をまっすぐ、つま先を欄干の方へ向ける形で揃え、また身を起こした。彼女が再び欄干に手をかけるのを勇一郎は見た。
(あれは一体、何をやってるんだ。駄目だ、ちょっと待った。)
欄干に乗せた手に女生徒の体重が移るのが、勇一郎には分かった。彼女は身を乗り出すような動作を今まさに始めたところだった。「何を」という言葉がまたしてもよぎったが、勇一郎はそれをもはや疑問にはしていなかった。自分の見ているものが何であるかは、彼にとってはすでに明白だったが、ただそれが言葉の形を取るには至っていないというだけのことだった。
勇一郎は自分の体の首から下の部分が、見えない何かによって圧迫されているような感じがした。心臓が、喉の辺りを体の内側から拳で叩いているかのように、激しく脈を打っていた。何かしなくては、と思った時にはもう、勇一郎の体は動いていた。そしてその仕方がまずかったために、勇一郎は痛い思いをし、手段そのものは失敗したものの、一方で目的は果たすことが出来たのだった。
五
何か、何でもいいから相手の注意を引かねば、と勇一郎は考えた。この女生徒は自分が今一人でいるつもりでいる。自分が及びつつある行為を見ているものは誰もいないと思っている。ここに人がいて、見ているぞ。そのことを知らせて気を削ぐのだ。これだけが彼の頭には浮かび、ほかには何も思い付かなかった。そして勇一郎は何か身振りをして、それから声での呼びかけもするつもりで、ハンドルから手を放し、そのために自転車ごと転倒した。
姿勢の制御を失ったことで、呼びかけのつもりで発しかけていた声は途中から悲鳴に変わった。そこへ自転車の倒れる、ガチャガチャとした金属音が続いた。あまり上手くない格好で道路へと落下した勇一郎は、痛みのためにしばらく動くことが出来なかった。自分はこけたのだということを、それでも彼ははっきりと理解していた。
(この自転車はこれだけハンドルは低くて、サドルは高いんだから、体はこれだけ前傾していて、それはつまり腕にも体重がかかっているということで、手を放すならその手が受け持っていた体重をほかへ移し変えてからでなくちゃいけないのに、それをしなければバランスを崩すのは当然で、このぐらい、普通は考えずに出来ることで、大体いちいち考えていたら間に合わないことでもあって、それを俺はひっくり返った後になって考えてる!)
勇一郎は自分の愚鈍さを呪った。今そんな風に自分を呪うことが無意味なのは明らかだったが、彼には今、痛みにうめくことのほかには出来ることがこれぐらいしかなかった。痛さと不甲斐なさに抗するために、彼はこの不毛な呪詛を慎むことが出来なかった。
それに近い状態ではあっても、勇一郎は決して完全に我を忘れているわけではなかった。地面に這いつくばったままの格好で彼は、自分が一人馬鹿をやっているそもそもの理由を思い出し、顔を上げて前方を見た。すると女生徒はさっき見た時と同じ場所にいて、欄干からは手を放し、勇一郎を見ていた。その表情は、不審を主なものとしてほかのいくつかの要素との混成で出来ていた。彼女は突然目の前で激しく転倒した勇一郎をいぶかしんでいるようだった。また、転倒し突っ伏している勇一郎を心配している様子もあった。ところで勇一郎の現在の心理状態とは、すなわち、自転車から手を放し転げ落ちたという自分の情けない失態が、今この場にある出来事の全てである、そうとしか思えない、そんな状態だった。そして自分を見る女生徒の顔つきを見て、勇一郎が思ったのは、ただ恥そのことのみであった。
「いや、全然、大丈夫だな。うん、うん、大丈夫だ。」
勇一郎は言った。彼はこれを、独り言のように言いつつも、あの女生徒の怪訝な眼差しに対する言い訳としての機能をも持たせようとしたため、その抑揚は奇妙で甚だしく不自然なものになってしまった。勇一郎は、自分がさっきまで痛みにうめき自らを呪っていた時の、苦悶の表情を女生徒に見られていることにも、全く気が付いていないのだった。それにしても、わざとらしい自分の言葉が恥をぬぐうよりもむしろその上塗りをしているらしいことは、勇一郎にもやがて知れた。彼はようやく、その点についてあがくのをやめ、情けなさに顔をうつむけながら立ち上がって自転車を引き起こした。
転倒した時に落ちていた自分の学生鞄を拾い、自転車の前かごに入れると、勇一郎はハンドルをつかみ自転車にまたがった。そして彼が前を見ると、そこに女生徒が立っていた。
勇一郎の目は女生徒のそれとまともに対峙してしまっていた。彼は本当ならすぐに目をそらしたいところだった。しかし彼が今自身に対して感じている情けなさが、転じて観念するような気持となり、不意の視線の衝突から逃げることを、彼にあきらめさせていた。
すると女生徒の口が開き、動いて、そこから次のような言葉が発せられた。
「大丈夫ですか。痛そう。」
それ以上は、勇一郎は相手の顔を見ていることが出来なかった。彼は、下を向いて「はい。」と言った。首から上が火のように熱くなるのを感じながら、勇一郎は視線を落とした先にある、女生徒の足元を、その靴を見た。二つ並んでこちらに向けられている、革靴の、小さく丸いつま先は、自分という恥ずかしい存在を責める、厳格なあどけない糾弾者のように勇一郎には感じられた。
六
勇一郎の学生鞄には高校の校章があしらわれている。それを見た女生徒は、自分たちが同じ高校に通う生徒同士であることに気が付いた。それで、彼女は「あ、池之高。私も。」と言いながら自分の学生鞄を示した。
「何年生ですか?私は二年。二年八組。」
「あ、俺も、二年。二組。」
勇一郎の高校は校舎が二棟になっており、同じ学年ではあっても、勇一郎の二年二組とこの女生徒のいる八組とでは、教室は別々の棟に位置していた。
「二組か。じゃあ本棟の方だね。私は一年の時も八組で北棟だったよ。あ、今出澄花、私の名前。」
そう名乗ってこちらを見つめた女生徒が、勇一郎にも名乗るよう促しているのは明らかだった。それで勇一郎はあわててその通りにした。
「儀部、勇一郎。」
女生徒はこれを聞くと、「儀部君ね。儀部君、儀部君。」と独り言のようにくり返した。そのやり方にはまるで、今初めて知った名前、まだ口にし慣れないその名前を、長年呼び慣れた名のごとく発音出来るよう、自分の口にその動きを覚え込ませるような様子があった。彼女の口が自分の名字を扱う、その新品の商品をあらためるかのような丁寧さに勇一郎は、異様な気恥ずかしさと、逃げ出してしまいたいようなばつの悪さとを同時に感じた。
すると澄花はまた勇一郎の方を見て、こう言った。
「儀部君はここ、いつも通ってるの?」
勇一郎はこれを、毎日、あるいは通学路として、という意味に取った。
「いや、いつもじゃない。今日は用があったから。」
「そうなんだ。私はここに来たの、今日が初めて。」
それは、飛び下りるための場所を探してここへ行き着いたということか。そんな考えが勇一郎の頭には浮かんだ。
「初めて来たけど、何だかいいところだね。空が広くて。」
そう言った澄花の調子が含んでいたのはしかし、ただ気まぐれに散歩していただけであるような、軽々しさだけだった。
澄花は「じゃあ私、こっちだから。さようなら。」と言って、歩いて行った。彼女が去って行くのは、勇一郎が帰るのと同じ方向だった。今から自転車に乗って、前を歩いている澄花を追い抜くということは考えられず、勇一郎はその場に突っ立ったまま、澄花の後ろ姿を見送った。意識のどこか端の方で、彼女も同じ駅を利用しているのだ、ということを彼は考えた。
後ろ姿は遠のいていき、最後には見えなくなった。しかしそれでもまだ、勇一郎は動くことが出来なかった。自分が動いて、ここを去った後で、あの女生徒はまたここへ戻って来てさっきの行為の続きをするのではないか。頭の片隅にこんなことが浮かんでしまい、勇一郎はそれが不気味で、そんなことはあるはずがないと考えながらもなかなか歩き出すことが出来ずにいるのだった。
とはいえ、いつまでもそうしているわけにもいかなかった。彼は考えた。
(何も見られていないと思っている、ということはないはずだ。俺に見られたと思って、だからやめたんだ。だから、あんな話をしてごまかしたんだ。)
澄花の「自分は今日初めてこの場所へ来た。」という発言は、何のためにそれを言う必要があったのかという点で、最初から勇一郎の中に違和感を喚起していた。
(この橋の上に来たことに特別な理由はない。たまたま足が向いただけであって、不穏な行為のためでは決してない。そう断ったつもりなんだろう。それをしっかり断った上で帰って行ったんだ。それだけの冷静さが今はあるんだ。なら今日はもう大丈夫だろう。)
結局、勇一郎はこんな風に結論をした。それでようやく彼は、帰路に着くことが出来たのだった。