229 新たな日常
日常は、思っていたよりもすんなり戻ってきた。
妻や義母には少しのんびりすればいいと言われたが、日本に帰ってきてから半月もするころには仕事も再開した。
久しぶりの通勤電車の圧迫感すら懐かしかった。
娘は異世界で暮らすことになったが、住民票をあちらに移すことはできない。
役所にそんなことを言ったら、おかしなやつだと思われるだけだろう。
だからといって、娘の存在をなかったことにはしたくなかったし、死んだことにもしたくなかった。
そのため不本意ながらも、これからも失踪者として扱われても仕方ないとあきらめていた。
しかし娘の所在については、ノアが記憶や記録を操作し、辻褄を合わせてくれた。
娘は海外に留学したことになり、その後向こうに永住することを決めるという筋書きだ。
異世界は海外ではないが、あながち嘘ではないだろう。
自治体や学校の手続きをどうしたのか、詳細は「企業秘密」だと濁されてしまったが、うまくやってくれたらしい。
ちなみに、娘の失踪がなくなったことによって、俺の会社の休業理由は病気療養に変更されていた。
病院の書類までしっかりと準備されていて、改めてノアに感謝した。
ただし、異世界転移被害者の会関係者の記憶は、そのままにしておいてくれたらしい。
交流をこれからも続けられるようにとの配慮が、なんとも嬉しかった。
異世界とこちらの世界を繋ぐ鍵は、基本的に自宅で管理することになった。
世界がつながるとき、鍵の傍にある扉が白い扉に変質する。
そのため、職場や取引先なんかでうっかりつながったら困るだろうと妻と話した結果だ。
鍵は所有者から一定時間離れると手元に戻ってくる仕組みなので、長時間家を空けるときは妻が持ち歩いてくれている。
また異世界間を移動するとき、時間の経過に誤差がでることが多いが、白い扉に関しては気にしなくていいとノアに言われた。
なんでも、普段扉は閉じているが、二つの世界を繋ぐ道は固定されているから、時間がずれることはないらしい。
しかし時間のずれの問題がないからと言って、事前連絡もなしに向こうにいきなり押し掛けるわけにはいかない。
魔王は気にしなくていいと言ってくれたが、こちらで娘が結婚していたとしても、無断で訪問することはしないだろうというと「そういうものか」と納得してくれた。
前もって決めたルールは、二つ。
訪問前に白い扉を通して手紙を送り、相手の返答を得ること。
ただし緊急時は、事前の連絡なしで扉を使用すること。
手紙を送るときは、白い扉を開かず、下の隙間から手紙だけを差し入れることになった。
手紙を届けるたびに扉を開けていては、プライバシーの確保が難しいと判断したからだ。
うっすら扉を開けて手紙を差し入れようかと話していたら、ちょうど遊びに来ていたノアがこの方法を提案してくれた。
まるで実態のあるメールのようで、なんだかおもしろい。
ちなみに娘とやり取りするために、妻がかわいらしい便箋と封筒を買い込んでいたのが微笑ましかった。
娘からは訪問を知らせるもののほかにも、頻繁に手紙が届く。
少し前には、魔王との婚約発表が盛大に行われたことを知らせてくれた。
参加も打診されたが、人前に出るのは俺も妻もあまり得意ではないため、遠慮した。
代わりに、結婚式には必ず出席すると約束した。
結婚式は、娘が出産してしばらくしたころに行うという。
妊娠中に行うには、準備期間が足りないようだ。
一国の主でもある魔王の結婚式に招く来賓は多く、遠方から参列するものも少なくない。
それに娘の体調を最優先にという魔王らしい理由も相まっての決定だった。
結婚より先に子どもが生まれると非難を浴びるのではないかと危惧していたが、サーシャによるとまったく問題ないらしいので安堵した。
むしろ「何が問題なんだ?」と首を傾げられたくらいだ。