82 パワープレイ
「あら、手が滑ってしまいましたわ」
お茶会が始まって早々、飄々と言ってのけたのはロエナだった。
彼女の手には、空になったティーカップが握られている。
ティーカップの中身は、ダルモーテ侯爵家の長女が頭からかぶっている。
俺は唖然としてロエナを見ていた。
まさか少女にいきなりお茶をかけるとは思わなかった。
「ごめんなさいね。着替えを用意させますわ」
ロエナが侍女に目配せをすると、侍女が少女を鮮やかにその場から連れ出した。
突然のことに、ほかの参加者は呆然としている。
ロエナは可憐な笑顔を浮かべたまま、非礼を詫びた。
「先に始めてしまいましょう」
そう言って、さっそくロエナは令嬢たちに俺たちを紹介した。
簡単な挨拶だけを済ませ、俺とノアはその場を退出する。
お茶会会場について、まだ5分も経っていない。
会場を出たノアは、くっくっくっと笑いをかみ殺している。
「あのお姫様、すごいパワープレイだね。あんな荒業で姉妹を引き離すとは思わなかったよ」
俺もその意見には同意だ。
お茶会直前に、怒りの燃料を注いでしまったのがいけなかったのだろうか。
「でもあのお茶、熱かったんじゃないか?何もあんな方法じゃなくても……」
「大丈夫、お風呂の湯ぐらいの温度だったよ。事前に指示を出していたみたいだね」
その言葉に安堵する。
そして会場の外で待機していたメイドに、少女の元へ案内される。
着替えが済んだ少女は、事前にロエナが用意しておいたらしい部屋に通されていた。
ゆったりとしたドレスは、少女のためにロエナが選んだという。
少女は部屋に入ってきた俺たちを見て、警戒を強める。
「こんにちは」
警戒を和らげようと、笑顔を作る。
少女は、小さな声で「……こんにちは」と返した。
「ダルモーテ侯爵家のシャルロッテ嬢だね?それとも、勇司くんの妹の茜ちゃんって呼んだ方がいいかな?」
俺の言葉に、少女が目を見開く。
そして「……あなたは誰なんですか?」と怯えた声で問いかけた。
「俺の名前は、瀬野伊月。君のお兄さんの知り合いなんだ」
「お兄ちゃん……?」
「この世界の勇者の話、知ってる?」
「魔王を倒したっていう、あの勇者ですか?」
「そう、あれ、君のお兄ちゃんのことだよ。すごいよね」
俺がそう言うと、茜は唖然としていた。
彼女の知る兄の姿と、王国内で語られる勇者の姿が一致しないのだろう。
「瀬野……さん」
「なんだい?」
「瀬野さんは、こっちの世界の人なんですか?それとも……」
「俺は日本人だよ。この世界には、君に会うために来たんだ」
「……私に?」
俺は頷いた。
日本人だという言葉に、彼女の警戒が少し薄れたのがわかった。
「勇司くんは、君と入れ替わりに日本へ戻った。そして今は、消えてしまった君を探している」
「……私は……女神さまに、お兄ちゃんを助けるためにこの世界へ行くように言われたんです……」
「勇司くんを?」
茜は、異世界へ転移する前に女神に会ったそうだ。
女神は、兄である勇司が事故に遭い、生死をさまよっていると言った。
それを救う見返りとして、女神の世界へやってきてほしいと。
元の世界での茜の命は、風前の灯火。
もはや長く生きることは叶わないと言われ、それならばせめて兄を救いたいと異世界へ渡ることを決めたのだそうだ。
女神は茜の献身に感謝し、幸福を祈ってくれたという。
「残念だけど、その話はすべて嘘だよ」
茜にそう告げたのは、ノアだった。
「勇司くんは事故には遭っていないし、生死をさまよってもいない。……あちらの世界での君の命が残りわずかだったという話以外は、すべてでたらめだよ」
「……そんな……」
茜の瞳からは、大粒の涙が零れ落ちていた。
少女があの地獄の日々に耐えてきたのは「兄のため」という理由があったからなのかもしれない。
それが失われた今、茜の張りつめていた糸は切れてしまったのだろう。