92 伝書鳩
「それじゃあ、僕はちょっと出てくるよ」
散歩にでも出るかのような気軽さで、ノアが言った。
妻が行き先を訊ねると「人の立ち入れない場所」だと答える。
妻はついていきたそうにしていたが、ノアに「危ないから、お留守番していてね」と言われ、しぶしぶ頷いた。
「時間かかるのか?」
「うぅん、どうかな。そんなにはかからないと思うよ」
そう言ってノアは、指をパチンと鳴らした。
すると、小さな鳩のような小鳥が現れた。
鳩のような、と形容したのは、小鳥が白ではなく緑色の羽を纏っているからだ。
妻は小鳥を見るなり、目を輝かせて「かわいい」を連呼している。
「何かあったら、その子を通して連絡して。僕の名前を3回続けて唱えたら、会話ができるようになってる。ま、電話のようなものだね」
「わかった。でもなんで鳥?」
「伝書鳩がモチーフだから。こういうの、伊月くんも詩織ちゃんも好きでしょ?」
ノアがくすくす笑う。
確かに俺も妻も、小動物に目がない。
しかし、かわいい小鳥に興味津々なのは、もう一匹。
妻の足元で、コトラがじりじりと小鳥と距離を詰めていく。
そして隙をついて飛び掛かった。
危ない、と咄嗟に止めようと手を伸ばす。
しかしコトラが触れようとした瞬間、小鳥はゆらりと煙のように姿を揺らした。
コトラの前足は宙を切り、コトラは不満げにしっぽを揺らした。
妻もひやりとしたようで、青い顔をしながら安堵のため息をついている。
「この子は僕の分身のようなものだから、コトラがじゃれついても大丈夫」
「早く言ってくれよ……」
「ごめんごめん。それでね、僕から連絡するときも、この子を通すからよろしくね」
「ああ」
「四六時中、この子は伊月くんについて回るから」
「ああ……って、ずっと?!」
「そ。お風呂もトイレも」
緊急時に備えることを考えると仕方がないのかもしれないが、ずっととなるとあまりいい気はしない。
ノアはそんな俺を見て、楽しそうにしている。
「それで、なんで緑なんだ?鳩って言ったら、白いイメージだけど」
「そこは単なるオリジナリティ。白い鳩だったら、そのまますぎて面白みがないでしょ?」
面白みは必要ない気がしたが、黙っておくことにした。
「じゃあ、僕は行くから。伊月くんと詩織ちゃんは、自由に過ごしていていいよ」
「わかった」
「でもできれば、シャルロッテちゃんのケアをしてあげてほしいな」
「ケア?」
「そう。ロエナちゃんも支えてくれると思うけど、出身が同じ方がわかりあえることも多いでしょ?」
俺は頷いた。
長い時間虐待を受けてきたシャルロッテは、心身ともにボロボロの状態だ。
できることは少ないかもしれないが、少しでも心を軽くしてあげることができれば、と思う。
そしてノアは小鳥とじゃれ合って遊んでいる妻に、ひとつ頼み事をした。
「詩織ちゃん。よかったら、シャルロッテちゃんの友だちになってあげてくれない?」
「友だち?」
「そう。彼女ね、前の世界では病気でずっと入院していて、こっちに来てからも屋敷にずっと閉じ込められていて、友だちとあんまり遊べなかったんだって。詩織ちゃんが仲良くしてあげたら、喜んでくれると思うよ」
「本当?!詩織、シャルロッテちゃんと遊びたいなって思ってたの」
無邪気に笑う妻の頭を、ノアが優しく撫でた。
大人が小さな子どもの頭を撫でるように。
「じゃあ、行ってきます」
そう言って、ノアがまた指を鳴らした。
その瞬間、ノアの姿はぱっと消え去った。
俺はさっきまでノアが立っていた場所をぼんやり眺めながら「一人で移動するときは、あの白い扉は使わないのだな」なんてどうでもいいことを考えていた。