22話 寂寥
「春樹」
スーツ姿のその女性は春樹の名前で呼んで、私たちの前までやってきた。
その人は、春樹の隣にいる私のことを怪訝な表情で見つめてくる。
「……お疲れ、聖菜」
聖菜。春樹は目の前の女性をそう呼んだ。
春樹が私以外の人を名前で呼ぶなんて……。
私の知っている彼からは想像できなかった。
「春樹……その女、誰?」
その人は再び私のことを見つめながら……いや、睨みながらそう言った。
「深瀬志穂だよ。覚えてるだろう?」
「深瀬…………」
(この人……もしかして……)
「志穂も覚えてるか?遠藤聖菜って中学の時にいただろう?」
「あ……うん」
勿論知っている。
この人も私の過去の過ちを知っていて……春樹に絶交される直前に、さっきの公園で少し口論になったことも覚えている。
そして……今は、春樹の彼女。
「あ……深瀬志穂、です。お久しぶりです……」
遠藤さんからしてみれば、私の印象は最悪だろう。
彼女は私に鋭い視線を向けてきて……何も言わない。
「おい聖菜。どうした?」
「あ?いや、別に……」
黙り込んでいる遠藤さんに春樹が声を掛けると、彼女は大きく息を吐いてから口を開いた。
「どうも、遠藤聖菜です。春樹と同じ晃応大学に通っています。それと…………」
遠藤さんは鋭い視線を引っ込めて、優しい表情で自己紹介をしてくれる。
しかし、最後に言葉を切って……彼女は春樹の顔を伺いながら、彼の腕に抱きつくように自身の腕を絡ませて。
「春樹の彼女です。よろしく」
満面の笑みで、そう答えた。
「あ……はい。よろしく……」
心が乱れる。
この人が、春樹の……彼女なんだ……。
「聖菜、早かったな。もう終わったのか?」
「ああ。今日は初日だし、早く帰れたんだ」
遠藤さんは春樹との良好な関係をアピールするかのように、私に見せつけてくる。
いや……私が遠藤さんの行動を一方的にそんなふうに感じ取ってしまっているだけなのかもしれない。
さっきまで私が春樹の隣に立っていたのに……。
今、隣にいるのは彼女の……遠藤さん。
とてつもない嫉妬心が私の中で渦巻く。
もしも、中学時代のことが無かったなら……。
もしも、素直に気持ちを告げることが出来ていれば……。
隣にいるのは私だったかもしれなかった。
(違う!……すべては、自業自得……)
目の前で仲睦まじく会話をしている春樹と遠藤さんを見て、自分勝手な思いから不の感情が湧きおこってきたけれど……大きく息を吐いて自制心を取り戻す。
今こうやって、春樹と会話ができるように関係が戻っただけでも、感謝しなくちゃいけない。
でも、やっぱり……目の前の春樹と遠藤さんが仲良くしてる姿なんて……見たくない。
見たくなかった……。
「あ、あの。私……先に帰るね」
私は春樹にそう告げて、速足で自宅に向かって歩き出した。
「え?おい、ちょっと待てよ。志穂」
春樹の声が聞こえたけれど、私は構わず駆け出した。
走ると、潤んでいる目に風が当たる。
悔しくて、悲しくて、情けなくて、現実を受け入れたくなくて……涙が溢れる。
さっき見た春樹と遠藤さんの仲睦まじい姿が、目に焼き付いて離れない。
そんな二人から距離を取るように、私はがむしゃらに走った。
▼▽▼▽
「ちょっと待てよ。志穂」
俺の声が聞こえなかったのか、志穂は走りだし一人でそそくさと帰ってしまった。
「志穂…………か」
隣で俺に体を密着させている聖菜は小さくそう呟いた。
「聖菜、なんでここにいるんだ?おまえの家は、こっちとは逆方向だろう?」
教育実習で母校の中学へ行っていた聖菜は、スーツ姿でいつもより大人の女性と言った印象を受ける。
「春樹が今日実家に帰るって言ってたから……こっそり訪ねて驚かせてやろうと思って……」
「そうか……」
「まあ、驚いたのは私のほうだけど……」
聖菜は俺に絡めてくる腕の力を、ぎゅっと強めてくる。
「なあ、これから私の家に来ないか?」
「え?あー、でも実家に帰って父さんの荷物をまとめる必要があるしな」
今日は大阪に住んでいる父さんに頼まれて、実家に置いてあった衣服を宅配便で送るため、荷物の仕分けをしようと考えていた。
服ぐらい新しく買えばいいじゃないかと進言したが、父さんは昔から貧乏性であった。
宅配便で送るのにも送料が掛かってくるが、新しい服を買うよりそちらの方が安いと頑固な父さんは譲らなかった。
「それって今日しなくちゃいけないのかよ?」
「いや、まあ、今週中ぐらいに送ればいいだろうけど」
「じゃあ、今日はうちに来いよ。晩飯一緒に食べようぜ。今日はお父様もいるんだ。春樹に会いたがってたぞ」
普段、男勝りな言葉遣いの聖菜が父親のことを『お父様』と呼んでいることに、最初は驚いたものだ。
裕福な家庭というものは、そういうものなのだろうか?
聖菜の父親は大企業の社長で多忙だが、今日は自宅にいるらしい。
「いや、でも……突然お邪魔するのも、悪いし」
「そんなの気にするなよ。早く行こうぜ」
聖菜は俺の手をしっかりと握り、歩を進める。
「いやー、久しぶりに中学へ行ったのはいいけど大変だったよ。橋本って覚えてるか?」
「あ、ああ。俺たちの担任で数学の先生だったな」
「あいつ、まだあの中学に勤めててさ。私の担当も数学だから橋本の方針に従う羽目になってさ」
聖菜の自宅に向かうまで俺たちは手をつなぎ、いつも通り楽しく会話をして……。
「おい、聞いてるのか?春樹」
「……ああ。大変だったんだな」
「そうなんだよ。言うこと聞かない生徒も多くてさ」
彼女の手は、とても暖かい。
俺は聖菜の話に耳を傾けながら、その手を優しく握り返した。
▽▼▽▼
「ただいまー」
「お邪魔します」
「おかえり、聖菜。おっ、春樹くんじゃないか。久しぶりだな」
「あ、はい。お邪魔します」
俺たちは聖菜の自宅へ到着してエントランスに入ると出迎えてくれたのは、遠藤聖也さん。
この家の家主で聖菜の父親だ。
「そんなに畏まらなくていいから。さあ、上がって」
俺は靴を脱ぐと、家政婦さんが颯爽と現れてスリッパを用意してくれた。
「どうぞ、浅野様」
「ありがとうございます」
頻繁ではないが、俺も聖菜の自宅には何度もお邪魔している。
大体の家政婦さんとは、もう顔馴染みだ。
数名いらっしゃる家政婦さんは、俺に対して笑顔で会釈をして出迎えてくれる。
「春樹くん、少し話がしたいんだが。私の部屋に来てくれるかな?」
「あ、はい」
「ちょっと待ってくださいよ、お父様!私の春樹を取らないでください!」
俺と聖也さん(聖菜の父)が話をしていると、聖菜は頬を膨らませて敬語で父親に抗議している。
やはり家柄なのか、彼女の外での立ち振る舞いとは大きく異なる。
「はは、本当に聖菜は春樹くんのことが好きだな。もう少しで夕食だから、それまで私の時間潰しに付き合ってもらうだけさ。聖菜は早く着替えてきなさい」
「……すぐに着替えてきます」
聖菜はスーツから部屋着に着替えるため、自室へと向かう。
俺のことで、あんなふうに気持ちを全面に出してくれることは正直彼氏としては嬉しい限りだ。
▼▽▼▽
「いつも聖菜を助けてくれてありがとう。春樹くん」
「いえ……俺は何もしてませんよ」
聖也さんと俺は、彼の書斎のソファに向かい同士で腰かけている。
「いただきます」
家政婦さんが運んできてくれた紅茶を一口飲む。
そこらのスーパーで手軽に買える紅茶とは一味違う口当たりと風味。
この紅茶にしても、ティーカップにしても、どれも高価な物に違いない。
「いや、謙遜しなくてもよい」
「いつも聖菜……娘さんにお世話になっているのは俺のほうですよ。こちらこそ感謝しています」
上機嫌に話をしながら聖也さんも紅茶を飲んでいて、その表情は柔らかい。
「前にも話したかもしれないが、聖菜はとても優秀だったんだが、素直じゃない時期があってな。私と、あの子の母親が離婚してからは特に不安定だったよ。小学生や中学生のときかな」
(まあ、聖菜は中学で不良として有名だったしな)
聖也さんと聖菜の母親が離婚したという話は、本人からも少し聞いたことがある。
聖菜自身は特に気にしていないと言ってたが……。
「ところがある時から娘の様子が落ち着いてきて……派手だった容姿もやめて、学校の授業も真面目に受けていると聞いて……嬉しかったよ。それで思い切って娘に『心境の変化でもあったのか?』と尋ねてみたんだ。そこで、君の話を聞いたんだよ」
満面の笑みで俺を見る聖也さんは、本当に嬉しそうだ。
それだけ娘のことを……聖菜のことを想っているのだろう。
「偏見にも負けずに学校で一人、孤独に頑張っている同級生がいると聖菜が言っていてな」
中学当時、髪の色や悪い目つきのせいで周囲から煙たがられてた俺のことを聖菜は話したらしい。
確かにあの時……俺は同級生や教師からも白い目で見られていた。
でも……それでも頑張っていたのは、信じていた幼馴染が……志穂がいたからだった。
俺はあの時……孤独じゃなかった。
「大したことは、ありません。俺から見れば、聖菜……娘さんのほうがずっと一人で頑張っていたと思いますよ」
「うむ。そうか」
俺には志穂がいた。
まあ、結果的には裏切られる形にはなるのだが……。
聖菜には、誰もいなかった。
一人だったんだな……ずっと。
「と、まあ、前置きはここまでにして……実は春樹くんに提案があるのだが」
「なんでしょうか?」
「大学卒業後、我が社に入社しないか?」
唐突な話に、さすがに驚いた。
「それって、コネで就職させていただけるということでしょうか?それは流石にマズいのでは?」
「いや、普通に就職面接と我が社の試験は受けてもらうよ。まあ君なら余裕でパスするだろう。あとは私が少し人事部に口添えするだけだ」
不敵な笑みを浮かべながら、聖也さんがそんなことを口走る。
(それ……普通にコネ入社じゃねぇか)
そもそもコネクション自体は特に法律で規制されているものではないらしいし、問題ないのかもしれないが……。
「そんなに娘さんを御社に入社させたいんですか?」
「はは、君は何でもお見通しなんだな」
聖菜を自社に入れたい聖也さんは、俺を会社に取り込むことで彼女を振り向かせようとしているようだ。
大企業の社長で父親としては、自分の会社に娘を入れて社会人としてのスキルを確実に大切に身につけさせたい意向があるようだが……いささか過保護に見えてしまう。
そもそも聖菜は父親と同じ会社に入りたくないから、抗議する意味で教育実習まで行っているんだ。
「自由にさせてあげても良いのではないでしょうか?娘さんを」
「あ……うん。まあ、聖菜の気持ちを無碍にしようとは思っていないんだが……」
やはり父親としては、娘のことが心配なようだ。
その後も俺は少し聖也さんと雑談をして、着替えを終えた聖菜と3人で楽しく食事を堪能した。
▽▼▽▼
「で、どのゲームする?」
「おい、明日も実習だろう?こんなことしてて大丈夫なのか?」
食事を終えた俺と聖菜は、彼女の部屋で二人きり。
ゲームをしようとせがんでくるので、付き合っているのだが……。
「なあ聖菜……」
「ん?どした?」
「今日の夕方のことだけど」
「夕方?」
俺の話の意図がわからないのか、聖菜は疑問符を浮かべる。
「深瀬志穂の……ことだよ」
「あ?ああ……」
露骨に聖菜の機嫌が悪くなったのがわかった。
それでも俺は、この話を続ける。
「気にならないのか?俺があいつと一緒にいたことが」
「はあ?なに?……気にしてほしいのか?」
「いや、そんなんじゃない。ただ……何も聞いてこないから、気になっただけだ」
「別に……どうでもいい。だって……やましいことはないんだろう?」
「勿論だ」
俺は即答した。
ここで、俺も気になる疑問をぶつけてみる。
「俺が、誰と何してても疑わないのか?」
「疑わない。私は春樹を信じてるし……。でも……」
ここで聖菜は沈黙した。
室内にはテレビから流れるゲームの音楽だけが響き渡る。
「でも……なんだよ?」
「やっぱり、気になる……」
この時の俺は、聖菜が本音を言ってくれたような気がして……嬉しかった。
「なら聞けよ。遠慮せずに」
「うん……。深瀬と再会したのか?」
「ああ。おまえが行けと勧めてくれた合コンで、偶然。今日も白木の付き合いで飯を食いにファミレスに行ったら、志穂がそこにいたんだ」
今日は白木の事情で知らずに志穂と顔を合わせたこと。
帰り道が同じだったので、一緒に帰っていたことを説明した。
「じゃあ、なんで……深瀬のことを名前で呼んでるんだよ」
「それは……俺なりのケジメだな」
「ケジメ……?」
「俺にとっては中学の時のことは、もう昔のことなんだ。だからそのことで、目くじら立てたくない。志穂との関係も特に良し悪しが無いということだ」
「でも……」
納得できないといった表情にも見える。
いつも強気な聖菜らしくない弱弱しい声で、彼女は言葉を発した。
「春樹は、それでいいのか……?」
「ああ。もう一度言うけど……もう昔のことなんだ。俺は大丈夫だ」
俺は本心からそう思っている。
誰がどう思っても……俺の中では消化された出来事なんだ。
「聖菜……」
俺の声に反応して、こちらを振り向いた彼女の唇にキスをする。
突然の俺の行動に聖菜は目を丸くしているが、俺は構わずに行為を続けた。
聖菜もそんな俺に応えるように、ディープなキスを返してくれる。
互いの気持ちを確認する儀式が終了し、聖菜の顔が視界に入る。
珍しく赤面している彼女の姿が、より尊いものに感じた。
「好きだぞ。聖菜」
「うん」
二人きりの広い彼女の部屋で俺たちは、肩を寄せ合って互いの体温で温め合う。
もう、一人にならないように……。
もう、寂しくならないように……。




