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本編05














   本編05













明日の朝はもう、来ないかもしれない。


やがて落ち着いて眠りについた息子の寝顔と微かな寝息を聞きながら、アグネータは思った。


明日はもう、来ないかもしれない。

この子の寝息はもう、聞こえないかもしれない。


小さな手を自分の手の中に押し抱き、自分が眠ってしまったらまるでその時に息子の息が止まってしまうのではないかと思って、アグネータは眠る気にはなれなかった。いつまでも長く黒い夜の中で月明かりの元、息子の人形のような顔を見ていた。


しかし、それでもまどろんだ。

夢現とも言えるような中で、アグネータは真っ白でふわふわの雲の中にいた。


「お母様」


声がしたのでそちらの方を見ると、元気な頃と同じような顔をしてクリストフがこちらを見て笑ってた。


「どうしたの?」


息子はふわふわと白い雲の間に浮いていて、笑っている。でもなにも返事してこない。そのことがどうしようもないくらい不吉に思える。


「クリストフ、答えなさい」

「お母様」

「クリストフ、坊や」

「お母様」


誰かがわたしの肩を掴みゆすっている。ほっておいてちょうだい。今は坊やと話しているんだから。


「お母様」


そして気がついた。肩を掴みゆすっているのは、夢の中で微笑んでいたクリストフで、椅子に座ったままベッドにうつ伏せて眠っている母親の肩を掴んでゆすっている。


「こんなところで寝ていたら、風邪を引きますよ」


昨日は自分の力で体を起こすことすらできなかったのに、今はベッドに座った状態で、母親の肩をゆすりその顔を覗き込んでいる。


「お前……」


アグネータは体を起こすと、息子の顔を両手で挟んだ。それからその腕を掴み、真正面からその目を覗き込んだ。


「何ともないのかい」


すると、クリストフは夢の中と同じ笑顔で笑った。


「不思議なんです。なんか今日は気分がいいみたい」


***


主人は次の日も馬を駆けさせて池のほとりの別邸へと赴いた。ソフィーは家の前の庭で花を積んでいた。主人を見ると屈んでいたのを立ち上がり花を抱えたままで遠くから駆け寄ってくる姿を眺めていた。ソフィーは今日は髪を解いてそれを風に吹かれるままにさせていた。


「また来た」

「すまない」

「……」

「昨日の今日ですまないが、もう一度お前の血が欲しい」

「……」


馬上から見下ろす主人をソフィーは野花を抱えながら下から見上げる。風がソフィーの髪をなぶり、一瞬顔を隠した。彼女はそれを邪魔だと思ったのだろう。耳にかけた。


「どうしてそんなに嬉しそうなの?」

「わたしが嬉しそうだというのか?」

「違うの?」


自分をよく知らない相手から見てもそれとわかるくらい、その時、自分が喜んでいるのだと知った。ソフィーは主人を置いて踵を返すと花を抱えて屋敷へと戻る。主人は、馬から降りると厩に繋ぎ中に入った。


「アルベルト」

「出かけたわよ」


執事を呼ぶと、居間の方から娘の声がした。声がした方へ歩いてゆくと、娘が居間にある戸棚という戸棚を片っ端から開けては閉めていた。パタン、パタンと乾いた音がする。


「何をしてる?」

「決まってるじゃない、花瓶を探しているのよ」


それで、主人もそれを手伝った。娘とは反対の壁に取り付けられた戸棚を開ける。


「あなたはどこにあるか知らないの?」

「知らない」

「どうして?この屋敷の主人でしょ?」

「ここは……」


その時、主人は一番最初にこの邸に足を踏み入れた時のことを思い出した。乾いた埃の匂いと白くて明るくて空っぽな空間。


「ここだけじゃない。この村にあるすべての家が、そもそも我々のものじゃない」

「そうなの?」

「もとは人間が住んでいた。人のいなくなった村に、我々は家ごと閉じ込められたんだ」

「ああ……」


つまらないことを聞いてしまったとでもいうような表情をした。しばらく黙って戸棚を開け閉めした。片隅に古ぼけた重い花瓶を見つけ、主人が引きずり出した。


「これでどうだ?」

「ああ……」


娘は側によってきてその花瓶を受け取る。ずっしりと重い古びたものだった。娘はそれを台所へと持っていき、ひとまずゴシゴシと洗った。流しで花瓶を洗う娘の背中を、主人は食卓に座って眺めた。


「わたし、何をしているのかしら?」

「花瓶を洗っているのだろう?」

「そうではなくて、本当なら今頃、わたしはここにはいなかったはずなのに」


水の音と娘がいつまでもゴシゴシと、花瓶を擦る音だけがした。


「お前は一体なんで、こんなところに迷い込んできたんだ?」

「その前に教えて」


水を流すのを止めて、娘はそこに水を溜めると古びた花瓶を両手で抱えながら振り返る。


「一体わたしの血を抜いて、何に使うというの?」

「……」

「それと、どうしてあのおじさんは別人のように若返ったの?それは、わたしの血のせいなの?」

「アルベルトはなんと言ったのだ?」

「あなたに聞けと言ったわ」

「あいつらしい」


ため息が出た。めんどくさいことは全部、なんだかんだとこちらに押し付けてくる。


「わたしの血を飲めば、あなたたちは若返るの?」

「若返るというか……」


どういうふうに説明すべきか考えておくべきだったか。しかしまぁ、どんなふうに説明をしても無駄か。


「お前は我々のことをどういうふうに聞いているのだ?」

「恐ろしいって」

「他には?」

「人間など頭から食ってしまうって」

「うん」

「でも、それは嘘なんでしょ?」

「なんで嘘だと思うのだ?」

「だって、あなたたちはわたしを食べなかったじゃない」


少し逡巡した。しかし、どうやって言いくるめるべきなのかがいまいちわからなかった。


「それは……」

「それは?」

「残念ながら、本当だ」

「……」


言ってから思った。どうして自分は残念ながらなどとつけたのだろう。


「じゃ、なんでわたしを食べないの?」

「そうすれば、一時的には良いかもしれないが、すぐにまた元に戻ってしまう。足りないのだよ」

「足りない?」

「人間が」


娘はハァと息を吐いた。


「元に戻るってどういうこと?」

「以前は我々は自由にお前たちを食べていた」

「うん」

「だから、老いることもなく、病に侵されることもなかったのだ」

「そうなの?」

「そうだ」


ソフィーは目を丸くして主人を見た。


「ところが閉じ込められて、人間とは一切出会えなくなってしまった。すると、我々は老化し始めた。病に侵されるものすら出てきた」

「うん」

「お前の血は、人間を食べられなくなりどんどん弱くなる我々にとって薬のようなものなのだ」

「へぇー」


ソフィーはこのことを愉快に思っているようだった。


「誰が病気なの?」

「……」

「当ててみましょうか。あなたにとって大切な人なのよね?奥さん?」

「息子だ」

「ああ、息子さん」


そこまで聞いたら、ソフィーは気が済んだらしい。花瓶を洗う手を止めて中に水を溜めると、それを持ち上げてごとりとテーブルの上に置く。それから、テーブルの上に置いてあった花を一本ずつ花瓶に活けていく。白や黄色の野の花が花弁を振るわせる。


「もう何も聞かないのか?」

「別に。聞きたいことはもう聞いたわ」


娘は淡々と花を活けていく。


「今度はこちらの番だ」

「なに?」

「どうしてこんなところへ来たんだ?」


娘は無表情に花を活けている。答えない気かと思っていると、たっぷりと黙った後にポツポツと話し始めた。


「大事なものを失ったから」

「大事なものって?」

「生きている意味がわからなくなっちゃって」


ソフィーはとても遠い目をした。遠い目をしてまた窓の外を眺めるのだった。主人はそのソフィーの瞳の色をしばらく眺めていた。


「姉がいたの」

「大事なものとはその姉か」

「他に家族はいなかったの。お父さんもお母さんも死んじゃって」

「……」

「静かに生きていたのに、誰にも迷惑をかけたことなどなかったのに」

「何があったんだ?」


ソフィーはぼんやりとした顔をふいに引き締めまっすぐとこちらを見た。


「何も。ただ、姉は死にました」

「それでお前はここへ来たのか」

「そういうこと」


花を活け終わった花瓶をソフィーは持ち上げようとした。大きな古い花瓶はとても重そうで、見ていられなかった。


「貸しなさい」


奪い取る時にチャプンと音がした。ソフィーは花瓶を持ち上げた主人をそっと見た。


「あなたもわたしの血を飲めば若くなるの?」

「多分な」

「やって見せて」


娘は昨日血を抜いた腕のその箇所に綺麗な布を当てていたのだが、不意に乱暴にそれを引き剥がし主人に向けて晒した。


ぞくりと全身の毛が逆立つような気がした。動揺を抑えて主人は花瓶を手に隣室へと逃げた。


「ね、嫌なの?」

「どこに置きたいんだ?」

「暖炉の上」


野の花をいけた花瓶を暖炉の上にごとりとおいた。それは古めかしい家の中で、そぐわないような気がした。


「ね、嫌なの?」

「ソフィー、君に一つ言っておく」


名前を呼ばれて娘は口をつぐんだ。


「正直、血の匂いを嗅いでしまうと自分でも自分を抑えられるかわからない」

「どういうこと?」

「お前が気をつけなければ、我々は衝動的にお前を殺してしまうだろうということだ」

「あら」

「怖くないのか?」


ソフィーは首を傾げた。


「もともとはその予定だったのだし」

「……」

「ね、見てみたい。お願い」

「見てみたいって、何を?」

「あなたの本当の姿」


若い、ではなく、本当のと言ったところがずるいといえばずるい。


「言っただろ。お前を殺してしまうかもしれない」

「わたしの目の前で、わたしの血を飲んで見せて。それが条件よ」

「条件?」

「あなたの息子さんにまだわたしの血が必要なのでしょ?」


力は弱く、ソフィーは、まだ子供と言ってもいいような状態で、本来ならばこんなか弱いものに手こずるはずはないのに。俺は一体何をしているのだろう?


「ね」


ソフィーはその時、昨日血を取ったその白い滑らかな腕を無防備に主人の方へと晒していた。その白い腕の中のポツリと赤い点を見た時に、主人の目の色が変わった。導かれるようにその細い手首を捕まえて乱暴に引き寄せた。


何も考えていなかった。


ただ、過去に何度もやってきていたように少し力を入れればポキリと折れてしまうものを、貪るように食らい尽くしたかった。


「痛い」


娘の声で正気に戻った。


「だから、調子に乗るなと言ったのだ」


慌ててパッと手首を離した。思いの外、力を入れてしまっていた。ソフィーは掴まれた方の手首をもう一方の手でさすりながら、上目遣いに主人を見ていた。


「お前など簡単に殺してしまえる」

「悪かったわ」


しばらく、どことなく気まずい沈黙が落ちる。それから、主人は精一杯の声を出した。


「頼む。お前の血が欲しい。息子を助けたいんだ」

「……」


それは大きな声ではないのだけど、同時にまるで叫んでいるかのような苦しげな声だった。


「わかったわよ」


結局また、あのアルベルトがどこかから見つけてきた管を使う。娘の腕に見よう見まねで針を刺そうとすると、ソフィーがまた主人を下から覗く。


「昨日のあれをまたやって」

「あれ?」

「あの、痛くなくなる」

「ああ……」

「やって」


しかし、主人はその言葉を無視して娘の昨日と同じ場所に針を刺す。


「いた」


ソフィーはされるがままになりながら、眉を顰めた。主人は触れているソフィーの体の柔らかくて脆弱な感覚と、血の香りに半ば気を失いそうになりながら、同時にこれでもかという欲望を感じていて、それが止まらなかった。次の瞬間には自分を突き破ってその欲望に支配されてしまいそうなのを、かろうじてとどめていた。


「終わったら呼んでくれ」


部屋を出て廊下を伝い、外に出た。森の空気を吸いこんで、テラスの椅子にどかっと座る。後ろの娘に背を向ける方向に。

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