【忘却】‐Forgetfulness‐
「そろそろ、身近にいる大切な奴らを思い出せなくなってるんじゃないか? それにオレ以外の声は憶えていないだろ」──ジャスミン茶を飲み干したテレム。
「悪いがこの体はまだ幼い。認知症には早すぎる」──冷静を装い、ダージリン茶を飲む。
記憶の中だから味はしないのかとも思ったが前世と同じく、こんな場面なのに心が安らぐ。
しかしテレムが何も感じていない様子を見るに、その味を経験した者しか味わえないのかもしれない。
「なら君の妹の名前は?」──「■■■■」
「君の婚約者は?」──「■■■■■」
「君の探偵仲間は?」──「■■■■と■■」
これは困った。……さっぱりだ。
名前はおろか、顔すら思い出せない。
テレムは勝ち誇った笑顔を見せる。
「強がらなくていい。アルバちゃんの記憶から失われた物は全て、オレに流れ込んで来ているんだから。そろそろ記憶の安定がなくなっていくぜ。連想ゲームみたいに情景がコロコロと変わっていくんだ」
「それから真っ白になる。空っぽの俺を理想の親友に仕立てるわけか」
「その通り! オレだけが扱える最強の親友さ。手始めにこの学校を破壊しよう。アルバちゃんの仲間や、妹王女すら灰にしてしまうんだ」
「お前に出来るのか?」
掴みどころがないチャラ男が少しだけ動揺する。
苦笑い。──『なにが言いたい?』と目で訴えてきた。
「■■■■。……俺の妹。お前の元婚約者を、手にかけられるのか?」
「──……はぁ!? 急になにを言い出すかと思えば、訳の分からない事を」
「ブラックの身体を隅から隅まで調べた。数箇所に[獏]の目印がされていた。【記憶操作魔法】は不安定だからな。定期的にメンテナンスが必要になる」──それよりも不可解だった点がある。──「妹につけられた目印と同じだった」
「さぁ。不都合な場面を覗き見されて、記憶を消したのかもしれない。記憶にないが」
「【テレム・モリセウス】。偽名だろ? まあ、潜入で本名を使う程馬鹿ではあるまい」
「だったらどうした? 本当の名前に何の意味があるって言うのさ。自由に操れるようになるわけでもないし、天空の城の王族でもない。言及したって、無駄な時間だ」
「密会暗号を考えたのなら、言葉遊びが好きだろう。この名前は思うに、3つの単語の並び替えだ。『テセウス』『レ』『ムモリ』。まず『テセウスの船』、お前を現すにはぴったりな思考実験じゃないか。『レ』はローマ字にして『Re』。『ムモリ』は『MUMORI』……記憶」
「誤字だ。詰めが甘いぞ、迷探偵」
「ああ。記憶の綴りは『MEMORY』。『E』と『Y』が違うな。妹の元婚約者【エウロス・ヤングレー】のイニシャルだ」
誤った記憶。
この男のユーモアだけは認める。
なかなか面白い偽名だとは思う。
「お前は婚約者時代に妹の記憶を奪おうとした。だから俺の加護によって多少の記憶しか奪えなかっただろうが、第三王子アルバートの顔や黒髪であると知っていた」
「おいおい、ヤングレーと言えば同盟国の公爵子息だろ? 両親が共に[純人間種]なはすだ。オレの肌を見てみろよ」
舞台役者のような大げさな手振りで大笑いする。
どこからどう見ても、[獏]。
「孤児か。浮気相手と出来た子なのではないか。それを知ったお前は自分の出生に失望し、両親の記憶を全て奪い植物状態に追い込んだ」
「──違う!!」
「なにが違うというのだ」
怒りか、哀愁か、どちらとも言えない表情を浮かべる。
それから『どうせ忘れるから吐いちまうか』と深くため息。
「オレはあのふたりを本当に愛していた。それだけは嘘じゃない。でも出生を知られるわけにはいかなかったんだ。知らずに幸せでいて欲しい。『本当の息子だと思っていた奴が、妻の寝込みを襲い孕ませた使用人の息子』なんて」
使用人という単語に怒りが籠っていた。
メイド服の■■■■に罵声を浴びせたのも、その出来事が発端なのだろう。
他人の記憶を奪っても罪悪感ひとつ覚えない男が、『悪漢の息子』という事実を恥じている。
──エンジンの音がした。
先程まで探偵事務所にいたはずなのだが、[龍]のステッカーを付けたカフェレーサーというバイクに乗っていた。
超高速で駆ける。
「な!?」──急な事で転倒しそうになった。
「だから言ったろ、『連想ゲーム』が始まるって。今の会話でそのバイクに関連した事を思い浮かべたんだ」
「なるほど。リズベット先生か」
女性を辱める悪漢。と聞きそれを成敗する女性探偵を連想したのだろう。
テレムは真っ赤な金●バイクで横に並ぶ。
バックミラーを確認すると巨大な黒い靄のようなものが追いかけてきている。
「こうして次々に消えていく。オレが黒幕って知っているアルバちゃんが忘れて味方になってくれれば、この事件は丸く収まる。真相はこの学校の全員が犯人で、第三王子が正義の鉄槌を下したってオチだ」
『全員が犯人』と聞き、また場所が変わった。
今度は豪華な急行列車の中。
「随分と力業な結末だな」
「脚本に文句を言う奴は新生アルバちゃんに消してもらうさ。──だから、古いアルバちゃんとの会話は飽きてきたところだし、〝決着〟を付けよう」
自分でも単純だと思う。
テレムの言葉を受けて、【ライヘンバッハの滝】を連想するなんて。
水飛沫を受けながら互いを睨み合う。
……イチかバチか。
俺は走り出し、テレムを突き落として滝から一緒に落ちる。
「ここでは[探偵]だけが生き残るってのがお決まりだ」
「残念だなぁ、アルバちゃん。記憶の支配者はオレだ。──配役すら、自由自在ってな」
テレムの服装が変わる。
鹿討帽、インバネスコート、喫煙パイプ。
「さらばだ。我が宿敵」
高い水飛沫を挙げて、滝壺に溺れる。
俺は意識を失い。
黒い靄が身体を覆っていく。
──その瞬間、記憶の世界に薔薇が咲き乱れた。




