本編03
本編03
ところが娘は、殺しはしないが血をくれというと嫌がった。
「なぜダメなのだ」
「ダメだとは言っていません。痛いのは嫌だと言っているのです」
これには本気で呆れてしまった。
「先ほどまで殺してくれと言っておいて何をいう」
「あら、だって、殺されるのなら一瞬で済むし、それにできるだけ痛くない方法でと頼むつもりだったわ」
「娘、お前……」
「ソフィーです」
「……」
「わたしの名前はソフィー」
名前など本当は覚えない方が良かった。娘が名前を教えたとしても、呼ばずにおいとか娘とか言って呼ぶべきではなかったのだと思う。そう思ったのはずっと後のことだ。
「ソフィー、自分が死ぬという時に痛くないなんてことはあるはずがない」
「あら、本当に?」
「必ず痛いはずだ」
「困ったな。痛いのは嫌いなのに」
二人のやりとりを横で眺めていたアルベルトが、こほんと咳払いをして二人の会話を遮った。
「なんだ?」
「村の外れに使われていない家があって」
「うん」
「そこに住んでいたのは医者だったとか。まぁ、我々がこの地に来た時にはもう逃げ出した後ですがね」
「それがどうしたというのだ?」
「人間はまれにですが、怪我などで血を大量に失った人間に対して血を与えるのですよ」
「そうなのか?」
「うまくいく時といかない時があるようで、なので、死にかけた人間にしかやらない術のようです」
「それで?」
「その際の器具が、あるいは探せばあるかもしれません」
「本当か?」
執事はしかめ面になった。
「あるかもしれませんと申しました。ご主人様はなんでもご自身の都合のいいように聞く耳をお持ちですからね。後からなかったとしてもわたくしのせいではございません」
「回りくどい言い方をするな。それならそれを探してこい。なかったらなかったでその時考えれば良い」
人使いの荒いことですとかなんとかぶつぶつ言いながら、執事は出ていった。後には娘と主人が残された。しばらく経つと外で馬のいななく声が聞こえる。アルベルトが主人の馬をしばし失敬したのだろう。その気配に耳をそば立てていると、ソフィーはベッドにゆったりと横たわったままで、主人に尋ねた。
「わたしの血なぞとってどうしようというの?」
「それを聞いてどうする?」
「魔族は人間なんてそれこそ頭からバリバリと食べてしまうと思ってたのに」
「……」
どこか陽気にさえ見える娘に主人は聞いた。
「お前はわたしたちが怖くはないのか?」
「正直いうともっと怖いだろうと思ってたわ」
「なぜ怖いと思っていたのにこんなところへ来た?」
「そんなこと聞いてどうするの?」
堂々巡りである。
「分かった。じゃあお前のことについては聞かないから。我々がここに閉じ込められてから外がどうなったのかについて教えておくれ」
主人はそういうと部屋の窓際に置いてあった椅子の向きをかえると娘の脇に座り込んだ。
「わたしは、わたしが生まれてからのことしかわからないわよ」
「それで良い」
彼女はそこでそっと窓の外を眺めた。部屋の中は暗く、外はそれに反して輝くばかりに明るく、木々の緑が風に吹かれてなぶられる様子が覗けた。娘の横顔からは年相応の陽気さが突然なりを顰め、どうしようもない憂鬱が浮かび上がってきていた。
「おじさんたちが閉じ込められてしまってから数年はわりと良い時代だったみたいよ」
「うむ」
「でも、なあんにも変わらなかったのよ」
「どういうことだ?」
「しばらく経ったら今度は、共通の敵がいなくなった人間対人間で争い出したってこと」
「……」
「平和を望んで戦ってきたボルグヒルド様は失意のうちに亡くなったわ」
「なに?」
椅子に寄りかかって話を聞いていた主人は姿勢を正して前のめりになった。椅子がガタンと音を立てた。
「今、なんといった?」
「なんとって、ボルグヒルド様は亡くなったのよ」
「そうか」
「だって、そりゃそうよ。何年経ったと思っているの?」
そこまで話して娘ははたと気づいた。
「そういえば、おじさんって何歳?」
「なんでそんなことを聞く?」
「大戦の時は、子供だったの?」
ホルグヒルドは戦の後に長生きしたのだ。そして亡くなった。先の大戦の時に大人だった人たちはもうとっくに墓穴に片足を突っ込んでいるような年齢のはずだ。主人は何をどこまで話すか迷った。
「なぜ黙っているの?」
「人間に話すことなどない」
突然冷たい顔になってスッと立ち上がると部屋を出ようとする。すると今までずっとベッドに横たわっていた娘はベッドからおりようとして傍に揃えてあった木靴を履いた。
「何をする?」
「暇だから外に出たいの」
「ダメだ」
「なんで?」
「万が一誰かに見られると厄介だ」
「近くに誰かいるの?」
「普段は村の者がここまで来ることはない」
「じゃあ、いいじゃない」
「……」
「ねぇ、ちょっと外の空気を吸うだけ。ね?」
ソフィーは主人の傍らによると彼を見上げた。間近でその瞳の色を覗き込んだ。同じ女でも彼の妻とは随分タイプの違う女だと思う。もっとも人間の女と魔族の女を比べることの方が間違っているのかもしれないが。
ソフィーは邸を出て、その周りを歩き出した。この邸の近くには沼がある。その沼で魚をとるのが主人の楽しみの一つだった。そこをぐるりと回ると言ってきかない娘に付き添うと、一周を巡るなかほどまで来たところで娘は言った。
「お腹がすいた」
「……」
この時、心底思った、人間というのはなんと面倒臭い生き物だ。
「ねぇ、お腹すいた。おじさんはお腹、空かないの?」
「我々はお前たちのようには腹は空かない」
「え、そうなの?」
「そうだ」
ダラダラと歩き始めた娘をおいて、先をゆく。
「疲れた。もう歩けない」
「お前が外へ出たいと言ったのだろう?」
「でも、疲れた。お腹も空いたし」
これには本当に参った。振り向いて立ち止まった娘と顔を合わしため息が出た。その顔を見て、ソフィーはふふふと笑った。それからふと視線を主人からずらすと斜め奥を見る。
「あ」
「なんだ」
答えずにそのまま道から外れてガサガサと草をかき分けながら下へとくだる。
「おい」
主人もその背中についていった。とある木の下で立ち止まり見上げる。
「なんだ」
「山葡萄」
見ると娘の指差す先に木に絡まって蔦を伸ばした葡萄の木が実をつけていた。
「食べられるのか」
「食べられるわ」
そして、パッパと靴を脱ぎ裸足になると傍であっと思う暇もなくスルスルと木に登りふさを摘み取ると上からポイポイ下へと投げ捨て、またスルスルと戻ってくる。
「猿のようだな」
「はしたないって言わないの?」
「はしたない?」
「わからないの?」
娘は地面におりて先ほど捨てた葡萄をスカートの上にのせ、両手でスカートを持ち上げ落ちないようにした。降りた道へと上り、沼の淵までゆくと葡萄を洗って口に含んだ。
「うまいか?」
「はい」
答えの代わりに数粒渡され、口に含んだ。それは初めて食べた味だった。そこには倒木があり、その上で2人で並んで葡萄を食べて沼の向こうに広がる空を眺めた。いつの間にか時が経ち、空は夕方の色に染まり始めていた。
「もっと欲しい?」
「お前が食べなさい」
娘は大人しくその言葉に従い、2人はそのまま黙ってしばらくそこにいた。
その後、気を取り直してまた歩き、邸へとたどり着いたときには玄関先にランプを掲げて立っているアルベルトの姿が見えた。
「どこへいっていたんです?」
「……」
呆れたような非難するような口調に答える気になれなかった。代わりにソフィーが答えた。
「散歩よ、散歩」
「なんと呑気な」
「葡萄を食べたわ。なかなか住むにはいいところね」
アルベルトはしかめ面になり、ちらりと主人を見つめた後で、言った。
「中に入ってください」
邸の台所のテーブルの上には、アルベルトの持ってきた葡萄酒とパンとチーズとハムの塊があった。娘は狂気した。
「外にあるのと変わらないわ。誰が作っているの?」
「そんなことはどうでもいい。それで、その器具というのはあったのか?」
アルベルトは元は医者が住んでいたと言われている家から持ち出したものをかたり、かたりと机の上に並べた。革のケースをパチリと開けるとそこには白くて尖った先端に何かの動物の腸だろうか半透明の管が繋がっている。
「この先にこうやって」
もう一つの革の古びた鞄を開けると中にはガラスの器具が入っている。丸い底辺から三角の形にすぼみ、細長い首のついた容器。
「これで取った血をここに溜めるのです」
「これはなんだ?」
先っぽにつけられたその尖ったものが珍しく思えた。
「貸して」
娘が横から手を出した。白くて細い指先でその尖った先端にそっと触れる。触れながらじっとその硬さを試しつつ眺めている。
「これはきっとあれよ」
「なんだ?」
「鳥の羽を抜くでしょ。その根っこの部分よ」
「そんなつまらないものか」
「そうね」
「よくわかったな」
「まぁね」
娘は手にしたものを元に戻すと、食べかけのパンとチーズに戻っていった。
「どうやって使うのだ」
「そんなに慌てなくても」
「これを腕に刺すのか」
「ああ、ダメダメ」
娘は年齢の割には執事よりも主人よりも物知りだった。
「赤ちゃんを産むのにだって全部綺麗に消毒してから使うでしょ」
「消毒?」
「煮沸するのよ」
鍋に綺麗な水を汲んでお湯を沸かすとその中に古い器具を入れてしばらく煮る。
「何も知らないのね」
「我々には無用な知識だ」
「そう」
消毒した器具をテーブルの綺麗な布を敷いた上に並べ、ソフィーは椅子に座り自分の片腕を掌を上にしてのせた。袖を捲れば白い透き通った滑らかな肌が覗いた。その滑らかな肌を見ると、喉の奥が疼いた。それはもう何十年も感じたことのない本物の飢えだった。眩暈がして軽く目を閉じ、主人は片手を額に当て体を斜めにして娘から視線をずらした。
「旦那様」
「お前がやりなさい」
娘は椅子に座ったままで2人のやりとりを下から眺めていた。おそらくアルベルトも今、本能に抗っているに違いない。管の一方をガラス瓶の中に入れると、白い尖った先を娘の白くて薄い肌に突き刺そうとする。娘はじっとその様子を見ながら歯を食いしばっていた。
「トルカ ボー ビンデン アンスィクテット」
主人が小さな声でそう呟くと部屋の中に不思議な光が生まれそしてその小さな光がまるで妖精か何かであるかのように駆け巡り風が起こった。ソフィーはポカンとしてそれを見上げた。
「いたっ」
その瞬間にアルベルトが娘の腕に針を刺した。赤い血が管を通って流れ出し、その匂いがまた鼻の奥を通り全身をざわつかせる。目を閉じ、ソフィーの方を見ないようにしてやり過ごした。
「なに?今の、今のが魔法なの?」
「もう、こんなことしかできなくなった。魔力の大半を失ったからな」
「何の魔法なの?」
「幼子が怪我をした時に、その痛みを取り除ける魔法だ」
「それでも痛いけど」
「言っただろ?魔力の大半を失ったから、本来の効果は出せないんだよ」
ソフィーは澄んだ目で主人を見ていた。その目は思慮深くしばらく主人の顔から離れなかった。
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