37話 決別
玄関で向かい合う春樹と遠藤さんは少しの間、互いを見つめ合い沈黙の時間が流れる。
「なんだよ?聞いてたのか?さっきの私と深瀬の話を」
「………………」
遠藤さんは春樹を目の前にしても強気な態度で言葉を発した。
対する春樹は唇を噛みしめて……感情が表に出ないようにしている。
それが遠藤さんに裏切られていたという事実による悲しみなのか、怒りなのかはわからない。
「合鍵、ここに置いておくから」
ポケットから合鍵を取り出して靴箱の上に置いた遠藤さんは靴を履いて春樹の横を通り過ぎる。
その行動から見ても、本当に彼女は春樹と別れるということらしい。
私としてはひとまずほっとした気持ちになるけれど……春樹はどう思っているだろうか。
「待て、聖菜」
玄関の扉を開けて出て行こうとする遠藤さんの腕を春樹は掴んで引き留める。
「なんだよ!放せよ!」
「待ってって言ってるだろう」
荒ぶる遠藤さんとは対照的に、春樹は落ち着いた声色で彼女に語り掛ける。
きっと春樹は、さっきの私たちの話を聞いていたんだ。
「なに?さっきの私と深瀬の話を聞いてたんじゃないのか?」
「…………ああ。聞いてたよ。で、それがどうした?」
春樹のこの反応……。
やっぱり、彼は……。
「だったらもうわかってるんだろう?私がどういう人間で、何をしてきたのか」
「…………」
言葉が出てこないのか奥歯を噛みしめている春樹の表情を見ているだけで私はつらい。
遠藤さんは自分の欲求を満たすために、事を画策して行動を起こした。
その結果、私と春樹の間には距離ができてしまい、遠藤さんは彼を手に入れた。
私は遠藤さんのことが憎い。
自分が悪いことはわかっている。
それでも遠藤さんがいなかったら、あそこまで大事にはならなかったのではないかと……。
いや……やめよう。
私も遠藤さんも……美和も田宮先生も千田先輩も、皆が道を間違えたんだ。
今一番つらいのは、きっと春樹のはずだから。
「俺と別れるってこと、か?」
「はあ?当たり前だろう?っていうか、さっきの私の過去の話を聞いてまだそんなこと言ってるのか?」
「俺は……おまえの話がすべてだとは……思えなくて」
「本当に中学の時から変わらないな。お人好しで依存体質で。あの時は深瀬に依存していただろう?それが今は私になっているだけだ」
「そんなことは…………ない」
春樹の声に、表情に、だんだんと生気が抜けていくようだった。
私は彼のこの表情に覚えがある。
中学の時……私が春樹の陰口を言っていることを知られて、彼と鉢合わせた時。
あれは遠藤さんの画策だったことを今となっては理解しているけど、胸が張り裂けそうだった。
今はあの時と私たちの状況は似ているけれど、立ち位置は異なっている。
私が春樹を裏切ってしまった中学時代と、遠藤さんが春樹を裏切っていた今の形勢。
でも、昔と決定的に違うのは春樹の心だと私は思う。
遠藤さんの異常性が明るみになっても、大事な人に……好きな人に裏切られたその事実を受け入れたくなくて、彼はなんとか繋ぎとめようとしている。
(なんで……春樹……)
私は少し離れたところから二人のやり取りを見て、また醜い感情が脳裏をよぎる。
今のこの状況は私にとって喜ばしいことなんじゃないだろうか。
遠藤さんが春樹の元を去っていったら、私にもチャンスがあるんじゃないだろうか。
中学時代の遠藤さんがしたように、彼女のしてきた行動を咎めて春樹にこちらを振り向かせることができるんじゃないだろうか。
(違う……。それだと私は何も成長していないし、遠藤さんと同じだ)
そう……中学時代から成長したと、私はそう思いたいからこそ春樹のことを今は見守ることにした。
「聖菜。俺はずっと……おまえの本音が聞きたかったんだ」
「本音?……そういえば、昔もそんなことを言っていたな」
春樹は遠藤さんの目を見て言葉を続ける。
「俺と一緒にいて楽しくなかったか?」
「いや、楽しかったよ。退屈しなかった」
「だったら」
「だから!……それはおまえが私の玩具だったからだ!」
遠藤さんは春樹の腕を振り払って、大きな声を上げた。
まるで春樹を突き放すように。
「本音が聞きたい!?じゃあ教えてやるよ!もうおまえに飽きたんだよ。最近はめっきり刺激の無い緩い生活ばかりだしな!」
「俺はおまえにとって……もう、大きい存在じゃないってことなのか?」
「ああ……そうだよ。ガムと同じだ。長時間嚙んでると味は無くなる。それに……もうおまえの味にも飽きたんだよ」
そう語った遠藤さんは静かに玄関の扉を開けた。
「じゃあな……浅野」
去り際に春樹のことを苗字で読んで部屋を出て行った。
それは決別を意味していることに他ならない。
春樹は彼女の背中に手を伸ばしていたけれど……これ以上、遠藤さんを引き留めることはしなかった。
▽▼▽▼
「春樹……大丈夫……?」
「…………」
遠藤さんが立ち去って、私と春樹の二人きりになった。
私は春樹の隣に駆け寄って声を掛けたけれど、彼は放心状態で返事はない。
「遠藤さんのことは……もういいんじゃないかな」
「…………」
春樹は何も答えてくれないけれど、私は言葉を続ける。
「私たち、幼稚園の時から10年間いつも一緒にいたよね。中学時代、私が春樹を傷つけてしまって……そこで別々の道を歩むことになったけど。私はね、やっぱり春樹のことが好きなんだ」
こんな状況でこんなことを言うのは卑怯だと思う。
弱った春樹の心につけ込むみたいに、自分の気持ちを彼に知ってもらって意識してもらおうとしている。
それでも私は遠藤さんと春樹が一緒にいたという事実にこれ以上耐え切れない。
「志穂……俺は……」
やっと彼が口を開いてくれた。
春樹が私の顔を見てさらに言葉を続けようとした時、嫌な予感がして咄嗟に大きな声が出た。
「わ、私!私ね!」
私は焦った。
また春樹に……拒絶されるのではないかと、そう思った。
「私、春樹のためだったら何でもできるよ!お料理だって自信あって、春樹の好きなもの作れるし。それに……け、経験はないけど、エッチなことだって!」
「志穂!」
春樹の声で我に返った。
背中にびっしょりと汗をかいていた。
「志穂……ありがとう。それと……ごめん」
「なにが……ごめん、なの……?」
もう……わかってる。
これは、あきらかに拒絶だ。
春樹は目の前にいる私のことなんかより、今も遠藤さんのことを考えているんだ。
そのことが……たまらなく悔しかった。
「なんで……なんでなの……春樹?」
自然と目から涙が溢れだして止まらない。
「どうして……遠藤さんのことを庇うの?」
震える声で、そう疑問を投げかける。
千田先輩や田宮先生に中学時代の話を聞いた時から、もしかしたらと思っていた。
「いや……そんなんじゃ……」
「庇ってるじゃない!遠藤さんのこと!」
合コンで再開して絶交される前と同じように接してくれて、過去の過ちを許してくれて……。
でも、ずっと疑問だった。
どうして、春樹の信頼を裏切った私なんかに優しくしてくれるのか。
「ねえ、春樹……。さっきの、遠藤さんの過去の話……知ってたんじゃないの?」
彼は目を丸くした後……俯いて何も答えてはくれない。
この沈黙が答えだった。
春樹はやっぱりわかってたんだ。
中学時代の遠藤さんのことを……。
「千田先輩が言ってたよ。何年か前に春樹に偶然会って、遠藤さんのことを話したって」
千田先輩が話をしたのは春樹が高校生の時だと言っていた。
その時から遠藤さんの本性に、もしかしたら気づいていた可能性だってある。
「志穂……本当に、ごめん」
「やっぱり……わかってたの?遠藤さんのこと」
「…………ああ」
ショックだった。
春樹は遠藤さんの本性を知っていながら、一緒にいたっていうの?
「遠藤さんのことを知っていたから……事の顛末を知っていたから、私のことを許してくれたの?私に優しくしてくれていたの?」
「…………ごめん」
頭が一瞬真っ白になった。
もしかしたらと予想はしていたけれど……。
私は呆然としてしまい、言葉が出なかった。
「志穂と……偶然再会した時にどう立ち振る舞うか悩んだ。中学時代のことはもう……気にしていないと自分に言い聞かせて……。聖菜のしてきたことを見て見ぬふりをしていたんだ」
なんで……そこまで遠藤さんのことを……。
「だから……志穂とも昔仲が良かった時にように、幼馴染の関係に戻れたらって」
「そんな……そんなの……」
全部、遠藤さんのためじゃない。
ただただ悔しい。
「春樹……でも、今は違うよね?」
「え……?」
さっき公園で春樹に告白した時、遠藤さんのことが好きだって言っていたけれど彼は確かに迷っていた。
「遊園地で遊んで食事して楽しかったよね。さっき言ってくれたみたいに、昔仲が良かった時の……幼馴染の関係に戻ったみたいに」
私は春樹の顔を両手で優しく包みこんだ。
そして、すかさず彼の唇に自分の唇を押し当ててキスをする。
「私じゃあ、ダメかな?」
公園でキスをした時と同じで私のキスを彼は拒まなかった。
「遠藤さんのことで、これ以上苦しまなくていいよ。私だったら……春樹のこと」
私の言葉を最後まで聞かずに、彼はこちらに背を向けた。
「志穂……聖菜のこと黙ってて、ごめん。今日は……帰ってくれ」
彼の消え入りそうな声が、今はこれ以上踏み込んでくるなと……私に警告しているような気がした。




