本編04
本編04
目当てのものを手に入れると、主人は1人邸へと戻ることとした。村はもう夜の闇に沈んでいた。主人を玄関口まで見送ったアルベルトはのっそりとランプを持って立っていた。
「アルベルト」
「はい」
「一口、お前も口にしなさい」
「……」
それはとったばかりのソフィーの血液だった。瓶に入れられて。こぼれないよう蓋がされていた。アルベルトはそっと俯き目を伏せた。
「それはクリストフ様のもの」
「アルベルト」
穏やかな声が続いた。
「お前を信じていないわけではないが、あの娘と2人でいて、お前は平気でいられるか?」
「……」
「俺はさっき、衝動的になりそうになったぞ。いいから少し口にしなさい。毒見だ」
伏せていた男がチラリと目だけで主人を見上げた。
「そこまでおっしゃるのでしたら」
執事はカバンの中から先ほど蓋をしてしまった瓶を取り出した。一度した蓋をとると、血の匂いがした。またあの強烈な飢餓を感じる。アルベルトはそのどろっとしたものをほんのわずか瓶から手のひらへと載せるとそっと舐めた。
「ああっ」
たった数滴のわずかなものだった。しかし、アルベルトは体を震わせよろけた。
「おい」
「……旦那様、これを」
執事は手にした瓶を主人へと渡すとよろけて地面に跪いた。しばらくそのまま息を荒くしながらじっとしていたが、やがて落ち着いた。
「大丈夫か」
「申し訳ございません。お見苦しいところを」
その声に驚いた。
「アルベルト?」
くたびれた外套にフード、くらい闇の中でランプを持って立っているアルベルトが顔を主人に向けた時、主人は声を失った。
「どうされました?」
「お前、自分で気づかないのか?」
「……」
言われて彼はきょとんと主人を見ていたが、ふとランプを持っていない方の手をかざして眺めた。
「まさか」
「自分で自分の声を聞いてわからぬのか?」
そこで、自分の手でヒタヒタと自らに触れる。顔、首、そして、足踏みでもするように足を動かした。
「そんなまさか、こんなわずかな血液で?」
「そのまさかだ。お前、もとのお前に戻っておるぞ」
「トヴィンガ ゴーラ サーカ パ ナッタン」
いくつもの光が別邸よりとある方角へ向かって連なって現れる。
いつぶりだろう?この魔法の灯りを目にしたのは。あの頃のまま、あの頃のままだ。
「ご主人様、さ、早く。早くクリストフ様の元へ。これはきっと効きまする。たったこれだけの量で、さ、早く」
「うむ」
愛馬に乗ってアルベルトの魔法によって照らされた道を駆けながら、主人は心が逸るのを抑えることができなかった。別邸から本邸へ馬でかけて行くそのわずかな時間が惜しかった。アルベルトの魔法は別邸から本邸へと続くすべての道を滞りなく照らしていた。それが主人には待っても待っても現れなかった希望の灯りのように思えた。
「クリストフ、クリストフはどこだ。息災か」
馬を馬丁に預け、取るものも取り合わず慌ただしく邸へと入ってゆくと奥の方からツンと澄ました女が出てきた。
「今頃おかえりですの」
「クリストフはどこだ」
「そんなの2階の寝室に決まっているじゃないですか」
「そうか」
それだけ聞くと持ってきた鞄を大事に前に抱えながら二階へと続く広間の階段を登ってゆく。
「あなた、いったい何ですの?こんな夜中に帰ってきたと思ったら、アルベルトはどこです?」
「そんなことはどうでもよい」
間に合ってほしい。間に合って。
もともとは魔族には病など縁のないものだった。魔族は人間と違って永遠の命を有しており、それは例えば戦闘により頭と胴体を切り離されるくらいのことをされない限りは揺るがないものであった。それが、ここに閉じ込められ、もともとは口にしていた人間の肉を食わなくなってから徐々に変わってきた。年をとり、体がどんどん弱り、魔力も失った。
そして、体の未熟な子供から病に侵された。
「クリストフ」
息子は不吉なほどに白い顔色を覗かせながらぐったりと寝ていた。主人は息子のベッドに座りこみ、その小さな手を握り呼びかけた。
「クリストフ、起きなさい」
遅れて部屋に入ってきたアグネータが軽い悲鳴をあげる。
「あなた、やめてください。クリストフは」
「いいんだ。クリストフ、起きなさい」
紙のように透き通って白い肌、同じく白い髪。人形のように整った顔の息子がそっと目を開いた。月明かりの窓から差し込む冷たい部屋で、弱々しく微笑む。
「お父様」
いつ、この目が永遠に閉じてしまうかと、不安で不安でたまらなかった。その思いが目尻に思わず涙を溜める。なにも言わずに息子の手を取りながら主人は頷いた。それから手を取っていない方の片手で自分の持っている鞄を弄るとあのガラス瓶を取り出した。
「何ですか?それ」
「これを飲みなさい。ゆっくりでいいから全部」
「やめてください。なにをしているの?」
息子の手に渡したその瓶をひったくろうとする妻を抑え込む。アグネータは半狂乱になった。
「ダヴィド、許さない。この子はわたしの宝物。なにをする気なの?」
「落ち着け、これしかもう方法はないんだ。クリストフ、飲みなさい」
ベッドに起き上がる力も残されていなかったが、父親の必死な形相を見て、それに応えようとして体に力を入れた。でも、体を起こすことができない。
「うぅっ……」
その様子を見て、アグネータは夫に逆らっていた力を失って崩れ落ちて泣き始めた。
「ああ、クリストフ。わたしの愛しい子」
妻の束縛から離れると、クリストフの傍らに寄り添いその痩せてしまった肩を支えて起き上がらせた。まだ、間に合うだろうか。手遅れではないだろうか。
「母を置いて1人で逝ってしまわないで」
夜を切り裂くような高い声をあげて女が1人ベッドにうつ伏せ、泣いている。
「さぁ」
父親に体を支えられてその腕の中で息子は素直にそれを口に含んだ。しかし、ほんのわずか体内に取り込めただけだった。
「ゴホゴホゴホッ」
激しく咳き込みもんどりうつ。その痩せてしまった小さい体を眺めていると、心が切り裂かれるように痛んだ。
「あなた、そんな、何かわからないようなもの、やめてください」
アグネータはベッドに半身をうつ伏せて激しく咳き込むクリストフに覆い被さり、夫をひどく睨みつけた。
「あっちへ行って。この子と2人っきりにしてください」
主人がそっと部屋を出ると、ドア越しにアグネータの泣いている声が聞こえる。クリストフが咳き込む音はもう聞こえなかった。
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