21話 名前
「深瀬……おい、深瀬!」
「あ……うん、なに……?春樹」
「大丈夫か?ぼーっとしてるが」
時刻は16時過ぎで夕方。
今、私は春樹と一緒に自宅へと帰っている途中だ。
「うん。大丈夫、だよ」
ボウリング場で春樹に彼女がいることがわかって……ショックのあまり、その後の事はあまり覚えていない。
たしか、そんな私の様子を気遣って、今日はお開きにしようと梓が言ってくれて……帰宅することになったんだけど……。
『俺、今日は実家に帰る用事があるから一緒に帰るか?深瀬』
と、春樹に声を掛けられて……今に至る。
春樹の実家は私の向かいにあるわけだから、必然的に帰る方角が同じで……。
春樹が遠藤さんとお付き合いしてることを聞く前だったら、飛び上がるぐらい嬉しい状況だったけれど……。
いや……その事実を知って尚、私は春樹と二人きりで彼の隣を歩くことが出来ているこの瞬間にドキドキしている。
(本当に、未練がましい……。私って)
「それにしても白木は石井さんに気があるようだけど、脈なしだな」
「……そうだね」
春樹は少し暗い面持ちの私に対して、色んな話を振ってくれるけど……正直今の私は、そのことがつらい。
春樹に優しくされた分だけ勝手に期待値が膨れ上がっていたから……。
でも、彼女がいるとわかった今では……彼の優しさを感じても、ただ虚しいだけ……。
「昔……この公園で、よく遊んだよな」
「あ…………」
私たちの実家の近場にある公園の前で春樹は足を止めて、そう呟いた。
その公園で確かに私たちは、よく遊んだ。
でも、この場所に来ると私の脳裏に蘇るのは、彼との懐かく暖かい思い出ではない。
『さようなら、深瀬』
中学3年生の時、私の愚行が明るみに出て……春樹から絶縁の言葉を告げられた場所。
その時のセリフは脳裏に焼き付いていて、今でも鮮明に思い出す。
「懐かしいな。ちょっと寄っていくか?」
「え…………うん」
私と春樹は公園に入って、少しその中を歩く。
視界に入ってくるのは、懐かしの砂場や遊具。
(本当に懐かしい……)
幼稚園の時は、おままごと。
小学生の時は、遊具で遊んだり。
懐かしく大切な思い出……。
でも今は、そんな思い出に触れるだけ……喪失感を感じる。
思い出の中で、彼の隣にいたのは……私。
でも……今は違う。
遠藤さん……。
春樹には……もう彼女がいる。
「遊具でよく遊んだよな。深瀬はブランコから落ちて、ワンワン泣いたこともあったよな」
「…………うん」
(春樹……どうして?)
「この砂場でも、デカい山を作ったよな。どっちが大きく作れるか競争して」
「……………」
(どうして……優しくしてくれるの……?」
「夏は暑くて、すぐに喉が渇いたよな。この水道蛇口の水を飲んでさ」
春樹は、勿論わかっている。
私の愚行から亀裂が入って、私たちの幼馴染の関係が終わってしまったのが、この公園だって……。
だから彼は、その過去の出来事を……それ以前にあった綺麗な思い出で上書きしようしてくれている。
私がそのことを気にしているのを見越して……。
彼が私を気遣ってくれていることが痛いほど伝わってくる。
『もう、気にするな』
そう優しく語りかけてくれているかのように……。
でも……やっぱり、わからない。
「ねえ……春樹」
「ん?」
「なんで……」
なんで、許してくれたの?
なんで、私に優しくしてくれるの?
そう彼に問いかける言葉が喉元まで出かかる。
でも……聞けなかった。
「…………」
「どうした?深瀬?」
昔は、彼の考えていることがよくわかった。
幼馴染だったから……一緒に過ごしてきた彼との時間があったから。
しかし、今は彼のことがわからない。
それはきっと、私と彼との間に距離が出来てしまっているから。
それだけの時間が経過してしまったから。
春樹が私に対して、優しく振舞ってくれる理由が……そこに関係あるような気がして……。
そう思うと……怖かった。
「本当に大丈夫か?」
「春樹……」
今の彼は……私の知らない春樹……。
それなら……もう、一層の事……。
「名前で、呼んで」
「……え」
春樹は少し困惑した表情になった。
「昔みたいに、志穂って呼んで」
私は春樹の目を真っすぐ見て、そう言葉を発した。
彼は私から視線を逸らして、口を結ぶ。
春樹の反応は当然だ。
表面上私のことを許してくれたけれど、彼は私のことを『深瀬』と呼び続けている。
それは、たしかな線引きに他ならない。
そこにあえて私は踏み込んだ。
臆病な私らしくない。
春樹に彼女がいると知って、開き直っているのかもしれない。
このままだと私は春樹のことを諦めることができない。
だったら、自分から彼のパーソナルスペースに大きく踏み込んで拒絶されたほうが……。
現状を理解できる。
現実を思い知ることができる。
もう私が春樹の隣に立つことが許される人間ではない……ということに。
「名前で……志穂って呼んで……。昔みたいに」
そう……彼に、大好きな春樹に突き放されることで……私は……。
「……いいよ」
「……………え……?」
(なにが……いいって?私は……春樹から距離を置かれることで、この気持ちを終わらせて)
「いいよ。志穂」
どうして……?
なんで……?
わからない……。
春樹のことが……わからない。
「さて、もう帰るか」
春樹は少し速足で公園を出た。
私は、そんな彼の背中を見つめて……涙を堪えていた。
久しぶりに名前で呼ばれて、感極まった。
彼が本当の意味で私のことを許してくれてるんじゃないのか?
そんな都合が良い憶測が、私の頭の中に浮かんでくる。
「志穂、帰るぞ」
彼が私のことを……私の名前を呼ぶ。
「うん……春樹」
私が彼のことを……彼の名前を呼ぶ。
彼の隣に並んで、私たちは実家に向かって歩き出す。
本当に昔に戻ったような、この感覚……。
(こんな……こんなの……諦められないじゃない……)
春樹に彼女がいることは、わかってる。
それでも今だけは、この瞬間は……隣にいるのは私だ。
「春樹」
「ん?」
「ありがとう」
「なにがだよ?」
優しくしてくれて、ありがとう。
そんな意味を込めて漠然とお礼が言いたかった。
「送ってくれて、ありがとうってこと」
「ああ。方向同じだしな」
春樹には彼女がいる。
ただの自己満足かもしれない。
だた、彼を諦めたくないだけかもしれない。
でもこの気持ちは、いつか伝えよう。
良い結果を望んでいるわけじゃない。
それでも、この気持ちは伝える。
私は、密かにそう決心した。
「春樹!」
しばらく静寂に包まれていた私たちの空間に割り込むように、後方から声が聞こえた。
振り返ると、視界に入ったのはスーツを着た綺麗な女性だった。
その人は落ち着いた様子で、こちら向かって歩を進めている。
誰だろう?と思った矢先……。
「聖菜」
隣にいる春樹が、そう呟いた。




