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本編06














   本編06













緑色の空気を吸い込んでいると、いろいろなことが夢だったように思えてくる。遠い記憶。あれは本当に自分だったのだろうか?自分たちだったのだろうか?狂乱のような日々。


そして、最近に至ってはこんなことすら考えてしまう。あれは、本当に我々が自ら望んでやっていたのか?

生まれた時から身近にそういったこと、はあったし。それにそもそも、食べなければ生きていけないのだから、こんなこと考えるなんて馬鹿げているとも思う。昔の自分なら、こんなこと考えもしなかった。あの忌々しいホルグヒルドが我々を閉じ込めてしまうまでは、こんなことを考えることなどなかったのに。


どのぐらい時間がった頃だろう?ひんやりとした感触が自らの頬に触れて我に返った。思わず反射的にそれを捕まえた。それは女の小さな手だった。その小さな手を見た途端、瞬間的に幾つもの場面が細切れになった映画のように自分の頭に浮かんだ。似たような手が動かなくなってバラバラにされて、赤黒い背景の中にまるでモノのように落ちている。


「触るな」

「終わったわよ」


ソフィーは主人には構わず、コルクで蓋をしたガラスの管を掴まれていない方の手で無造作に渡す。主人は掴んだ手を解き、それを受け取った。ソフィーは物憂げに主人の横の椅子にどさりと座った。


「具合が悪いのか?」

「大丈夫。でも、ちょっとだるいといえばだるいわね」


血を取り続ければ、この娘も死んでしまうのか。思わず大きな声を出した。


「魚をとってやろう」


古びたいすが立ち上がった拍子にぎいとなる。娘が後ろの方で何か言っているのを聞かずに魚釣りの道具がしまってある小屋の方へ歩き出す。柔らかな土を踏み締め、また森の香りを嗅いだ。どこかで鳥が鳴いている。あの鳥は、自分たちが閉じ込められてしまったことを嘆いてはいないのか。


沼の端で釣竿をしならせて、餌をつけた先端を遠くへと投げ込む。その放物線は無駄なく広がった。ぽちゃんと軽い音がして、沼がそれを咥え込んだ。


釣り糸を垂らしながらそばの切り株に腰を下ろすと、娘がこちらに沼のへりづたいに歩いてくるのが見える。明るい光の中で少し顔が青白い気がした。


「来なくてもいい」

「見ていたいの」


それで、なんだか変なことになった。主人はここで釣りをするのが好きだった。でも、それは、魚とのやりとりを楽しむというよりは、一人になりたかったからである。鏡のような水面に一人糸を垂らしていると、さまざまなことをひとときだけ忘れることができた。


自分たちが閉じ込められていることや、緩やかに死にかけていること。そして、やっとできた大切な息子が、このままだと死んでしまうこと。


「本当に釣れるの?」

「釣れる」

「ね、貸してみて」

「ダメだ」

「こんなこと誰がやっても同じでしょ?」

「違う。お前ではダメだ」


ソフィーはダヴィドの手から釣竿を奪おうとして手を伸ばし、ダヴィドは払っても払ってもしつこく伸びてくるその手首を捕まえた。


「暴れるな、魚が逃げる」


するとソフィーは盛んに伸ばしてきた手を引っ込め、くすくすと笑い出した。


「変な人」


風が吹いてきて、水面に波紋を広げ、そして、それは森の香りを連れてきた。ダヴィドはソフィーの笑う顔を見ていた。


「人間の女というのはこういうふうに笑うのか」


思わずポツリと言った。


「初めて見たの?」

「初めてだ」

「魔族の女は笑わないの?」

「お前のようには笑わない」

「そう」


その後、特に理由はないのだが二人で黙った。黙って前を向いていると、釣り竿がしなった。


「ちょっと、引いてるわよ」

「騒ぐな、魚が逃げる」


横でやきもき騒ぐ娘に邪魔をされながら、慎重に糸を手繰り寄せた。慌てて強い力で引くと驚いた魚はあらん限りの力で糸を引きちぎって逃げてしまうのだ。泳がせて引いてというのを繰り返しながら、徐々に岸へ近づけてくる。


「あみをもて」

「あみ?」

「そこにあるだろう」

「え、これ?」

「大きいぞ」


それから更にしばらく悪戦苦闘して、やっと魚を釣り上げた。近くの木から大きくて綺麗な葉を取ると、その上にまだ生きている魚をのせて、懐からナイフを出してエラのあたりを刺す。魚がとうとう動かなくなった。尾を掴むと頭を下にして角度をつけ持ち上げ、体の中の血を流す。ずっしりと重い。思いの外大きな魚が取れた。


「慣れてるのね」

「我々の中に物好きな奴がいてな。そやつは人間と仲がよかったから、いろいろなことを知っている」

「その人ってもしかして、大戦の頃から生きているの?」


ソフィーが目を丸くした。


「そんなこと言うなら、わたしだってその頃から生きてる」

「え?」

「アルベルトもだ」

「……」


あらかた血を流してしまうと一度沼の水で魚を簡単に洗い、もう一枚綺麗な葉をとって、その葉で包み、木に絡みつく蔓を引きちぎるとそれで縛った。それから手を洗った。しゃがんで手を洗っている男を立って眺めながら、娘は口を開いた。


「あなた、そんな歳には見えないけど」

「我々とお前たち人間は違う」

「そうなの?」

「そうだ」


男は立ち上がり、魚の包みを持ち上げた。


「これはお前がもて。わたしは道具を持たなければならないし」


そう言って包みを差し出したが、娘は受け取らない。


「どうした?帰ろう」

「これを飲んで」


娘は胸元から小さなガラスの管を取り出した。


「持ってきたのか?」


主人が呆れるのも構わず、管を持ち上げて主人に近寄る。


「あなたも若くなるのでしょ?」

「それはなるかもしれないが」

「飲んでみせて」


葉に包まれた魚を片手に主人は呆れた顔でため息をついた。


「なんでそのことにそこまでこだわる」

「いいから」

「それなら戻ってから……」

「ここで、飲んで、今、飲んで」


断り続ける理由がなかったことと、また、明るい陽の光のもとで、娘の顔色があまり良くないことが気になって、結局はどうでも良くなった。


「そこまで言うなら貸しなさい」


せっかく獲った獲物を再び草の上にそっとおき、娘の方に手を伸ばし、そのガラスの管を受け取った。そして、そのコルクの蓋を外すと管を持っていない方の手を開き、注意深く傾ける。


「お前は少し離れていろ」

「なんで?」

「いいから」


どろりとした液体が僅かに手のひらの上に落ちる。この僅かでも匂いが感じられ、自分の身体中の血液が逆流でもしたかの如く脈打つのを感じた。


「そんな少しだけ?」

「いいから、離れてなさい」


主人は一雫だけを手のひらに置いて、残りの管はソフィーに押し付けると、離れろと言っても聞かないソフィーから自ら遠ざかり背を向けながらそれを口に含んだ。


パッと暗闇に色とりどりの光が撒き散らかされたような衝撃を受け、立っていられなくなってその場にしゃがみ込んだ。そのたった一滴の血を口に含んだために、嵐のような記憶の只中で、次から次へと殺し続けた女たちの恨めしそうな死に顔や、ゴミのように積み重ねられた男や女や子供たちの、特に女たちの体が浮かんでくる。それはありとあらゆる、様々な人間の様子だった。もう動かなくなった人間のである。


「ねぇ、大丈夫?」


しばらくソフィーの存在も、その声も聞こえず、ただ、夢と現の間をふらふらと意識が彷徨っていた。ソフィーが肩を掴んで揺すり、主人は顔を上げた。


ソフィーが息を飲んで目を見開いた。


「どうした?」

「自分で気づかないの?」


つい先日、自分自身がアルベルトにかけた言葉と同じ言葉をソフィーにかけられていた。それでわかった。主人は立ち上がった。


「スピーゲル コム フラム」


躊躇わずにかつて使っていた言葉が口をついて出た。覚えていたのが不思議だった。その途端、目映い白や金の細かな光の粒が空中に躍り出て四隅からそれぞれ上へ右へ下へ左へとまっすぐに動き、長方形を描き出す。それからその面が水が波打つようにうねり、鏡が自らを映し出した。


手でゆっくりと自らの顔に触れる。鏡の中の自分もそれに合わせて動いた。


「……驚いた」

「驚いたのはこっちよ」


その声に傍らを見ると、ソフィーが少し熱に浮かされたような目をして、主人と宙に浮いたその魔法の鏡を交互に見ている。


「初めて見た。初めて見たわ。話には聞いていたけれど、聞いてはいても目にするまでどこかで信じていなかったのね」


娘は興奮して、その頬を少し赤く染めた。


「魔法って綺麗なのね」

「綺麗?」

「綺麗よ。うっとりするくらい、綺麗だわ」


綺麗……

それは間違った表現だと思う。この、ソフィーは、魔法が人を殺すところを見たことがないのだ。だから、綺麗などという。

主人が逡巡しているその思いにはつゆも気づかず、ソフィーはうっとりとした顔をこちらに向けた。


「あなたも、若い頃はそんなに美しかったのね」

「美しい?」

「綺麗よ。あなたも、あなたの魔法も」


自分のことを綺麗だなどと言った女はいなかった。男もだ。


「それは間違っている」


それで、直ちに否定した。


「帰ろう。この魚が新鮮なうちに料理してしまおう」


今度こそ魚を女に渡し、釣りの道具をかき集める。そして、邸に向けて歩き出した。ソフィーは後ろからついてきた。


「変な人ね」

「何がだ」

「褒めているのに、怒っているみたい」

「怒ってなどいない」

「じゃあ……」

「お前はわたしをよく知らない。わたしは綺麗などではない」


山のように人を殺してきた。自分の名前を聞くだけで、多くの人間が震えあがった。そして、数々の憎しみを向けられてきた。憎しみなどという生易しいものではない。それは憎悪の炎だった。


自分を滅することは、人間たちの悲願であり、宿願であった。

その人間たちの真ん中で燃えるような目で我々を睨みつけた、ホルグヒルドの目の色を今でも忘れない。


しかし、彼女にも我を滅することはできなかった。閉じ込め、長く時間をかけて自滅するのを待つしかできなかった。いや、待つこともできなかった。あやつはもう死んだのだった。俺はまだ生きている。


「何を考えているの?」


いつの間にかソフィーが傍へ来ていて、そして、主人を見上げた。その、青みがかったグレイの目。なぜだろう?その目を見ていると、ザワザワと激しかった心のうちが静まってゆく。


「お前の目は澄んでいるな。ソフィー」

「そう?」


知らなかった。


「帰ろう」

「うん」


知らなかった。自分が、疲れていたということに。自分の心のうちに深い沼の底に澱むような感情があったなんて。自分に心があったなんて。


自分に心があったなんて。かつての自分にそこに思い至るような未来があるなどと、どうして知ることができたろう?心なんて無駄なものだと思いながら生きていた自分に。


「お前はどうしてここへ来たのだ?」

「それはもう話したでしょ」

「どうしてここへ」


ソフィーにはソフィーの、人外の里へと来る理由が、あったのかもしれない。だけど、本人の意図とはまた別のところにある何か大きな力とでもいうのか、流れとでもいうのか、何かそういうものがあって、この娘がここへ来たような気が少し、していた。

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