18話 誘引
「私のこと……嫌いじゃ……ない、の……?」
消え入るような深瀬の声が聞こえた。
「嫌いじゃないよ……」
これは本心だ。
中学の時のことなんて……気にしていない。
五月の夜風は少し暖かい。
深瀬を送り届けた俺は、一人暗い道を歩いて自宅マンションへと帰宅した。
「ただいま」
玄関に入ると、スパイシーないい香りが漂ってくる。
「おう、おかえりー」
リビングではエプロン姿の聖菜が、キッチンで作業をしながら俺を出迎えてくれた。
「この匂い……カレーか?」
「ああ。どうせ緊張して、ろくに食事できなかっただろうと思ってな」
女が苦手な俺が、合コンの席で食事が喉を通らなかったのではないかと察して、夕飯を作ってくれているようだ。
しかし、不思議なことに特に緊張することなく飯を食って帰ってきたから、正直腹は減っていないんだか……。
「で?どうだった、合コンは?少しは女慣れしたか?」
「あー、そうだな。まあ、それなりに会話はできたぞ」
「なんだよ、結構楽しんできたってことかよ……」
少し俯きながら細々と言葉を発する聖菜を見て、俺は思わず彼女の体を抱き寄せた。
「おー?どうしたよ、そんなに私のことが恋しかったのか?」
「ああ、そうだよ」
俺は優しく聖菜を抱きしめると、彼女も俺の背中に手を回して互いの体温を感じ合う。
「春樹に抱きしめられると、満たされるなぁー」
満足そうにしている聖菜の表情を確認した俺は、少し……安心した。
さっきまで一緒にいた深瀬の顔が……俺の頭には浮かんでいた。
中学の時なんて……昔のことだ。
(気にしていない……。気にしていないんだ……)
俺は自分に……そう言い聞かせる。
「カレー食べるか?」
「ああ、腹減った。一緒に食べよう」
聖菜とテーブルを囲み、彼女の手料理を口に運ぶ……幸せなひと時。
「美味いな」
「当然だろう?」
味の感想を伝えると彼女は満足そうに微笑んだ。
居酒屋でしっかり飯を食べてきたので正直満腹ではあるが、そのことを悟られないように俺は聖菜が作ってくれたカレーを頬張る。
「で?合コンはどんなメンツだったんだ?」
「俺以外は皆スポーツしてる人間で、肩身が狭かったよ。会話も相手に合わせるだけだったしな」
「そうか。まあ、春樹に合コンは荷が重かったか」
「ああ。もうこれっきりだな」
その合コンで深瀬と再会したことを、俺は聖菜に言わなかった。
▼▽▼▽
「おい、おい!起きろ聖菜!」
「あ……ああ、おはよう春樹。どうした?」
「どうしたじゃないだろう?もう7時だぞ」
「あ?まだ7時だろう?もうちょっと寝かせてくれよ」
俺と同じベッドで眠っていた聖菜は、布団を頭から被り起床することを拒む。
「なに言ってるんだ?おまえ、今日から教育実習で母校の中学に行くんだろうが!」
「ん……あ!そうだ、忘れてた!」
布団を蹴り飛ばしてベットから飛び起きた聖菜はドタバタと慌てている。
「おい、まず服を着ろ」
「あー、私のパンツどこだよ!?ブラもどこいった!?シャワー浴びてる時間ねぇじゃん!」
8時までには中学校へ赴かなくてはならないので朝飯を食っている時間はなさそうだ。
寝癖をしっかりと直して、スーツに袖を通して10分ほどで身支度は完了した。
「気をつけて行ってこいよ」
「ああ……」
冴えない返事をした後、聖菜は一つ溜息をついた。
「今更ながら面倒くさいな。中学生の相手なんて……」
「そう言うなよ。せっかく、ここまで教職の単位を取ってきたんだから」
聖菜は教師になる目標があるわけではないので、この実習がより億劫に感じてしまうのだろう。
「でも……今日からしばらく、春樹に会えないし……」
教育実習中の3週間は多忙で、夜遅くに帰ってくる上に翌日の朝も早い。
俺の部屋に帰ってきて泊まったとしても、ほとんど睡眠を取ることぐらいしかできない。
そのため当然聖菜は自宅から中学校に通うことになっているので俺と顔を合わせることができる時間は少ない。
「土日は会えるじゃないか。それに俺も就活があって忙しいから、お互い自分のことに集中したほうがいいいだろう?」
俺の言葉を聞いて聖菜の表情は、より浮かない表情になる。
そんな聖菜の沈んだ感情を払拭するように、俺は彼女を優しく抱きしめた。
「聖菜、頑張ってこい。俺も頑張るから」
「お、おー」
俺の突然の抱擁に少し面食らっているが、『わかった』と彼女は力強く言葉を返してきた。
そんな聖菜を見送ってから、俺も素早く身支度を済ませる。
彼女を抱きしめた時の温もりが……まだ手の中に残っている。
その温もりが、今の俺には尊いものに思えて仕方がない……。
「さて、行くか」
物思いに耽ることを辞めて、俺は大学へと向かった。
▽▼▽▼
「あーあ、今日も怠いなぁ。大学」
「白木は大学卒業しても野球続けるのか?」
大型連休が明けて数日が経ち、普段通りの大学生活が再び始まっている。
「いや、どうだろう。社会人野球とかで続けてもな、プロになれる実力があるわけじゃないし」
普段お気楽に見える白木も、流石に進路のことで思い悩んでいるようだ。
「そういえば白木。この前の合コンで石井さんとの距離は詰められたのか?」
「え!?な、なんで、俺の目当てが石井さんだって知ってるんだ?」
「いや……おまえ、ずっと彼女に話しかけてたし……気があるのは見てればわかるぞ」
白木はばつが悪そうな顔をしたが、観念したのかすぐに心の内を明かしてくる。
「石井さんの話を聞いてるとさ、彼女がとても友達想いなのが伝わってくるんだよな。だから……いいなぁって思って……」
白木らしい単純な理由だと思った。
まあ、人を好きになる原理は案外単純な構造なのかもしれない。
かく言う俺も……多分、そうなんだから……。
「え!?」
「な、なんだ?どうした?」
スマホを見ていた白木が突然声を上げたので、何事かと驚いた。
「あ……いや、なんでもない……」
白木はスマホを少し操作した後、ポケットにしまった。
「なあ、浅野くんは授業午前中までだよな?」
「ああ。俺は、もうほとんど卒業単位を取得してるからな」
羨ましいぜ、と呟きながら俺の隣を歩く白木は言葉を続けた。
「な、なあ、昼飯どうする?」
「俺はいつも通り食堂で済ませる。今日は、もう予定も無いし……帰って勉強でもするか」
「その……遠藤って、午後から講義なのか?」
「いや、聖菜は今日から教育実習だから公欠だ」
なんで、こいつが聖菜のスケジュールを確認してくるんだ?
「そうか、それは都合がいい!」
「は?なんだよ、どういう意味だ?」
「あ、いや……」
俺がそう聞くと、白木は平静を装うように一つ咳払いをした。
「実はさ、行きたいファミレスがあってさ。これからそこで、昼飯を食べに行かないか?」
「え、でも、白木は昼からも講義があるだろう?」
「あー、今日はサボりだよ、サボり」
ただでさえこいつは通常の講義についていくのが難しいのに……。
(サボっている場合ではないだろう)
俺の心配を他所に、『早く行こうぜ』と急かす言葉を掛けてくる。
「はいはい」
正直、学食のメニューは食べつくしているので、たまには違う場所で昼食を取るのも悪くないと思った俺は白木と共に、そのファミレスへと向かうことにした。
▼▽▼▽
「よし……着いたな。入るか……」
白木に連れられてやってきたのは、全国展開している有名なファミレスだった。
大学から徒歩20分ほどで到着したその店を前にして、白木の表情は少し硬い。
ファミレスに入るだけなのに何に緊張しているのか、俺にはさっぱりわからない。
「おい、早く入ろう。腹減ったし」
「あ、ああ」
俺が促すと、こいつは息を大きく吐いてから店の扉を開けた。
「いらっしゃいませ!」
店員さんの大きな声が店内に響き渡る。
平日ではあるが昼時ということもあって、店内は少し込み合っている。
「2名様ですね。空いているテーブルにご案内します」
俺たちに近づいてきた店員さんが、親切に接客をしてくれるのだが。
「あ、その……連れが先に来てると思うんですが」
(連れ?)
白木はそう言うと、店内全体を見回している。
「おい白木。誰かと待ち合わせしているのか?」
「え?あー、いたいた。こっちだ、浅野くん」
俺の質問などそっちのけで、こいつに腕を引っ張っられながら歩を進める。
ここにやって来るまでの白木の様子と今の言動から、俺はとてつもなく面倒な気がしてならなかった。
「ご、ごめん、遅くなりました!」
店内一番奥のテーブル席の前に赴くと、白木は元気よく謝罪の言葉を発した。
「私たちも今来たところだから大丈夫だよ」
言葉を返して素早く立ち上がり優しく微笑みかけてくる女性は、数日前の合コンの席にいた石井さんだった。
「浅野くんも、こんにちは」
「あ……どうも石井さん」
「名前、憶えてくれてたんですね」
あの合コンは記憶に新しい上に、石井さんは女性陣の中でも場をまとめるのが上手だった印象もあり、名前もしっかり憶えていた。
それに……合コンであまり会話に混ざれていない深瀬を馴染ませようと、尽力していたことも印象的だった。
「ほら、彼、来たよ」
石井さんが隣に座っている人物に声を掛けた。
その人物は石井さんの影に隠れるように身を縮めていたが、徐に立ち上がり伏せていた顔を上げて、俺と目が合う。
「こ、こんにちは」
「ふ、深瀬……」
石井さんの姿を見た時から隣にいるのはもしや、と思ったが……。
挨拶をしてくる深瀬は少し気まずそうに一度視線を逸らしたが、再び俺と目を合わせると次は視線を外すことなく見つめてくる。
そんな彼女の何かを訴えてくるような視線を……俺は逸らすことができなかった。




