本編08
本編08
本邸の方へと着くとまっすぐ二階へと上り、アルベルトはクリストフの部屋へと向かった。そっと扉を開けるとそこにはアグネータがいた。
「誰?」
声をかけずに立ち去ろうとしたが見つかった。
「奥様」
「アルベルトなの?」
「はい」
女主人はスラリと立ち上がると近寄ってきた。細めに開いた扉をさらに少し開く。ギイと軽い音がした。
「なに?」
「いえ、なにかご用はないかと思いまして」
「あの人はどこにいるの?」
「……」
「どうせまた別邸でしょう?」
「はい」
アグネータは冷たく美しい顔を少々歪ませた。
「特にご用事がないのでしたらこれで」
礼をして下がろうとした。
「待ちなさい」
ドアを開けて女主人が廊下へと出てくる時に隙間からベッドに座ってキョトンとした顔でこちらを見ているクリストフの顔が見えた。顔色が良かった。真っ白で紙のような顔をしていたのが、少し頬に赤みがさして。しかしアグネータは廊下へと出るとパタンと扉を閉めたので、子息の顔は見えなくなった。
「昨日、あの人があの子に飲ませたものは何?」
「はて、何の話でしょう?」
「人の血ではなかったの?」
「……」
「ねぇ、どこかに人間がいるの?」
「はて、何のことやら、さっぱり」
「お前は知らないというの?」
食ってかからんとでもいうような爛々とした目で睨まれ、今は奥方も魔力を失いどうのこうのしようとしてもどうにもできないと頭ではわかってはいても、はらわたが縮む思いをした。しかし、主人にも女主人にも長く仕えている従者は主人の扱い方に慣れていた。
「ここ数日、ご主人様とはゆっくり顔を合わせておりませんでしたので、次お会いした時に伺っておきましょう。ただ、また、ガブリエルがなにか作ったのではないですか?薬草を煮詰めたとか」
「血のように見えたのよ。あの子もそうだと」
「それでは獣の血だったのでしょう」
「それが、そんなに効くものなの?あの子は死にかけてたのよ」
「落ち着いたようでよかったです。でも、まだ、油断はできませぬ」
その時、階下から女の召使がアグネータを呼んだ。クリストフ様のお食事のことで、と言っている。
「すぐ行くわ」
アグネータが階段を降りていくまで、アルベルトは頭を下げてそこに突っ立っていた。しかし、完全に姿が見えなくなったところで、するりと部屋に入り込んだ。子煩悩の女主人のことだ。いつまたこの部屋に戻ってくるかわかったものじゃない。
「アルベルト」
「ご加減はいかがですか?」
「今日はすごくいい」
その言葉を聞いて思わず執事の顔に笑みが浮かんだ。アルベルトは引き寄せられるようにクリストフの寝ているベッドの傍に寄ると床に片膝を立てて屈んだ。そしてそっと項垂れた。そのまま口を開いた。
「折り入ってお願いがござりまする」
「なに?」
「秘密を守っていただけませんか?」
「秘密?」
アルベルトは懐からそっとガラスの管を取り出した。クリストフはそれを見て、あっと驚いた。
「これが何かわかりますか?」
「お父様がもってきたものと同じものでしょう?」
「そうです」
それからアルベルトは囁くような声でもう一度いった。その手に赤い血の入った管を持ちながら。
「これが何かわかりますか?」
「……」
クリストフが口を開こうとしたところで、アルベルトは人差し指を一本口の前に立てた。
「おっしゃらなくて結構です。わかっていれば」
「……」
「このことを絶対に誰にも言わないでください」
「なんで?」
「それはいずれ落ち着いたらお話ししますので、とにかく言わないでください」
それからそっと小さくて柔らかな手にそのガラスの管を握らせた。クリストフは眉を曇らせた。
「僕、これ、嫌い」
「どうしてですか?」
「だって、なんか、妙な味がするし、それに」
「それに?」
「飲んだら部屋がぐるぐる回る」
「そうですか、でも」
「でも、僕は、これを飲まないともう、生きられないんだよね?」
「……」
今度は執事が黙った。
「これが、人間の、血なの?」
アルベルトは難しい顔をしてそっと頷いた。
「僕は本当にお父さんやお母さんの子供なんだろうか」
突然そんなことを言い出したので、アルベルトはちょっと面食らった。
「何をおっしゃいます」
「だって、なんか気持ち悪いんだもの。こんなものを本当にみんなは喜んでいたの?」
クリストフが物心ついた頃には、もう既に皆でこの壁の中にいて、クリストフは人間の味を知らないで育った。
そうこうしていたら、階下から数人の足音が近づいてくる。アルベルトは慌てた。
「後で結構です。皆のいないところで、必ず、必ずお飲みください」
それだけいうと、廊下とは別の隣の部屋へと繋がるドアをそっと開け、そこから部屋の外に出た。入れ違いに女たちが部屋に入ってきた気配を感じる。そこにはアグネータの声も聞こえた。アルベルトは息を殺し、隣の女たちの声音に神経を集中した。クリストフはきちんと例のものを女たちの目からは見えないところに隠せただろうか。
しばらくそのまま隣の部屋の女たちの声を探っていたが、特に興奮した声が発せられる様子もないまま数秒過ぎる。アルベルトはそこで、彼女たちの会話を聞くのをやめて、そっと静かにその部屋の廊下へと繋がるドアを開けて部屋の外へと出ていった。
***
アルベルトにその顔を皆に見せるなと言われ、どこにいくこともできずにダヴィドはソフィーと向かい合って座り、食事をしていた。いつの間にか夜の闇がおりて、食卓にランプを置くと昼間いるよりもそこはなんだか狭くなったようで、そして、静かだった。
どこかで鳥が鳴いた。梟だと思う。
「何も話さないのね」
「……」
食器がたてるかすかな音を耳にしながら、揺れるランプの炎の中でソフィーは無遠慮にダヴィドを眺め、ダヴィドは俯き加減で目を合わせようとしない。
「怒ってるの?」
「なにに?」
「強引に血を飲ませたことに」
「いや、別に」
「じゃあ、なんで何も話さないの?」
「君との間には特に共通の話題もないということに気がついたからだ」
「そう」
それで、ソフィーも黙り、そして彼女もうつむき加減になったがその目元はいくらか緩んでいて、なんだか黙っていても楽しそうだった。
「いや、あった」
パンを手にして千切る手をふと止め、ダヴィドは顔をあげた。
「お前はどうやってここに入ってきたのだ?まだ聞いていなかった」
ソフィーの目の中に瞬間、何かの感情がよぎった気がした。でも、それは一瞬だった。すぐにいつもの顔に戻った。
「どうって」
「知らないとは言わせない。ここはもう何十年という間、忌々しい結界で閉ざされている。出ることはできない」
「入ることはできるのよ」
「……」
そう言われて、ダヴィドは思考をめぐらした。入ることはできるだって?黙って何事か考えているダヴィドの目をまっすぐに見ながらソフィーは続けた。
「入ることはできるの」
もう一度同じ言葉を繰り返すと、今度はソフィーが顔をうつむき加減に食事をする。ソフィーが扱うスプーンが器にあたって微かな音を立てる。
「今まで入ってきたものはいない」
「たまたまでしょ?」
「……」
「人間はここがどういう場所か知ってる。時間はずいぶん経っても、人々はまだ忘れてないわ」
入ることはできるだって?
ダヴィドがその言葉にまだ考え込んでいると、ソフィーは食事の手を止めてまっすぐにダヴィドを見つめそして少し眉を顰めた。
「なんだ?」
「いや、別に」
「言いなさい、気になる」
「あなた、少し、その」
「その?」
言い淀むのでその先を促すと、ソフィーは少し早口になった。
「老けてきたみたい、また」
ダヴィドからふっと笑みが漏れた。
「何を言い出すかと思ったら」
「悲しくないの?」
「食べなさい。冷めるぞ」
それで、また2人で食事を再開する。
「それでは、明日の朝にはまた元に戻るだろう」
「悲しくないの?」
悲しくない、と言おうとしてふと気づいた。
「どうしたの?」
「いや、人間にとってはこれは普通のことだろう?老いるというのは」
「でも、せっかく綺麗なのに」
「綺麗でもしょうがない。人間は誰だって老いる。悲しい、悲しいと嘆く者がいたか?」
「中にはね、全員じゃないけど」
その後ソフィーはため息までついた。
「お前がため息をついてどうする?」
「残念だわ。せっかく綺麗なのに」






