77 姫
ロエナという名前には、聞き覚えがあった。
確か、勇司が異世界で恋に落ちた女性の名前が、ロエナだったはずだ。
しかし、そこでふと疑問が浮かぶ。
この世界とあちらの世界では、時間の進み方が違うはずだ。
勇司の話では、魔王討伐にかかった期間は、およそ3年。
しかし元の世界では一晩しか時間は経っていなかったという。
勇司に始めて会った時点で、勇司が異世界から帰還して1年以上が経過していた。
それだけ時間がたっていれば、件の姫はすでにこの世を去っているはずだ。
つまり、目の前のロエナは勇司の知る姫とは別人だということになる。
しかし昨日ノアは「王宮には勇司を何より大切に思っている人」がいると言っていた。
それだけの時間がたっていて、勇司を何より大切に思う人が残っているとは到底思えない。
「どうかされましたか?」
考え事をしながら、ついロエナの顔をじっと見つめてしまっていた。
ロエナの護衛騎士が、厳しいまなざしを俺に向けている。
しまった、とすぐに非礼を詫びた。
ロエナは微笑んだまま謝罪を受け入れてくれたので、俺は胸を撫でおろす。
「……本物のお姫様だ……」
恍惚と、妻が呟く。
どうやら非礼を働いていたのは、俺だけではなかったようだ。
「……こら!あんまり見つめたら失礼になるって、昨日言われただろ!」
「だって、すごくかわいいんだもん!見ないなんて無理だよ」
妻が口をとがらせると、ロエナがクスクスと笑った。
「ふふふ、かまいませんよ。私でよければ、いくらでもご覧ください」
そう言って、腕を広げてくるりと回る。
王族とは思えないサービス精神だ。
妻はそんなロエナを「かわいい、かわいい……」と連呼しながら眺めている。
護衛騎士はしばらく険しい顔をしていたが、妻の様子にほだされたのか、表情を緩めた。
先程までは冷たい印象だったが、表情が和らいだら、ずいぶん朗らかな印象になる。
おそらくこちらが、彼の素なのだろう。
「私ももう25なので、かわいいと言われる歳ではないのですが……これほど素直に言われると、嬉しいものですね」
そう言ってあどけなく笑うロエナは、どう見ても10代の少女にしか見えない。
父と言い娘と言い、見た目が歳をとらないのは遺伝なのだろうか。
和やかな空気の中、やんわりと微笑んでいたノアがふいに口を開く。
「姫様。あなたにお話ししたいことがあります」
その瞬間、ピリッと空気が張り詰めたのがわかった。
ロエナは笑顔を崩さなかったが、先程までと異なり、目が笑っていない。
ノアは気にせず「姫様はご結婚の予定はないと聞いています」などとデリケートな話題を口にする。
その言葉に、余計に空気が凍り付く。
護衛騎士に至っては、腰の剣に手を添えているほどだ。
「そうですね。結婚の予定はありません」
「それはどうして?」
「……あなたにお話しする理由はありません」
ロエナは冷たく突き放すように言った。
触れられたくない話題だったのだろう。
しかしノアはまだまだ止まらない。
「もしも、僕らがドラゴン討伐の褒賞に、あなたとの結婚を望んだらどうなるかな?」
言い終わる前に、護衛騎士が剣を抜き、ノアにその刃を向けた。
額には青筋を立てていて、その瞳は怒りでメラメラと燃えている。
「先程から貴様……姫様に向かって無礼だとは思わんのか?」
「そうだね、ちょっと意地悪な言い方だったかな?」
「貴様……っ!」
護衛騎士があまりにも怒りで顔を真っ赤にしているので、血管が切れてしまわないかと心配になる。
本来なら剣を向けられているのアの心配をする状況かもしれないが、あの護衛騎士ではノアに傷ひとつつけることは叶わないだろう。
ノアは楽しそうに笑って「ごめんごめん」と軽く謝った。
「僕はただ、お姫様の気持ちを確認したかっただけだよ。君が今でも、彼を愛しているのか知りたかったからね」
「彼……?」
ついポロリと呟いた俺に、ノアが視線を向け「昨日話したでしょ?」と少し呆れた声を出す。
俺はずっと頭の中をぐるぐる回っていた疑問をノアにぶつけることにした。
「彼女が、勇司くんが言っていたお姫様なのか?」
ノアは少し驚いた顔をして「もちろん」と答えた。